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《幕府山事件》自衛発砲説

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


この記事では、幕府山事件のいわゆる「自衛発砲説」について考察する。


《要旨》


1)幕府山事件については、「自衛発砲説」vs「計画的処刑説」という対立で論じられることが多い。

2)路上で1千体以上の遺体を目撃した同盟通信記者・前田雄二氏は事件の翌日に警備司令部から、万を超える投降兵を武装解除し「江北へ逃げていくことを教唆」したところ大乱戦となり「護送中の日本部隊を襲撃」してきたので機銃掃射したという「自衛発砲説」の説明を受けている。

3)事件4日後に上海派遣軍・飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に「自衛発砲説」を書いている。

4)遺体は事件現場にのみあったのではなく、道路などに延々と連なっていたとの複数の証言がある。

5)連行された捕虜の中にも、行進中に発砲が始まったと証言している人(殷有余氏)がいる。

6)事件現場では混乱から日本軍将兵に死傷者が出ている。

7)相当数の捕虜に逃げられたことを飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に書いている。

8)従って、これらの情報を俯瞰して見る限り、計画的処刑の意図があったかなかったかには関係なく、現場で実際に起きたことは「自衛発砲説」を示唆しているとしか思えない。




上図については後述する。


《1. 幕府山事件の争点》


幕府山事件とは、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』から引用すれば、次のような出来事。

第十三師団において多数の捕虜を虐殺したと伝えられているが、これは15日、山田旅団が幕府山砲台付近で1万4千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約8千余を収容した。ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。(P437)

戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> 防衛庁防衛研究所戦史部


これに対して、次の書籍の陣中日記などに基づいて異論が付けられていて、いまだに細部を巡って議論になっている。(以下、「小野日記」と表記する)

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/


そして、その小野日記などに立脚した番組も放送された。

NNNドキュメント:シリーズ戦後70年 南京事件 兵士たちの遺言
https://www.happyon.jp/watch/60738022

NNNドキュメント:南京事件Ⅱ
https://www.ntv.co.jp/document/backnumber/archive/post-93.html


上記番組に対応した書籍版はこちら。

「南京事件」を調査せよ (文春文庫) 清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/


冒頭の『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』に示されたような説明は「自衛発砲説」と言われる。これに対して、小野日記などに基づいて、NNNドキュメントなどは「自衛発砲説は戦後の創作による嘘である」とし、幕府山事件は計画的な捕虜処刑であったと主張する。

なお、この幕府山事件をめぐっては従来は12月17日の草鞋峡での事件以外に、その前夜にも同様の事件があったのではないかという点が争点になっていたが、『南京の氷雨 /阿部輝郎』で前夜16日の事件を当日の指揮官であった角田中尉(第5中隊長)が証言しているので、その点についてはもはや疑義はないものとする。

これを踏まえて、この記事では16日と17日の両事件を俯瞰しつつ、「自衛発砲説」の信憑性を検証する。

ただし、16日の魚雷営での事件と、17日の草鞋峡の事件についての個別詳細は、分量の関係で別記事とする。




《2. 同盟通信記者・前田雄二氏の証言》


南京戦に従軍した同盟通信記者・前田雄二氏が1982年に『戦争の流れの中に : 中支から仏印へ』という著書を出している。その中の南京戦に関係する部分だけを独立させた小冊子『南京大虐殺はなかった』という著書がある。

これをよく読むと、幕府山事件直後の現場付近を目撃している。そして、その件について事件翌日に日本軍の警備司令部から「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」と説明を受けている。即ち、自衛発砲説である。

入城式

十七日午後一時半、松井石根軍司令官が、朝香宮鳩彦、柳川兵助の両師団長を従えて、馬上豊かに中山門から入城した。中山路の両側では、将兵の指揮刀、銃剣がススキの穂のように立ち並んだ。

下関からは、長谷川清艦隊司令長官が海軍部隊を従えて行進してくる。上空には陸海の航空部隊の編隊が爆音を轟かせる。やがて国民政府官舎の屋上に大日章旗が掲げられ、「君が代」が鳴り渡った。

松井軍司令官以下が国民政府楼上に姿を現すと、「万歳」の声が津波のように城内にひびいた。記者席には、約百名の報道陣が集まり、その中には西条八十、大宅壮一、山本實彦改造社長などの姿もあった。

この夜、私たちは野戦支局でふたたび祝いの宴を張ったが、この席で、深沢幹蔵が驚くべき報告をした。深沢は、夕刻、一人で下関に行ってみたが、すぐ下流に多数の死体の山があることを知らされた。行ってみると、死体の山が延々と連なっている。その中に死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していたという。


死んだ部隊

私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。

「機銃でやったらしいな」

と祓川が言った。

「それにしても多いなあ」

千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。

城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。(P121)


南京大虐殺はなかったー『戦争の流れの中に』からの抜粋 /前田 雄二
https://www.amazon.co.jp/dp/4793903932/


前田雄二氏の証言はここにも登場している。

(同盟通信記者・前田雄二氏の証言)

ー 一般住民の大量虐殺はない ー
しかし、占領後、日本軍による「虐殺」がなかったわけではない。私は、自分の体験をそのまま「戦争の流れの中に」に書いているが、異常な見聞の第一は、占領三日目のことである。

(中略:第一は軍艦学校で捕虜の処刑を目撃した話。第二は交通銀行の裏で捕虜の処刑を目撃した話。第三は挹江門の城門における死体の山。)

第四は、その翌日、揚子江岸に死体の山が連なっているとの情報を得て車を走らせたが、下関からさらに下った江岸におびただしい中国兵の死体が連なっていた。ざっと見て千は超えていた。帰って警備司令部に説明を求めると「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、われ先にと船に乗り、ジャンク船に乗り、板にまたがり、戸板を浮かべて脱出したが、とうていさばき切れるものではなかった。船に乗りすぎて沈没するもの、乗り切れない者が船べりを離さないから揚子江に落ち込む、そこで殺傷が起きるということで、パニック状態になり、双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」との答えだった。(P575)


魁 郷土人物戦記 /伊勢新聞社編


この文面は本人の寄稿ではなく、取材して聞き取った話を編集者が作文しているようである。そして、編集者はどうやら前田記者のこの話を陥落日の話と受け取ったようで、この文面の続きに第33連隊の参戦者から聞き取った陥落日の下関の混乱(船をめぐる混乱)の話を挿入している。

前田記者の上記の話に戻すが、警備司令部が語った船の混乱の話は確かに陥落日の描写が混ざっているようにも見える。そこを抜いて、特徴的要素を抜き出してみる。

「少数の日本部隊へ万を超える中国軍が投降してきたので武装解除し、江北へ逃げていくことを教唆したら、(中略)双方大乱戦となった勢が護送中の日本部隊を襲撃してきたため、機銃で掃射したものである」

(a) 万を超える中国軍が投降、武装解除
(b) 江北へ逃げていくことを教唆
(c) 双方大乱戦
(d) 護送中の日本部隊を襲撃
(e) 機銃で掃射

上記の全要素に整合するのは、南京戦の中では幕府山事件しか見当たらない。

しかも、『戦争の流れの中に』にはなかった要素がある。これは、いわゆる「捕虜解放説」を示唆している。

(b) 江北へ逃げていくことを教唆


また、この2つ。(c) は現場での乱戦、(d) は移送中の隊列に生じた事案、その2つを「勢」という文字でつなげている。現場で発生した乱戦が、移送中の隊列に波及した、と読める。

(c) 双方大乱戦
(d) 護送中の日本部隊を襲撃


そして、因果関係を見れば(c)(d)に続く次の要素は「自衛発砲説」を示している。

(e) 機銃で掃射


船の混乱の描写は微妙だが、警備司令部の説明は幕府山事件の要素を網羅的かつ簡潔に説明しているように見える。


なお、この話は事件翌日に前田記者に伝わっているので、部隊幹部の「口裏合わせ」があったとしても、その影響下にない。




《3. 幕府山事件の捕虜移送ルート》


前項の前田雄二記者の記述が幕府山事件直後の現場を見た証言である、と指摘した論者はあまりいなかったように思う。そこで、まずその点について確認していく。

以下に幕府山事件の捕虜移送ルート(緑)の推測図を示す。

ちなみに、下図では右上が揚子江の下流方向になる。左下が上流。


(クリックで拡大)


深沢幹蔵氏は17日夕方に上元門〜C地点〜魚雷営付近で路上の遺体を見たと思われる。

前田記者らは18日に「車を走らせた」というから、A地点からB地点に抜けるルートを通ったものと推定でき、その際に上元門~B区間付近の路上の遺体を目撃したと思われる。前田記者らの目算で千~2千の遺体。

計画的処刑が計画通りに実行されたなら、捕虜が全員現場に到着するのを待つはずであり、路上に遺体があるわけがない。『南京の氷雨』にて将校らは《偶発的事件》と証言している。


なお、16日魚雷営、17日草鞋峡の事件現場、および収容所の位置の比定については次の記事で詳述した。





(現場周辺での遺体の発生状況)

次に周辺状況を概観すると、12月13日の陥落日には中国側の南京守備隊が瓦解して敗走し、これを日本軍が追撃したので、この日に生じた戦死者は多かった。

続いて、南京城内に入城した第7連隊が12月14~16日に難民を収容していた安全区(城内)から「軍服を脱いで市民になりすましたと思われる青壮年」を連行し、揚子江岸の下関(上図では左下枠外付近)にて処刑している。その人数は6,670人と第7連隊戦闘詳報に記録されている。

それで、前田記者らの目撃談が上記の陥落日の戦死体、あるいは第7連隊の処刑の遺体の話かというと、それは違うと思う。

第一に、陥落日の戦闘で(火事は別として)敵遺棄死体に石油をかけて焼いたなどという話を見たことがない。陥落日の大乱戦の中でそのようなことをやっているヒマがあるはずもない。
また、13日の陥落日に生じた重傷者に対して、17日の深沢氏の目撃談「死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していた」というのは日数が経過し過ぎている。

第二は、第7連隊による処刑についてである。これを見物していた将兵の話を総合すると、埠頭(あるいは桟橋)に数十人ずつ並べて銃殺もしくは銃剣殺し、遺体はそのまま揚子江の水中に落とす、という方法であった。(「証言による『南京戦史』」等を参照)
その際に、千人規模の反乱や脱走、あるいはそれを追走しての陸上での銃撃があったという証言を見たことがない。

そうすると、消去法で考えても、上述の前田記者らの目撃談は幕府山事件の直後の事件現場を目撃したものと考えるしかない。

ちなみに、下関から魚雷営までの距離は(どこから測るかにもよるが)概ね2kmくらいである。現代人の我々の感覚からすると2kmを「すぐ下流」と言えるのか怪しいが、何しろ南京戦当時は日本兵も記者も上海から徒歩で南京に進んでいったである。その距離は直線距離でも300km。(記者の中には一部区間を自動車で進んだ者もいる)
その彼らの感覚からすると、2kmは「すぐ下流」になると思われる。



(自動車が通れる道路)

前田記者は、18日について「私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた」と書いている。当時の地図と地図記号を照合すると、点線で示された小道などは候補から外れる。

そのようにして、捕虜収容所から、事件現場(魚雷営、草鞋峡)への捕虜移送経路と、前田記者らが車を走らせたであろう道路が重なる区間を探すと、図中のA地点からB地点に抜ける区間が有力候補となる。

前田記者の「道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている」という文面からすると、死体の山があったのは道路上のみならず、道路よりも揚子江側の地上空間にも広がっていたようにも読み取れる。丁字路の上元門付近から特に草鞋峡方面は道路の山側に幕府山が迫っているため、もし捕虜移送中に事件が発生したとすれば、捕虜が逃げ出して距離を稼ごうとするなら平地である揚子江側に走るはず。斜面を駆け上がったのでは距離が稼げない。



参考までにヘッダ・モリソンが1944年頃に撮影した写真と、それに近い年代の地図を示す。地形的には草鞋峡付近は年代によって変化していて、この地形は南京戦当時とは異なる。

草鞋峡の現場は左下写真のほぼ真下くらいである。

写っている河が揚子江の支流であり、対岸は中洲。その左から奥にかけて中洲の北側を流れる揚子江の本流が見えている。その先の地平線が揚子江の北岸。


(クリックで拡大)


これらの写真は幕府山の上から撮影しているが、斜面が崖のようにきついのがわかる。これを下から見上げると、幕府山が渓谷のように迫ってきているのでこの付近を「草鞋峡」と称する。

それで、右下写真で崖下に見えるのが、「自動車での走行が可能らしき道路」に該当する。前田記者らが通ったと思われるルートをそのまま道なりに進めばこの写真の場所に至る。

一連の他の写真からは春の田植え時期の撮影と思われるが、南京戦は乾季の12月だったので揚子江の水位も下がり田畑や湿地帯も乾いているかあるいは凍結していて、崖下道路から揚子江岸辺方向へは比較的容易に走り抜けられる状況だったはず。




《4. 時系列の確認》


次に時刻を注意深く見ていく。


(クリックで拡大)


まず、深沢氏が17日の夕刻に下関のすぐ下流で見たのは、その前夜の16日夜に魚雷営で発生した事件の遺体と思われる。だから「死にきれず動くものがあると、警備の兵が射殺していた」のだとすると、経過時間的に辻褄が合う。

そして、17日の夜に前田記者らが「野戦支局でふたたび祝いの宴」をしていた頃、草鞋峡の現場には前夜の残りの捕虜が連行され、再び事件が起きつつあった。

その翌日18日に前田記者と祓川氏らが見たのは、16日の魚雷営で生じた遺体(=深沢氏が見たもの)に加えて、前夜17日の草鞋峡で生じた遺体も上乗せされた光景だったと思われる。

それで、城内に戻って警備司令部の参謀に尋ねたところ、まさに「自衛発砲説」的な説明を受けた、と書いている。

城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。

南京大虐殺はなかったー『戦争の流れの中に』からの抜粋 /前田 雄二



続いて、他にも「自衛発砲説」を補強するような証言などがありそうなので、以下に見ていく。

ただし、事件現場にいた当事者の日本軍将校は除く。(別記事で扱う)




《5. 殷有余氏の証言》


この書籍は、1980年代の教科書問題の頃に「日本が再び軍国主義化したら対日批判に使う」つもりで中国側で南京戦の被害者を調査したものである、と「訳者まえがき」に書いてある。

魚雷営の大虐殺

一九三七年十二月十五日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人九千余人は、日寇(*5)の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、殷有余ら九人が脱出したほかは全員殺害された。被害者殷有余が法廷でおこなった証言資料はつぎのように指摘している。「(農暦) 民国二十六年〔一九三七年〕十一月十一日(*6)、被害者わたくしは上元門において敵に縄で縛り上げられました。わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人で、胡姓の瓦葺きの家に押し込められました。十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです。」 この時の集団大虐殺は夜間におこなわれたため、殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた。

*5:日寇とは日本侵略者の意。あえて訳さず日寇のままにした。
*6:農暦十一月は新暦十二月。


証言・南京大虐殺 戦争とはなにか /南京市文史資料研究会
https://www.amazon.co.jp/dp/4250840247/


まず、日付について。

連行先が魚雷営とのことで、状況的には日本側の証言にある16日魚雷営の事件と一致しているが、上記引用分の冒頭には12月15日とあり、文面の解釈にもよるが1日ずれている。

ただ、殷有余氏の証言と思われる「」内をよく読むと、農歴(旧暦)の11月11日に上元門で縛り上げられて、翌々日の13日夜に魚雷営に連行されたとある。上元門というのは、現場となった魚雷営と草鞋峡の中間にある丁字路の場所。(車道として見れば丁字路、歩行者目線なら十字路)

一方で日本側の認識としては、前項の時系列の図を見てもらえばわかるが、陥落日の1日遅れで南京(幕府山付近)に到着した山田支隊が「戦意を失った大量の敗残兵」を捕虜としたのが、12月14日である。そして、翌々日の16日夜に魚雷営に連行している。

捕虜とした翌々日の夜に魚雷営連行という経過から、殷有余氏の証言が16日の魚雷営の事件を指していると判断する。

ちなみに、この1日前ずれは他にもある。次の東京裁判での魯甦の証言(代読)は、状況的には草鞋峡での事件、すなわち12日17日のことを言っているのに、証言の文言では16日になっている。農歴からの変換則あたりにバグがある気配もあるが、確かなところはわからない。

南京地方法院検事の魯甦に依る証言

敵軍入城後、将に退却せんとする国軍および難民男女老幼合計五万七千四百十八人を幕府山附近の四五個村に閉込め飲食を断絶す。凍餓し死亡する者頗る多し。一九三七年十二月十六日の夜間に到り、生残せる者は鉄線を以って二人を一つに縛り四列に列ばしめ下関草鞋峡に追いやる。
然る後、機銃を以って悉く之を掃射し、更に又銃剣にて○刺し、最後には石油をかけて之を焼けり。焼却後の残屍は悉く揚子江中に投入せり。


A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.15)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/meta/A08071276900


殷有余氏の証言に戻り、事件発生の状況について文面を見てみる。

注目したいのは、殷有余氏の「道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、…一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し」という文言である。

計画的処刑であるとしたら、まず対象者を一箇所に集めるはずである。現に、第7連隊による処刑の目撃談では、数十人ずつ埠頭(あるいは桟橋)に並べてから実行している。

ところが、殷有余氏の証言には「一群の人々が行進している最中」という言い回しがあり、移送捕虜の全員が現場に到着する前に事件が始まってしまった様子が読み取れる。

捕虜移送隊列の先頭は魚雷営に到着していたものの、隊列の後方はまだ行進中に事件が発生したのだとすれば、前田記者の同僚の深沢氏の目撃談とも整合する。つまり、結果として「死体の山が延々と連なっている(深沢)」である。

従って、殷有余氏の証言は自衛発砲説を証明している、とまでは言わないが、傍証にはなる。


なお、人数の「わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人」「約九千人以上の一群の人々」とか、収容先の「胡姓の瓦葺きの家」という要素については疑問点もあるが、まだ検証しきれていないので保留にしておく。




《6. 小野日記の記述》


小野日記というのは、次の書籍に採録された日本兵の陣中日記を指す。

南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち :第十三師団山田支隊兵士の陣中日記 小野 賢二
https://www.amazon.co.jp/dp/4272520423/


この小野日記は、一般には「自衛発砲説」を否定する“証拠”と解釈されることが多いが、その中にも「自衛発砲説」の傍証となりそうな記述があるので紹介する。

十二月十八日 曇、寒
午前零時敗残兵の死体かたづけに出動の命令が出る、小行李全部が出発する、途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く、吹いて来る一順の風もなまぐさく何んとなく殺気たつて居る、揚子江岸で捕慮○○○名銃殺する、昨日まで月光コウコウとして居つたのが今夜は曇り、薄明い位、霧の様な雨がチラチラ降って来た、寒い北風が切る様だ、捕慮銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され死に近い断末魔のうめき声が身を切る様に聞い悲哀の情がみなぎる、午前三時帰営、就寝、朝はゆつくり起床(後略)


斎藤次郎陣中日記
南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち /小野 賢二


斎藤次郎氏のこの日記の描写は18日に日付が変わった0時から始まっているので、17日の草鞋峡の事件の直後からの動きということになる。

この中に「途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く」という文面がある。これも前田記者が書いた「道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている」、あるいは殷有余氏の証言「一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し」と付合する要素がある。

さらに、「捕慮銃殺に行つた十二中隊の戦友が流弾に腹部を貫通され」という文面も、何か予期せぬ事態になったことを示唆している。

なお、この小野日記は一般には「自衛発砲説」を否定する“証拠”と解釈されることが多い。というのはまさに上のように「捕慮銃殺に行つた十二中隊の戦友が…」などと捕虜連行の目的が処刑にあったかのように読み取れるからである。

この辺りをどう解釈するかは、別途考察するが、鍵になるのは「事件当時指揮した将校の意図を兵卒らがどこまで認識していたか、あるいは知らされていなかったか」にあると考える。




《7. 飯沼守日記と上村利道日記》


次の記事でも紹介してあるが、飯沼守日記と上村利道日記の該当箇所を抜き出しておく。
幕府山事件の当事者である山田支隊は第13師団の隷下だが、その第13師団の上級司令部が上海派遣軍であり、ここを実質的に指揮しているのが飯沼参謀長である。



◇十二月二十一日 大体晴
荻洲部隊山田支隊の捕虜一万数千は逐次銃剣を以て処分しありし処何日かに相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し且相当数に逃げられたりとの噂あり。上海に送りて労役に就かしむる為榊原参謀連絡に行きしも(昨日)遂に要領を得ずして帰りしは此不始末の為なるべし。
荻洲部隊は本日大体所命線に部隊を配置し且夫々一部を更に前方要点に出したるが如し。


飯沼守日記(上海派遣軍参謀長・陸軍少将)/南京戦史資料集 I


上村参謀副長も飯沼守日記とほぼ同じ内容を書いている。

◇十二月二十一日 晴
N大佐より聞くところによれば山田支隊俘虜の始末を誤り、大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い散逸せしもの可なり有る模様。下手なことをやったものにて遺憾千万なり


上村利道日記(上海派遣軍参謀副長・歩兵大佐)/南京戦史資料集 II


計画的処刑ならば、第7連隊がやったように少人数ずつを連行して実行するのが確実であるはずなのに、山田支隊は「相当多数を同時に同一場所に連行せる為彼等に騒がれ(飯沼)」、「遂に機関銃の射撃を為し我将校以下若干も共に射殺し(飯沼)」あるいは「大集団反抗し敵味方共々MG(=機関銃)にて撃ち払い(上村)」、その結果として「相当数に逃げられたりとの噂(飯沼)」「散逸せしもの可なり有る模様(上村)」であり、その評価はまさに「下手なことをやったものにて遺憾千万なり(上村)」である。

しかも、この話は本来ならば正式に上級司令部に報告が行っても良さそうなのに、4日後に噂でしか話が伝わっていないのである。

この両名の記述からは、計画的処刑の意図があろうがなかろうが、現場で実際に起きたことは「自衛発砲説」を裏付けているように読める。




《8. 松井軍司令官付・岡田尚氏の証言》


松井軍司令官付・岡田尚氏も、幕府山事件と思われる事案について、 阿羅健一氏のインタビューにこう答えている。

ーー虐殺は見ていなくとも、話は聞いてませんか。

「捕虜の話は聞いてます。下関で捕虜を対岸にやろうとして、とにかく南京から捕虜を放そうとしたのでしょうね。その渡河の途中、混乱が起きて、射ったということは聞きました」


松井軍司令官付・岡田尚氏の証言
「南京事件」日本人48人の証言 /阿羅健一


これは「自衛発砲説」に加えて、実はその意図は捕虜解放にあったとしている。前田記者が警備司令部で聞いた話に輪郭が似ている。

ちなみに地名を正確に解釈するならば、下関の対岸は揚子江北岸の浦口になる。しかし、下関から浦口まで渡河させて捕虜を逃がそうとした事案は皆無のはず。下関と称するエリアを広げて解釈して対岸を中洲とすれば、幕府山事件の構図に一致する。

ちなみに、下関(シャーカン、下关)は街区として見れば南京城の挹江門と揚子江に挟まれた一帯を指すが、紅卍字会の埋葬記録で見ると「下関」と付いてるエリアはかなり広い。

一例を挙げておくが、これらは幕府山事件の地理的範囲である。

・下関石榴園
・下関草鞋閘空地
・下関魚雷軍営埠頭




《9. 松井石根大将の東京裁判起訴状への意見》


松井石根大将も、幕府山事件と思われる事案について書いている。

第五章 南京事件と東京裁判

二、起訴状に対する意見

検察側の所謂「虐殺事件」については予は全然知らず。もっとも予は十二月十七日の南京入城式後数日南京にありしのみにて、上海に帰りたるを以て、特に参謀を遣はして調査せしめたるも、予の二月下旬帰還迠には斯かる報告は受け居らざるなり。

予が虐殺事件なるものを初めて耳にしたるのは、終戦後米国側の放送なり、予は此事を聞きたるを以て当時の旧部下をして其の真否を調査せしめたるも、南京占領当時、又は其直後、捕虜遁走を企てし事件ありて、そのため其少数を射殺したる事ありたりとの報を得たるも、之も責任者の報告にあらざるを以て、其詳細不明にして、而かも余は之を確言する事能はず。(P192)


松井石根大将の陣中日誌 /田中正明


この後半部分の「南京占領当時、又は其直後、捕虜遁走を企てし事件ありて、そのため其少数を射殺したる事ありたりとの報を得たる」というのは幕府山事件のことではないだろうか。

というのも、上述の飯沼参謀長と上村参謀副長の日記の記述と内容的に整合しているからである。この両名も正式な報告ではなく噂として話を聞いただけだったが、松井大将も「之も責任者の報告にあらざるを以て」と書いている。

また、冒頭に挙げた「戦史叢書」の記述にも整合している。




《10. 「自衛発砲説」の妥当性》


この幕府山事件については、「自衛発砲説」vs「計画的処刑説」という対立で論じられることが多い。

特に冒頭に紹介した次の書籍(およびNNNドキュメント)では、「自衛発砲説」は1961年に第65連隊の両角連隊長が自身の回想ノートを示してそう答えたところから始まった、としている。

「南京事件」を調査せよ /清水潔
https://www.amazon.co.jp/dp/B077TP2SL8/


しかし、実際は上述したように「自衛発砲説」の起点はもっと早い。

(1) 草鞋峡での事件があった翌日の1937年12月18日に、警備司令部の参謀が前田記者に「少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した」と、まさに「自衛発砲説」を説明している。

(2) 事件4日後の1937年12月21日に上海派遣軍・飯沼参謀長と上村参謀副長が日記に「自衛発砲説」を書いている。

(3) 東京裁判の期間中に松井大将が幕府山事件と思われる事案について、詳細不明としながらも「自衛発砲説」に準じる話を書いている。


さらに、次のような事実もある。

(A) 冒頭で示したように、事件の遺体は魚雷営と草鞋峡の現場2箇所にのみあるのではなく、「死体の山が延々と連なっている(深沢幹蔵)」、「道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている(前田記者)」、「途中死屍累々として其の数を知れぬ敵兵の中を行く(斎藤次郎)」という状況だった。殷有余氏も「一群の人々が行進している最中」に発砲が始まったと証言している。

(B) 16日の魚雷営の事件の際に、混乱の中で日本兵に同士討ちが生じている。また、17日の草鞋峡の事件でも、同士討ちによる死傷者が生じ、飯沼参謀長と上村参謀副長が日記にそのことを書いている。

(C) 結果的に、人数は不明ながらも捕虜に逃げられ、飯沼参謀長と上村参謀副長は「相当数に逃げられたりとの噂(飯沼)」「散逸せしもの可なり有る模様(上村)」と日記に書いている。


従って、これらの情報を俯瞰して見る限り、計画的処刑の意図があったかなかったかには関係なく、現場で実際に起きたことは「自衛発砲説」を示唆しているとしか思えない。




《11.「自衛発砲説」と「計画的処刑説」の論理》


冒頭に書いたように、幕府山事件については「自衛発砲説」vs「計画的処刑説」という対立で論じられることが多いが、実際には「自衛発砲説」の対立概念は「計画的処刑説」ではない。それは「結果」と「意図」の軸を混同している。

前項までの状況を見れば、「意図」がどうであれ、「結果」は「失敗」である。上村参謀副長の文面を借りれば「下手なことをやったものにて遺憾千万なり」である。

つまり、失敗して混乱する現場を鎮圧すべく発砲したため、事件直後の時点から「自衛発砲説」になっているのである。

この幕府山事件の結果を成功と見做している関係者など一人も見たことがない。皆、一様に触れたくない、思い出したくないという態度である。現に、上級司令部に報告すら上がっていない。



「意図」については、山田支隊が捕らえた大量の捕虜を上海派遣軍司令部/第13師団(と山田支隊)/第16師団が組織間でどのように扱おうとしていたかについて、以下の記事で考察した。



その結論を簡単に書くと、上海派遣軍司令部では捕虜を一旦16師団に引き取らせ、その後上海に送って労役に就かせるよう手配していた(=上図Plan-A)、にもかかわらず、組織間の齟齬のためか結果としてはそのようにならず、山田支隊がPlan-Bの捕虜解放(第十三師団作戦参謀・吉原矩中佐によれば、捕虜を島送りにして自活させるよう命じたという)に急遽切り替えたものの、それも失敗した。という展開に見える。


上図では「意図」について、捕虜の「解放」「処刑」「使役」の3つを挙げているが、これは幕府山事件を調べていて登場するのがこの3つだからである。

そして、「結果」における失敗パターンについては、理論上は「意図」の種類に応じて無数に考えられるが、実際に起きたことは使役の不調と、同盟通信・前田記者が警備司令部から説明されたように、あるいは飯沼参謀長らが日記に書いているように「自衛発砲説」である。

なお、小野日記には当初から意図が「処刑」にあったかのような記述が見られるが、兵卒(あるいは応援の将兵)の側には意図はなく、事前に入念に説明を受けていた形跡も見当たらない。実態は、指揮する将校は意図を伏せたまま、逐次「(捕虜を)護送せよ」「合図があったら撃て」などと兵卒らに命じ、兵卒はそのようにしただけと解釈できる。従って、指揮する将校の側の「解放」意図と、兵卒らが結果から理解した「処刑」は併立すると言える。

ちなみに、上図で「自衛発砲説」が意図の「処刑」の下にまで伸びている理由は、処刑意図であったとしても開始前に反乱や混乱が起きれば、自衛発砲に至ることは容易に考えられるからである。




《改版履歴》


2022.09.17 初版




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