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《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


幕府山事件の犠牲者数を算定するにあたって、まずその前段の作業として紅卍字会の埋葬記録から関係する項目を拾っていく。



(クリックで拡大)





《要旨》


1)幕府山事件の遺体の地理的範囲は、魚雷営と草鞋峡の両現場および収容所から上元門を経て両現場へ向かうエリアに限定される。

2)紅卍字会の埋葬記録から条件に合致する項目を抜き出すと、魚雷営での収容574体、上元門内での収容591体、大渦子(=草鞋峡現場)での収容1,409体、の合計2,574体が該当する。(上図A〜E項)

3)大渦子での収容1,409体については、山田支隊が事件直後に河に投げ入れたものである。通常なら流れていくところだが、ここは地形的な関係から流れにくく、むしろ滞留するような場所である。さらに、揚子江の水位の季節変動のため、山田支隊が投げ入れた時点では水位が下がり続けていた。そのために、紅卍字会の遺体収容時点では水位が1m前後も低くなり、遺体の山のほぼ全体が陸の上にあった。

4)その他に「収容:幕府山◯◯、埋葬:下関石榴園」などとある複数の項目(FとG項)に合計4,296体ある。最終的な試算をまとめていたところ、このうちF項1,346体については試算値と極めて近似していているため、幕府山事件のものであると判断できた。これで幕府山事件に関する地上遺体については全て紅卍字会の埋葬記録から特定できたことになるので、G項2,950体については無関係と考えられる。



(捕虜移送ルートからの絞り込み)


冒頭の図表において、捕虜収容所から魚雷営および草鞋峡の両事件現場へ至る道筋を緑の線で示した。

事件は、捕虜移送隊列の最後尾が現場に到着し終わる前に始まってしまったと考えているが、そうであったとしても、この事件に関係する遺体の地理的範囲は、魚雷営と草鞋峡の両現場および移送経路の周辺に限定されるはずである。

紅卍字会の埋葬記録から、上記の条件に合致しそうな項目を拾っていけば幕府山事件の犠牲者数をある程度絞り込むことができる。

以下、個々の項目について説明する。



余談1:
いきなり余談だが、南京戦を調べていると、日本軍は「戦場掃除」として遺体の片付けをしばしば行っていることがわかる。その際に、戦友の遺体は別扱いだが、中国人(軍民問わず)の遺体については、埋葬作業のようなことはしていない。まさに片付けであり、自分達が使う道路や施設周辺から遺体を撤去し、それらを近くの手頃な場所(濠でも河でも空き地でも)にまとめて放り込むのである。つまり、日本軍による戦場掃除の場合は遺体はあまり長い距離を移動していないと思われる。その放り込んだ先が地上の場合、後日、紅卍字会の埋葬対象となる。


余談2:
本考察において「上元門丁字路」というのを多用するが、収容所から北上(北西)して上元門に差し掛かった地点で「車道」を見れば丁字路である。左に行けばA地点、右に行けばB地点方向。そのまままっすぐ行けば揚子江岸に出るが、この道は自動車の通行に適さない「小道」になる。歩行者で見れば十字路になる。





《1. 大渦子の1,409体》


これは冒頭の図表でのE項である。

この3/2に大渦子で収容した1,409体は、確実に幕府山事件に関係している。

この1,409体に関連して、上図の永清寺に「ニセ和尚」として潜伏していた鈕先銘氏が草鞋峡での事件について書いている。長文なので関係する箇所だけセンテンス単位で抜粋する。文面と順序は変えていない。


(センテンス単位の抜粋)

★永清寺の下流一~二キロの沿岸に“大湾子”と呼ぶ場所がある。ここは非常に浅い砂洲である。流れが白鷺洲で二つに分かれているので、長江の本流は八掛洲の北側を流れており、中洲の南側を通る流れは、流れが緩慢で、そこに浅い砂洲を形成しているのである。

★当然、あの機関銃の音がした日から一○日以上たってからであるが、我々はようやく、鬼子兵が大湾子で機関銃を用いて我らが同胞の俘虜兵二万以上を虐殺したことを知ったのだ。

★後日の不完全な統計によると、南京の役でわが軍は三○万虐殺されたものである。私がこの目で見た死体だけでもおよそ二万ほどあった。それが大湾子のあの死体の山である。

★鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない。しかし、冬の、水の枯れている――まさに蘇東坡先生の言う、山高く月は小さく、水落ち、石出づる季節に、しかも大湾子の流れはあのようにおそいのに、どうやってあんなにたくさんの死体を流し去ることができようか?

★しかし、大湾子の方は二万を越すもので、木の枝で長江に押し込んだにもかかわらず全部流してしまえるわけもなく、結局あのように多くの屍体が浅瀬と砂洲のかたわらに滞積される結果となったのである。

★死体の処理は一―二か月たってからようやく実施された。正確な日にちは覚えていないが、大虐殺のあったあの夜は月夜だったから、暦で換算すると旧暦十一月十五日前後で、たしか新年まで約一か月半を残す頃だった。

★季節はすでに厳寒に入っており、空気は乾燥していて雪も降らなかったので、寺の周りの死体はまるで大自然の冷蔵庫の中に放置してあったようで、腐乱していなかった。しかし、大湾子の死体は違った。一部は長江につかっており、砂洲の上のも、潮に浸蝕されて腐乱してしまったのだ。

★大湾子に近づくと、臭いだけではなかった。目で見て驚いたことに、山のように死体が一つの小さな区域の中に集められていたのだ。

★私は虐殺当時の情況を想像することはできない! いくらたくさんの機関銃を使ってもこんなせまい場所で一度に二万人も殺せるわけはない。きっと何度かに分けておこなわれたのだろう。

★あの日は、紅卍字会は第一回の視察をして、埋葬の方法を研究しただけであった。実際片付けを始めたのはそのあとで、一か月ほどかけて連続して少しずつおこなっていった。私はただ最初のその一回しか行かなかった。その後は用があるからと言って二空一人に行かせた。なぜかと言うと、私はニセ和尚で、中国人から見るとどうも簡単に見抜かれそうだったことと、あの悲惨な様子を二度と見るにしのびなかったからだ。


鈕先銘『還俗記』/南京事件資料集 2 中国関係資料編


全文は次のサイトを参照。




ちなみに、冒頭の図中にある「大渦子」と鈕先銘氏の文面にある「大湾子」は同一地点である。南京関連で調べていると、地元の中国人は地名を必ずしも固有名詞で言うわけではなく、地形的特徴を通称の地名として使うのを見かける。
地図で見るとわかるように現場の前の揚子江支流の流れは屈曲している。その水の流れに注目すれば「大渦子」、岸辺の形状に注目すれば「大湾子」となる。と理解している。


それで、紅卍字会の埋葬記録で「大渦子」で収容した遺体数が1,409体だが、同じ現場の遺体数を鈕先銘氏は「およそ二万ほど」と書いている。

とはいえ、文面からわかるように鈕先銘氏は自分で数えたわけではない。彼は、紅卍字会の第一回目の視察の際に同行したのみである。

では、「二万」がどこから来たかというと、おそらく山田支隊が捕らえた捕虜数として世間に出回ってる数字の中での最大値が2万なので、これがそのままそっくり処刑されたと認識していると思われる。

つまり、草鞋峡の事件の前夜にも魚雷営で事件があって、少なくともその分の人数は減っているというような認識がない。

このような事例は他にもあって、第65連隊第1大隊所属の栗原利一伍長はスケッチの中で、捕獲した捕虜人数と草鞋峡への移送捕虜数のいずれも13,500人と認識している。

栗原利一資料集(栗原スケッチ)
http://www.kuriharariichi.com/index.html



ともかく、鈕先銘氏が「私がこの目で見た死体だけでもおよそ二万ほどあった」と書いた遺体の山は、紅卍字会の埋葬記録でいうと1,409体となる。



(水葬の流失について)

鈕先銘氏は「鬼子兵が大湾子を虐殺場に選んだのは、あるいは長江の流れを利用して死体を流し去ってしまうためだったのかもしれない」と書いている。

たしかにこの場所ならば日本軍の「戦場掃除」は河に流してしまうのが定型パターンでもある。ところが珍しく遺体の山が残ったという。

鈕先銘氏の描写による再現イメージを示す。



(クリックで拡大)




ここでの山田支隊の片づけというのは、河に押し流したというよりも水辺の一箇所に山積みにしたかのように見える。

そうなったのは現場の地形的特徴と、さらには揚子江の水位の季節変動があった。





そもそも、草鞋峡の現場付近は地形的な関係で河に投げ入れても流れて行きにくい。むしろ滞留する方向にある。浅瀬ならなおさらである。


次に、揚子江の水位の季節変動がある。

鈕先銘氏は、「死体の処理は一~二か月たってからようやく実施された」と書いていて、その第1回目の視察にのみ同行したという。つまり、目撃したのは1月中旬~2月中旬と思われる。

その時期だと揚子江の水位は最低水位にあったものと思われる。

紅卍字会の記録では、大渦子の1,409体は3月2日に計上されている。

鈕先銘氏の話と照合すると、作業は2月一杯くらいかかったものと思われる。地理的に言えば、ここは生活空間でもなく優先順位的には低そうだから、他の作業の合間にやったのかもしれない。

それはともかくとして、3月2日に作業完了ならまだ水位は最低水位からほとんど上昇していなかった。


そこからグラフを見て遡ると、事件直後の山田支隊は大渦子の水深約1mの地点に遺体を山のように投げ入れたものと思われる。作業時点では「河に押し流した」つもりだったはず。

しかし、12月はまだ水位がどんどん低下する時期だった。

結果的に、鈕先銘氏が目撃した時点では遺体の山はほぼ地上にあるように見えた。ただ、それ以前は遺体は水に浸かっていたので、鈕先銘氏は「砂洲の上のも、潮に浸蝕されて腐乱してしまった」と認識した。

そうすると、この大渦子=草鞋峡現場で収容したとされる遺体数は1,409体だが、山田支隊の片づけ後もほとんどがここに残ったままになっていたと考えた方が良さそうである。

というのも、冬の遺体が腐敗して水に浮くには時間がかかる。

平均浮揚発見日数は21.44日、という数字がある。

詳細は、次の記事中の論文を参照。



単体なら平均21日後には浮遊し始めるのだが、山と積まれて上から荷重がかかっていれば動かない。そして、その頃には水が引いて山の全体が陸地にあった。

つまり、この山積み以外に河に流れていった遺体数を過剰に見積もる必要はなさそうということである。


逆に、地形的にはここは上流からの漂着も気になる。

しかし、鈕先銘氏は「山のように死体が一つの小さな区域の中に集められていた」と書いている。漂着遺体なら、水辺に薄く広く打ち上げられるはずだから、これとは違う。

従って、「大渦子の1,409体」に事件とは無関係の遺体が混ざっている可能性については気にしないことにする。




《2. 魚雷営の574体》


これは冒頭の図表のA~C項を指す。

紅卍字会の2月20,21,22日の3日間に、魚雷営埠頭で収容して「下関草鞋閘空地」に埋葬した合計は574体である。(197+226+151=574)

ちなみに、「草鞋閘」と「草鞋峡」の2つの地名にも本質的に差異はなく、その場所に立って幕府山の切り立った崖を見上げれば「草鞋峡」となり、目線を下に転じて支流の狭い河の流れに注目すれば「草鞋閘」となる。と理解している。ついでに書くと、草鞋峡の下関寄りに草鞋街という街地区もあり、この辺一帯の地名であるらしい。


それで、この574体の中にも幕府山事件と無関係の遺体が混入している可能性はあるが、少なくともこの項目自体は幕府山事件との関連が非常に深いと考えている。その理由を以下に述べる。



(草鞋峡遇难同胞纪念碑)

今の中華人民共和国において、南京の草鞋峡付近に「草鞋峡遇难同胞纪念碑」がある。冒頭の図に記載した地点である。

また、次のサイトの表のNo.6がそれである。その碑文と訳文を示す。

訳文:1937年12月13日、日本軍の南京侵攻後、下関の川沿いに逃げてきた多数の難民と武装解除した兵士、合計57000人余りが日本軍に捕えられ、幕府山麓の四五所村に幽閉された。18日の夜、全員を縛り上げて草鞋峡まで護送し、そこで機関銃による銃撃を受けた。(後略)

碑文:一九三七年十二月十三日,侵華日軍攻占南京後,我逃聚在下關沿江待渡之大批難民和已解除武裝之士兵,共五萬七千餘人,遭日軍捕獲後,悉被集中囚禁於幕府山下之四五所村。因連日慘遭凌虐,凍餓致死一批;繼於十八日夜悉被捆綁,押解至草鞋峽,用機槍集體射殺。少數傷而未死者,復用刺刀戳斃;後又縱火焚屍,殘骸悉棄江中。悲夫其時,屠刀所向,血染山河;死者何辜遭此荼毒?追念及此,豈不痛哉?!爰立此碑,謹志其哀。藉勉奮發圖強,兼資借鑑千古。


侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑
https://zh.wikipedia.org?curid=3591632



内容的にまさに幕府山事件であり、特に草鞋峡の現場で起きたことを書いている。

ただ、この「草鞋峡遇难同胞纪念碑」がなぜこの場所にあるのか、その意味がイマイチわからないのである。

とはいえ、上の「侵华日军南京大屠杀遗址纪念碑」の一覧を全て確認してわかったことは、今の中国当局は南京戦において「ここで殺された」もしくは「ここに埋葬した」とされる地点にこれらの記念碑を建てている。

そのパターンからすると、この「草鞋峡遇难同胞纪念碑」は、紅卍字会の埋葬記録にある「下関草鞋閘空地」を指しているのだろうと推測できる。


ちなみに紅卍字会に埋葬業務を委託した特務機関員の丸山進氏は、揚子江に近い場所は穴を掘っても地下水が上がってきて埋葬に適さないので、「盛り上がった所を選んで埋葬」したと説明している。

そのために、魚雷営埠頭で収容した遺体を「下関草鞋閘空地」まで運んで埋葬したのだろうと考える。

詳細は次の記事を参照。

《南京事件》紅卍字会埋葬記録の検証
http://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/c9f414da142a782a28bc89d8db538f6b



その「下関草鞋閘空地」の候補地として、地形特徴的に有望なのが「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が建っている場所である。



(魯甦の証言)

上述の「草鞋峡遇难同胞纪念碑」に関係するのが、東京裁判に提出された「魯甦」の証言である。

内容的に「草鞋峡遇难同胞纪念碑」の碑文と同じであることがわかる。そして、記念碑の方は1985年の建立なので、魯甦の証言を元に記念碑が建立されたとのだと思われる。

法廷証第324号: 南京慈善団体及人民魯甦ノ報告ニ依ル敵人大虐殺ノ概況統計表
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273902/17



南京地方法院検事への魯甦に依る証言

敵軍入城後、将に退却せんとする国軍及難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山附近の四、五箇村に閉込め、飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間に到り、生残せる者は鉄線を以て二人を一つに縛り四列に列ばしめ、下関・草鞋峡に追ひやる。
然る後、機銃を以て悉く之を掃射し、更に又、銃剣にて乱刺し、最後には石油をかけて之を焼けり。
焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。
此の大虐殺中に在つて教導総隊馮班長及び保安警察隊の郭某は縛を解きて逃亡し、佯つて地上に仆れ屍を以て自分の身を覆ひ難を免るを得たり。
但、馮班長は左肩に刺刀傷を、郭某は背中に火傷を負へど、上元門大茅洞に逃れ、私に由り便衣を求め、換衣して窃に江を渡り八卦州に到りて始めて危難より逃る。
当時、私は警察署に勤務しあるも、敵市街戦に際し敵砲弾により腿を負傷し、上元門大茅洞に隠れ居り、其惨況を咫尺の目前に見し者なり。故に此の惨劇を証明し得る者なり。
証人姓名 性別 年齢  原籍 職業 住 所
魯甦   男  卅三才 湖南省 政 南京義興路五号


南京地方法院検事への魯甦に依る証言


文字起こしはこちらのサイトの文面を拝借しました。

南京地方法院検事への魯甦に依る証言
http://kk-nanking.main.jp/butaibetu/yamada/Chinese_side.html#lu_so



それで、問題になるのは言及されている人数についてである。



(「57,418人」の謎)

「草鞋峡遇难同胞纪念碑」では「57000人余り」と丸められているが、魯甦の証言には「国軍及難民男女老幼合計五万七千四百十八人」と書いてある。

57,418人とは膨大な人数である。

その魯甦は上元門大茅洞に隠れていて、その惨状を目の前で見た、と書いている。

幕府山事件に関して近年までに判明している数字としては、鈕先銘氏の話で書いたように、山田支隊が捕らえた捕虜数として世間に出回ってる数字の中での最大値が2万である。

これを遥かに超える「57,418人」というのは、もはや荒唐無稽の域である。また、たとえ現場を見下ろせる場所にいたとしても、真下にいる敵から隠れながらそのような精緻な人数を数えられるわけがない。

そもそも、山田旅団長が日記に記した捕獲捕虜人数でも、14,777人である。

しかしながら、この「57,418人」というのは笑い飛ばしていい数字ではなく、実は根拠がある数字だろうと私は推測している。

ヒントは既に上述してあるのだが、改めて説明する。

紅卍字会の埋葬記録は、次のように「埋葬箇所」ベースで記載されている。埋葬記録だから当然である。



(クリックで拡大)



法廷証第326号: 世界紅卍字會南京分會救援隊埋葬班埋葬死体数統計表
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/10273906/3



日本が敗戦して東京裁判に向けて準備が始まった際に、当然ながら中国側は草鞋峡で大量殺害があったということを思い出し、紅卍字会の埋葬記録から該当する数字を探したはずである。

おそらく、上段の「埋葬箇所」の中から単純に「草鞋峡」あるいは「草鞋閘」という文字列を探したのだろうだが、それだと上の表の3項目しか見つからなかったはずである。

すなわち、この3項目である。

紅卍字会の2月20,21,22日の3日間に、魚雷営埠頭で収容して「下関草鞋閘空地」に埋葬した合計は574体である。(197+226+151=574)


574体。


調べた人物は「そんなに少ないはずがない」と考えたのだと思うが、その結果として「57,418人」に化けたのだろうと私は推理している。山田支隊が捕らえた捕虜数として世間に出回ってる数字の中での最大値が2万なのだから、これを下回る数字を出すことはできなかったはず。

私もかれこれ10年ほど本件を調べているわけだが、それでわかってきたのは、このいわゆる“南京大虐殺”という事案は、この類の話が多い。そんないい加減な話があるのかと思う人も多いだろうが、そうなのである。



以上は脇道で、やっと冒頭の図表のA~C項574体に話を戻すが、魚雷営の地上で収容した遺体というのは、魚雷営への捕虜移送コース上で現場到着前に事件となって結果的に路上付近で射殺された遺体と、少なくとも地理的には整合している。

日本側で「幕府山事件」と称している事案は、中国側でいうと「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が示している事案である。

そして、問題のA~C項574体は「下関草鞋閘空地」に運ばれて埋葬された。

私は、紅卍字会が埋葬したその「下関草鞋閘空地」の場所に「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が建立されたのだろうと推理している。

そして、その碑文に記された「五萬七千餘人」、魯甦の証言でいえば「五万七千四百十八人」、「下関草鞋閘空地」への埋葬数574体。

中国側の認識としても非常に因縁が深そうに見える。

それゆえに、このA~C項574体は幕府山事件のものと判断していいだろうと考えている。




《3. 上元門内の591体》


これは冒頭の図表のD項を指す。

冒頭図表に示したように、上元門というのは収容所を出て魚雷営と草鞋峡の両現場へ道路が分岐する丁字路の辺りを指す。(車道としてみれば丁字路、歩行者なら十字路)

ここは南京城外だが、もっと古い時代(明の時代)にはさらに遠くの外周を囲む城壁があったらしく、上元門もその時代の城門のひとつと思われる。(麒麟門、堯化門、仙鶴門なども同様)

それで埋葬記録に戻ると、「上元門内一帯で収容」し「下関上元門外」に埋葬したとある。

では、上元門内とはどの辺を指すのかというと、上元門の丁字路から幕府山西面に沿って古い城壁が伸びていて(あるいは幕府山それ自体を城壁と見立てて)、その揚子江側が外側、上元門から収容所の方向に下がっていく方向は内側、となる。

さらに地形的に言えば、上元門丁字路にて揚子江を背にして立てば、左側に幕府山、右側に老虎山があり、正面となる上元門内は山に囲まれた谷間になっている。連なる山々を城壁と見立てれば、その谷間はまさに「上元門内」と呼ぶにふさわしい。(と、理解している)


話を戻すが、遺体を収容した上元門内というのはちょうど収容所から上元門丁字路までの区間と重なる。

そして、埋葬場所の上元門外だが、上述したように「揚子江に近い場所は穴を掘っても地下水が上がってきて埋葬に適さない」という条件と、上元門の外側という条件が重なる場所を探すと、やはり「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が建っている地点が有力候補となる。

したがって、この上元門内の591体というのも、魚雷営および草鞋峡への捕虜移送コース上で現場到着前に事件となって結果的に路上付近で射殺された遺体と地理的に整合しているのである。




《4. 下関石榴園の1,346+2,950体》


これは冒頭の図表のF項とG項を指す。

最終的な試算をまとめていたところ、F項1,346体は試算値と極めて近似しているため幕府山事件のものであることがわかった。

詳細は次の記事を参照。




これにより、幕府山事件に関する地上遺体については全て紅卍字会の埋葬記録から特定できたことになるので、G項2,950体については無関係と考えられる。

具体的な記録を以下に並べるが、F項とG項は紅卍字会の記録上は収容場所の表記が似通っていて、埋葬場所も同じである。そのために埋葬記録だけ見ていてもF項が幕府山事件のものだとは見抜けなかったのである。

埋葬場所/埋葬数/日付/収容場所
下関石榴園,147,2.21,幕府山脇で収容
幕府山下 ,115,2.21,草鞋閘後方で収容
下関石榴園,1902,2.26,幕府山脇で収容
下関石榴園,1346,3.01,幕府山付近で収容(=F項)
下関石榴園,786,3.03,幕府山付近で収容

(F項以外の合算がG項)


なお、1点だけ「幕府山下」埋葬115体については他と埋葬場所が異なっているが、「草鞋閘後方で収容」となると幕府山事件とは無関係と断定して良いのかわからないので、G項に含めている。


それで、以下に「幕府山下」を除く4点の埋葬場所「下関石榴園」とはどこか、を説明する。



この「下関石榴園」というのは、実はE項の大渦子で収容して「和平門外永清寺付近」で埋葬したという、その永清寺の敷地内なのである。

実質的には同じ場所と言って良い。


再び、鈕先銘氏の『還俗記』から関係する箇所のみ抜粋する。

(念の為。石榴=ザクロ、である。)

しかし夜に近い、夕陽の沈む頃、突然一群の鬼子兵がやって来た。武器は何も持たず、ただオノとのこぎりを持って来て、我々のいた六畝ほどの寺の庭で、たくさんのザクロの枝を切っていった。長さは五~六尺、先にまたのついた枝を持っていった。

(中略)

あの晩、何も持たない鬼子兵が永清寺付近でザクロの枝を切っていたのは、一かためずつ死体を積み上げるための道具にするためだったのだ。


鈕先銘『還俗記』/南京事件資料集 2 中国関係資料編



全文は次のサイトを参照。




そして、これもkk氏のサイトから拝借するが、次の地図において永清寺の両側、幕府山に沿って「果樹園」の地図記号が並んでいるのが確認できるはず。

ここが紅卍字会の埋葬記録に登場する「下関石榴園」と思われる。



(クリックで拡大)



南京附近地図(縮尺 1:10000)  參謀本部陸地測量總局
http://kk-nanking.main.jp/sougou/map/nanking_1_10000/nanking1_10000.html




さら、『南京の氷雨』でも著者の阿部輝郎氏が現地調査に赴き、地元の人に永清寺のあった場所まで案内してもらい、まだ残っていたザクロの木を見せてもらった話を書いている。どうやら、当時はザクロが永清寺の収入源でもあったらしい。(引用省略)



ともかく。石榴園は永清寺の庭であったということで話を戻す。


FとG項の埋葬場所「下関石榴園」とは、E項の「大渦子」で収容して「和平門外永清寺付近」で埋葬したという記録と、実質的に埋葬場所が同じだったのである。

遺体を運ぶ手間を考えれば、収容場所もそう遠くないはずである。




《改版履歴》


2022.09.17 初版




《関連記事》


《幕府山事件》概要編
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/4997887cce0ec9d9cc7e17f92562d37c

《幕府山事件》地理編
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(前編)
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/67c2655b8679239d13220dde13c349a7

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
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《幕府山事件》試算モデル
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/548a45b8a1f4e8c8c0fee0fab3b670e0

《幕府山事件》本当の意図
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/a8da8d8a68b1117afd6ea3cf649d104f



★南京大虐殺の真相(目次)
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/9e454ced16e4e4aa30c4856d91fd2531










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