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《幕府山事件》試算モデル

2022年09月17日 | 南京大虐殺
2022.09.17 初版


次の記事で、紅卍字会の埋葬記録から幕府山事件に関連するものを拾い出した。

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68


この記事では、そこから広げて幕府山事件全体の犠牲者数その他の数字の試算を行った。




《要旨》


1)報道や陣中日記に登場する捕虜数は戦果としての誇張があり、かつ数字が一定しないので収容捕虜数として信用するに値しない。しかし、関係者の中で共通する要素がある。(a) 殷有余氏「九千人」、(b) 小野日記「魚雷営連行三千人または三分の一」、(c) 平林中尉「一万人」、(d) 両角連隊長「八千人」、のいずれも収容捕虜総数として9千人前後の数字を示している。

2)収容捕虜総数9千人、魚雷営3千人、草鞋峡6千人とし、紅卍字会の埋葬記録、前田記者の目撃談、その他関係者の証言と数字的に大きな破綻がなく成立する試算モデルを作成した。その結果は、捕虜総数9千人のうち40%が逃亡。また、犠牲者数の58%が移送途中の路上周辺だった。これが唯一の解ではないが、数字の幅はかなり収斂してきたと考える。

3)この結果からすると、南京論者(歴史家、研究者その他)が語ってきた幕府山事件イメージ、すなわち「収容捕虜の大半が2ヶ所の現場で殺害された」という理解は相当間違えているのではないか。両角手記にある草鞋峡現場の捕虜数「二千人ほど」という数字や、郷土部隊戦記にある草鞋峡現場の犠牲者数「千人を上回った程度」は、収容捕虜数からいって信用ならない数字とされてきたと思うが、私の試算には整合的である。移送途中の隊列を無視しているから「そんなはずはない」と決めつけて切り捨ててきたのではなかったか。




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(全体地図)




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《1. 捕虜数の絞り込み》


山田支隊が捕らえた捕虜数については、当時の報道や参戦将兵の日記等の数字があるが、いくつもの種類の数字が乱立して真数が不明になっている。

そもそも、この捕虜を捕獲した1937年12月14日時点では、捕獲捕虜数は「戦果」なので、誇大になる方向にバイアスがかかる。後の太平洋戦争では空母・エンタープライズを9回撃沈した日本軍である。陸軍でも「戦果は慣例に従って3倍に計上した」(証言による南京戦史)などという話もある。

従って、報道あるいは上級司令部に宛てた戦果の数字は信用ならないのである。

また、参戦者の陣中日記を集めた小野日記においても、捕虜総数に関しては全く安定していない。人によって認識がバラバラである。つまり、幹部から正式かつ正確な数字が周知されているわけではないのである。

そして、一部将兵は朝日新聞記者と情報交換したりしているので、外向きの数字が部隊内に入ってきている。

また、たとえば栗原利一伍長(65連隊第一中隊)の栗原スケッチを見ても、捕獲捕虜数、収容捕虜数、草鞋峡連行捕虜数の全てが13,500人と認識している。つまり、魚雷営の数字が反映されていない。

こういう数字をいくら吟味しても正解には辿り着けないと考える。



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では、どうするか。

上図に示したが、実は共通要素が見えている。


(a) 殷有余氏

捕虜の立場で魚雷営に連行された殷有余氏(後述)は、「上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです」(証言・南京大虐殺) と書いている。殷有余氏と一緒に閉じ込められていたのは300人だと書いているが、連行捕虜数は9千人以上だという。「9千人」という数字をどこから得たのかは不明だが、捕虜たちの「戦意を喪失した敗残兵」という由来からすると、部隊名さえわかれば彼らの方が捕虜総数を把握できていても不思議ではない。そして、殷有余氏は魚雷営に連行される立場なので、連行されるのが一部なのか全部なのかは知る由もなく、従って、この9千人は殷有余氏が把握していた総数と思われる。


(b) 小野日記

小野日記の数字を見ると捕虜総数はまちまちで当てにならないが、魚雷営に連行した捕虜数については共通項が多い。「三千」または「三分の一」である。魚雷営への捕虜連行がどういう命令であったのかは不明だが、この数字は彼らにとっては任務なので、必ず把握してから実行したはずである。また、複数の人がこの数字を書いてる点からしてもある程度の信憑性がある。そして、魚雷営への連行数の「三千」が「三分の一」なら総数は「9千」である。


(c) 平林中尉

平林貞治中尉が、「問題は給食でした。われわれが食べるだけで精一杯なのに、一万人分ものメシなんか、充分に作れるはずがありません。それに、向うの指揮者というのがいないから、水を分けるにしても向うで奪い合いのケンカなんです」と証言している。内容が具体的なので、そういう業務を担当していたように見える。食糧配給業務をやるなら人数把握は必須である。十数棟の建物に収容していたというから、どれかの建物の1/4の人数をサンプル的に概算把握して、これに4倍して建物数を掛けるなどすれば概数はすぐ出る。これは実務なので必ずやったはず。その人が苦労話を語る場面で「一万人」と言ってる。


(d) 両角連隊長手記

両角連隊長は、手記にこう書いている。

『南京大虐殺事件』
 幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。これを運よく幕府山南側にあった厩舎か鶏舎か、細長い野営場のバラック(思うに幕府山要塞の使用建物で、十数棟併列し、周囲に不完全ながら鉄線が二、三本張りめぐらされている)-とりあえず、この建物に収容し、(後略)


両角業作 手記 歩兵第65聯隊長・歩兵大佐
南京戦史資料集 II


幕府山事件の検証ではあまり信用されない両角連隊長手記だが、手がかりは多い。

この文章構造だと、非戦闘員を分離したのは捕虜を収容所に入れる前になっている。「解放した」という言い回しになっているが、これは言い換えれば「非戦闘員は現地に置き去りにした」と言っているに等しい。現地で武器を捨てさせ、収容所に向けて行進させたのが8千人ということである。

ただ、捕虜収容所に入れたのが8千人という話は12月14日のことを言っているだけなので、翌日から増えた分は言及範囲ではない。

ということは、(a) 殷有余氏、(b) 小野日記、(c) 平林中尉、(d) 両角連隊長、のいずれも収容捕虜総数として9千人前後の数字を示していることになる。

どうせこれ以上の精度は望めないのだから、「9千人」で良いと考える。



(捕虜数の把握に関する余談)

ちなみに、『郷土部隊戦記 /福島民友新聞社』を読むと、捕虜人数というのは中隊毎の報告をまとめたものだろうという話が書いてある。

そうすると、例えばこういうことになる。

捕虜のカウント例:

第1中隊:1000
第2中隊:500
第3中隊:300
第4中隊:200
第5中隊:100
第6中隊:60
第7中隊:30
第8中隊:23
第9中隊:15
合計  :2,228

第1~5中隊くらいまでは、見た目の概数である。どの程度の誤差があるか、わかったものではない。第8・9中隊は少数なので正確だとする。

すると、合計は1の単位まで出ているので、あとで数字だけ見るとキッチリ数えたように見える。しかし、大多数は数えていなかったりするのである。

また、南京戦に関する他の事例を見ても日本軍は捕虜を捕獲した場合、まず最初に人数の概数を把握する。そうでないと、他に応援要請や収容要請するにしても話が進まないからである。連絡を受けた方も必ず「そこに何人いるのか」と確認する。ただ、こういう場面では精緻な数字は求められていない。必要なのは概数である。

幕府山砲台の占領を命じられた角田中尉(第5中隊)は、途中で「3千人は武装解除したと思う」と証言しているが、これも精密な数字ではないことは明らかである。

中国側の一部の将兵は家族を帯同していたらしいので、幕府山の東側で「1万5千人」とされる敗残兵に直面した時点では、そういう非戦闘員も混ざっていたと思われる。避難民もいたかもしれない。「1万5千人」という概数を出したのはこの時点のはずである。収容場所を探すにしてもこの概数が必要となる。

しかし、この「1万5千人」は混乱する潰走兵ではなく「戦意を失った敗残兵」であり正規軍である。指揮官が機能している投降部隊は整然としている。栗原スケッチを見ても、白旗を掲げて降伏してきたので武器を一箇所に捨てさせてから隊列を組んで南京城に向かったという。

そのような隊列に避難民が混ざるわけがない。避難民は自軍の隊列をその場で見送るのみである。だから、特に誰も軍民の選別作業をした記憶がなくても当然である。

その結果、収容所に入ったのは8千人だと両角連隊長は言っている。それが正確かどうかはともかく、最初の「1万5千人」というのがそもそも全く当てにならない数字なのである。

ただ、当てにはならないが「戦果」として誇示できるので上級司令部や報道向けにはこの「1万5千人」を流す。そういう数字である。




《2. 捕虜移送隊列の試算》


犠牲者数その他を試算するにあたって、まず捕虜移送隊列に関する数字を割り出す。



(捕虜移送隊列の写真解析)

『「南京事件」を調査せよ /清水潔』に小野賢二氏所有の捕虜移送隊列の写真が載っている。この写真からいろいろなことが読み取れる。



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ほぼ正面の遠影に山が写っている。これは城内北端にある獅子山である。獅子山は今でも形が変わっていないので、GoogleEarthで見てもわかる。同じ地点から見た画像を貼っておいた。

また、日差しが低いので日没前とし、太陽光線の方向などを考慮すると、撮影地点は魚雷営に近い揚子江岸であると推定できる。

すると、これは魚雷営に向かう隊列といえる。

この写真を見たときには、画像右部分で隊列が左折をしているのかと思ったが、違うように見える。

地図で見てわかるように魚雷営に行くには直進のはずである。また、奥の団体を見ると、進行してるのではなく、待機してる感じに見える。そうすると、この奥の団体は日本軍ではないのか、という気がする。

日没は17時ちょうどなので、撮影はその少し前と思われる。


それと、奥の団体の背後には背の高さを超えるススキが見える。事件発生直後に逃亡者が出たとして、こういうススキ等の視覚的遮蔽物があれば、逃亡を助けたかもしれない。


あと、この地点で魚雷営行きの捕虜移送隊列の写真が撮られたなら、魚雷営行き移送経路は上元門丁字路を直進していたことになる。自動車なら丁字路だが、歩行者なら十字路として直進できる。

そして、揚子江岸にぶつかってから魚雷営に向けて左折。



(隊列密度)

各種試算する上で隊列密度のデータは使える。上の写真を見ると2人/m程度の隊列密度に見える。

ただ、歩みの遅い捕虜がいれば前はガラ空きとなり、後ろは密に詰まる、というようなばらつきはあったものと思う。撮影者もこういう撮影時には特徴の濃いシーンを求めるものである。

また、この写真の隊列最後尾の人物の後ろもやや空いているように見える。

その意味では、2人/mを上限値として良さそうである。



次に、この証言に注目する。

銃殺があった 17日、この山頂で警備に当たっていたという兵士がいた。歩兵第六十五聯隊第八中隊の上等兵だ。
94年6月に収録されたインタビュー・テープが遺されていた。茶の間のざぶとんに、ちょこんと座るその人はおでこが禿げあがっている。どこかで練習中のピアノの旋律が聞こえる。更に、時折り「カラカラカラ」という蛙の鳴き声も入っていた。上等兵はこんな光景を見たという。

「幕府山の頂上ですね。砲台のところで警備をしていた。揚子江に面した場所で見晴らしが良いところで川を通る船が良く見えた。捕虜は支那の兵舎かな? 藁葺き屋根の兵舎に入れてあったから川まで何キロあるのかな……」

山頂からは、捕虜を収容していた建物から揚子江までがぐるりと見渡せたという。

「あれは午後だったと思う。歩いていた捕虜の姿がそこから見えた。ぞろぞろと。相当に大きな道路だったが、その道一杯に歩いていた。速度は早くない。先頭が揚子江の岸に着いていても後尾はまだ(収容所を) 出ていないぐらい長かった。相当な人数だったね」

夜になって眼下に望んだのは、暗闇の中にチカチカと輝くいくつもの光だった。

「銃撃している機関銃の光を見た。暗くなってだから良くわからないが、あちこちで光っていた。そん時は、ただやっているなという感じ。当時は関心を持たないんだね。命令だからね……」


「南京事件」を調査せよ /清水潔



草鞋峡行きの捕虜移送隊列について「先頭が揚子江の岸に着いていても後尾はまだ(収容所を) 出ていないぐらい長かった」と言っている。

収容捕虜数が9千人で、魚雷営に三分の一あるいは3千人を連行したなら、草鞋峡には6千人である。

収容所から草鞋峡の現場までは3.6kmなので、6千人がそこにちょうど収まる隊列密度は1.7人/mである。
(1.666…を四捨五入して1.7)

道幅によっては広がったり狭まったりはあるだろうが、それでも1.7人/mに変わりはない。

上の写真の2人/mは上限値に見えるので、全区間平均で1.7人/mなら妥当に見える。

以後、この試算では「1.7人/m」を隊列密度として使うこととする。



(隊列死亡率の絞り込み)

捕虜移送隊列の隊列密度がわかったので、次は事件発生によって、この隊列からどの程度の犠牲が出たのか絞り込む。

使うのは前田記者のこの記述である。


私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。ところどころは、石油をかけて火をつけたらしく焼死体になっている。

「機銃でやったらしいな」

と祓川が言った。

「それにしても多いなあ」

千はこえていた。二千に達するかも知れない。一個部隊の死体だった。私たちは唖然とした。挹江門の死体詰めといい、この長江岸の死んだ部隊といい、どうしてこういうものがあるのか、私たちには分からなかった。

城内に戻って、警備司令部の参謀に尋ねてみた。少数の日本部隊が、多数の投降部隊を護送中に逆襲を受けたので撃滅した、というのが説明だった。


南京大虐殺はなかった―『戦争の流れの中に』からの抜粋 / 前田 雄二



使うのは、「千はこえていた。二千に達するかも知れない」の部分。



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魚雷営に行く捕虜移送隊列は、収容所を出て上元門を直進して揚子江にぶつかるC地点で左折して魚雷営に向かう。写真からそれが判明した。

草鞋峡に行く捕虜移送隊列は、収容所を出て上元門を右折してB地点経由で現場に向かう。

前田記者は車で行ったというから、A地点から入ってきて上元門を通過しB地点方向に抜けたと思われる。自動車として走行可能な道路は上元門から右折して収容所方向もあるが、それだと証言に整合しないので考えないこととする。

そうすると、捕虜移送経路と重なっている区間は、草鞋峡隊列の上元門~B地点の区間のみとなる。

これに上で算定済みの隊列密度1.7人/mを使うと、上元門~B地点の1kmの区間にいる隊列捕虜人数は1,700人である。

これが全数死亡としては、前田記者の証言に整合しない。

そこで、「千は超えていた」となるように、上元門~B地点区間の死亡率を出す。そうすると、「60%」で整合する。

そして、魚雷営隊列の上元門~C地点、草鞋峡隊列の収容所~上元門、B地点~草鞋峡現場の3本は前田記者の視点では横道になると思われる。その横道にある遺体はいずれも数百メートルの距離なので、その横道の周囲にある遺体数の半数を把握できたとする。

そうすると合計1,764体なので、「二千に達するかもしれない」にちょうど整合する。


よって、隊列死亡率は 60%とする。



(捕虜移送隊列の尻尾)

次は、紅卍字会の埋葬記録の数字を使って、捕虜移送隊列の尻尾つまり最後尾の位置を探る。



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考え方を先に書く。

まず、隊列死者数は「隊列密度 1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離m」である。

すると、移送経路の各区間ごとの理論上の区間死者数が自動的に出る。しかし、隊列が進めば尻尾は短くなるので、事件発生時に尻尾の区間から生じる死者数は理論上の区間死者数を下回る。

であれば、紅卍字会の埋葬記録の中にちょうど該当しそうな数字が見つかれば、尻尾の長さがわかるはず。



結論を書くと、紅卍字会【574】は魚雷営隊列の尻尾、紅卍字会【591】は草鞋峡隊列の尻尾に対応している。

なぜならば、事件発生の瞬間同士の魚雷営隊列と草鞋峡隊列は重なり合っていないからである。上元門丁字路でぎりぎり接している程度である。そして、紅卍字会【574】と【591】は上元門を境に遺体収容位置が分かれている。【574】の収容位置は魚雷営埠頭なので、草鞋峡隊列の通り道ではない。そして、魚雷営隊列の尻尾は上元門から下には伸びていない。つまり、【591】は草鞋峡隊列の尻尾となる。

この時に、紅卍字会【574】は魚雷営隊列の上元門~C地点に対応するものとする。というのは、日本軍の戦場掃除のパターンは、近くに水があればそこに遺体を放り入れるからである。魚雷営の現場はもちろん、C地点~魚雷営現場の遺体もそうしたはずである。その場合、それらの遺体は紅卍字会の埋葬記録に基本的に登場しない。あるいは登場する場合でも“水葬”になるので、記録を注意深く読めば見抜ける。

それで、上図の表は、移送隊列が順次進んで現場に到着する捕虜人数が増えるとともに、隊列の尻尾が短くなる様子を計算している。その中から、紅卍字会【574】に近似する尻尾の長さを探す。

そうすると、魚雷営隊列の尻尾はC地点から580mであることがわかる。つまり、そこはほぼ上元門である。
それとともに、魚雷営の現場に到着済みの捕虜数は1,000人であることがわかる。表の左端。

同様に草鞋峡隊列について紅卍字会【591】に対応する尻尾を探すと、上元門から収容所方向へ580mの地点であることがわかる。
それとともに、草鞋峡の現場に到着済みの捕虜人数は2,800人であることがわかる。


もちろん、これは入手可能な手がかりを元にした概数であり試算でしかないが、事件の輪郭を掴むには役に立つ。


なお、上図の中には結果的に判明した対応関係【306+1,020=1,326→1,346】についても点線で示してあるが、この尻尾の割り出し作業をしていた段階では私はまだ気づいていなかった。この件については後述する。



(角田中尉はどこにいた)

16日の魚雷営事件の際に指揮をしていた角田中尉は、翌日の草鞋峡事件の際には隊列の最後尾にいたというから、その場所を特定できれば上述の計算の証明になる。その証言を見てみる。


(角田中尉の証言)

「さて、河岸への連行にあたっては、私は役目を免除されました。が、収容所はからっぽになったし、ひまでしたので、連行の列の最後尾についていったのです。ところが、前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。私は道のわきにあるクリークのようなものに飛び込み、危難を避けました。味方の銃弾で死んではいられないし、恐ろしい思いをしました。また『突発だな』と私には感じられました。突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした。計画的に殺す気なら、あんなふうに銃弾は飛ぶわけないですからね」(P111)


南京の氷雨―虐殺の構造を追って /阿部 輝郎



角田中尉は、「道のわきにあるクリークのようなもの」に飛び込んだという。

そこで、上で算出した上元門から600m付近の地点を見てみる。



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まさにそこに「クリークのようなもの」が見える。ちょうど道路に沿って約50mの長さの溝のようなものがある。

クリークとは、英語で creek:小川、小さな入江、だと思うが、南京戦に登場するクリークは揚子江の支流や水路などである。平時は水運などに使うが、戦争時には防衛用の障害になる。

南京城の城壁の周囲にもクリークを巡らせてあり、それは日本の城の濠(内濠、外濠)と同じ機能を持つ。つまり、攻城戦における防御側の設備である。

その意味で言うと、上の写真の「溝」はクリークではない。水路や川でもないし、何かを囲んでもいない。だから、角田中尉は「クリークのようなもの」と表現したと思われる。本物のクリークなら、「…のようなもの」は付けなかったはずである。

また、その周囲を見ても道路のそばにそれほど「クリークのようなもの」があるようにも見えない。従って、草鞋峡の事件発生の瞬間に、隊列最後尾の角田中尉がいたのはまさにその場所だと言える。

これで上述してきた捕虜移送隊列に関する数字も、角田中尉によって裏付けられたと思う。



なお、上の資料の写真には陥落翌年の昭和13年3月16日との記載があるので、角田中尉が飛び込んだ当時の地形がそのまま写っていると思われる。

また、紅卍字会【591】は2月27日の記録なので、写真の上元門から角田中尉が飛び込んだ「クリークのようなもの」付近までの一帯に、空撮の半月前まで591体の遺体が散乱していたのである。(山田支隊が片付けとして数カ所の山に集積したはず)

さらにいえば、その【591】の埋葬場所も、上の写真の左上隅に写っている。ただ、幕府山の影になっているのでよく見えない。



(記録がない区間)

魚雷営隊列と草鞋峡隊列の尻尾については偶然にも紅卍字会の記録に対応する数字があった。

しかし、それ以外の区間、例えば魚雷営隊列のC地点~魚雷営現場は、山田支隊が戦場掃除で遺体を揚子江に放り入れたはずなので記録がない。

こういう該当記録がない区間については、全て「隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離」で算定することとする。


上元門~B地点~草鞋峡現場については、上記計算上の遺体数は1,326体(1,020+306)なのだが、この区間も紅卍字会に該当記録はないものと思っていた。

ところが、全ての試算が終わってから気づいたのだが、極めて近似した数字として紅卍字会の埋葬記録に【1,346、3月1日、幕府山付近で収容、石榴園埋葬】というのがある。

草鞋峡現場の【大渦子:1,409】は3月2日なので、記録上はその前日であり、ますます関係性が深そうに見える。埋葬場所も実質的に同じ。ただ、「幕府山付近で収容」という表記だとエリアが広すぎて判断できなかったのである。


遺体埋葬事業を請け負っていた紅卍字会の代表・陳漢森は、下関と草鞋街の間の宝塔橋街というところにいて保国寺難民収容所の主任もしている。その宝塔橋街の目の前の中興碼頭に接岸した砲艦「比良」艦長・土井申二中佐は陳漢森と仲良くして帰国後も手紙のやりとりまでしている。その土井中佐の話だと、保国寺難民収容所に六、七千人ほどの難民がいたという。

私は勝手に紅卍字会の労働者の大半は、この保国寺難民収容所の難民だろうと考えている。

埋葬作業の優先順位はまず南京城内で、それは記録上にも現れている。その後、順次城外に手を付けて、エリア毎に消化していくような動きをしている。

それで、紅卍字会の作業員が保国寺難民収容所の方から来たとすれば、草鞋峡現場すなわち大渦子に至る経路が上元門~B地点~草鞋峡現場となる。

この範囲の最も手前になる【上元門内:591】は2月27日に記録されている。まさに手前から順次作業しているのがわかる。

2月27日、上元門内:591
3月1日、幕府山付近:1,346
3月2日、大渦子:1,409

これはほぼつながっていると断定して良さそうである。

しかも、数字的にも【試算値:1,326】と【紅卍字会:1,346】の近さである。

よって、これがそれであると解釈することにする。




《3. 犠牲者数と逃亡者数の試算モデル》


前項で捕虜移送隊列の数字が見えてきたので、いよいよ事件全体の数字の試算を試みる。



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幕府山事件に関して知られている各種の数字に対して、概ね破綻しなさそうな数字を探し出したのが上図である。

数字というのはしがらみがあって、どこか大きく間違えていると破綻する。破綻しなさそうな数字の組み合わせはいくつもあるので、これが唯一の正解ということはないが、ある程度の幅に収斂つつあるように思う。

条件としては、収容捕虜数は9千人とし、魚雷営に3千人、草鞋峡に6千人連行したとする。

また、上述したように、隊列密度を1.7人/mとし、捕虜移送隊列からの犠牲者数は「隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離」に準じている。

2つの現場については、具体的な死亡率のデータはない。

しかし、草鞋峡については紅卍字会【大渦子:1,409】の記録がある。

これについては、次の記事で説明したように水位が下がる時期の水葬なので、以降にそれほど流失したとは思えない。

《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
https://blog.goo.ne.jp/zf-phantom/e/fb155aa7d56ce5e3e43f490f8fe5eb68



とはいえ、流失分がゼロのはずもない。仮に【大渦子:1,409】に流失分を20%上乗せすれば草鞋峡現場の遺体数は1,691体となる。

一方で、隊列死亡率は60%としたので、草鞋峡現場に到着済みの捕虜数2,800人にも同じ死亡率60%を掛けると1,680体となる。

どちらも極めて近似している。そして、計算にも無理がない。

このくらいの誤差であれば気にする必要はないので、草鞋峡現場の死亡率も隊列死亡率と揃えて60%と置くことにする。

(草鞋峡犠牲者数を1,680とした場合、ここから16%流失すると大渦子1,409になる。状況的によく整合している。)


魚雷営現場についても死亡率のデータはない。何も手がかりがないが、隊列も草鞋峡現場も死亡率60%であれば、魚雷営現場だけ異なる数字を採用する理由もない。よって、魚雷営現場の死亡率も60%としておく。



(数字の可動制限)

上述の数字は考察の結果だけを述べたので、なぜそうなったのか納得感が薄い読者も多いと思うので、数字の動き方について説明する。条件が追加されるごとに数字は動けなくなっていくのである。



条件A:収容所から魚雷営、草鞋峡への捕虜移送経路長。(地図)

これは地図で決まる数字。


条件B:移送経路の遺体密度 1.02〜1.04人/m(紅卍字会、前田記者目撃談)

これは結果的に判明した数字を書いているが、草鞋峡隊列の遺体密度は上元門から草鞋峡現場の区間で1.035人/mで、角田中尉がいた尻尾の方は1.019人/mだった。


条件C:草鞋峡隊列長=移送経路長(幕府山の山頂警備兵氏)

これは、上述したこの証言に基づく条件である。

「先頭が揚子江の岸に着いていても後尾はまだ(収容所を) 出ていないぐらい長かった」


条件D:事件発生時点の草鞋峡隊列長は1.9km(角田中尉)

上述したように草鞋峡隊列の最後尾にいた角田中尉の居場所が判明したので、事件発生時点での現場〜最後尾の距離は1.9kmとなった。


ここまでくると、数字の動きにかなりの制限が出てくる。

ここで下図の右表「草鞋峡隊列パラメータ可動制限」を見ていただきたい。数字は右表の中で上下方向にまだ動けるが、上記の条件A〜Dのための動き方に制限が出ている。

具体的には、「隊列死亡率はもっと高いはずだ」という主張があったとして、これを100%にすることもできる。右表の一番上である。

その場合、隊列密度を1.03まで下げなければならないのである。表では、[条件B]の移送経路の遺体密度を1.03人/mにしているが、これが効いている。

そうすると、草鞋峡移送捕虜数を3,708人にまで減らさなくてはならないし、事件発生時点で草鞋峡現場に到着済みの捕虜数は1,751人まで減る。これは両角手記の「二千人ほど」よりも少ない数字となる。

隊列密度を1.03まで下げ、[条件C]で隊列長を、[条件D]の角田中尉が尻尾の位置決めをしているためにそうなるのである。


あるいは「草鞋峡連行捕虜数は1万人のはずだ」という主張があったとして、それも可能である。右表の下の方。しかし、その場合は、隊列密度を2.8まで上げ、かつ隊列死亡率を37%まで下げなければならない。

これも[条件B/C/D]が効いている。

なお、右表の一番右に紅卍字会の埋葬記録【大渦子:1,409】に流失分20%上乗せした数字に基づいた草鞋峡現場死亡率を出してある。流失率については、揚子江水位の季節変動からそれほど多いはずがないとは思っているが、一意に決まる数字でもないので、これはあくまで参考値である。

参考値ではあるが、「草鞋峡連行捕虜数は1万人のはずだ」ということになれば、現場死亡率も36%に下がる。関係者の証言等と見比べれば現場死亡率36%とは整合しなさそうに見える。


あるいは「草鞋峡連行捕虜数は1万人で、隊列死亡率は100%だ」という主張があったとする。それに対しては「あり得ない」と回答することになる。


条件E:魚雷営隊列密度=草鞋峡隊列密度

これは事件関係者からくる条件ではなく、私が付加した条件である。同じ人たち(山田支隊と捕虜)がやっていたことだから、隊列密度は両日ともに同じと考えていいはずだ、というものである。

上述したように、下図の右表で上下方向に動くことはできる。動かした数字に納得感があるかどうかは別として。

その際に、右表で上下に動かすなら、左表「魚雷営隊列パラメータ可動制限」においても連動して上下するはずですね、というのがこの[条件E]である。


条件F:魚雷営に1/3を連行(小野日記)

小野日記に「魚雷営に1/3を連行」と書いている人が複数いる。実は、下表ではあらかじめそう仕込んである。

右表と左表を[条件E]に基づいて連動して上下させるときに、魚雷営連行捕虜数が常に草鞋峡連行捕虜数の半分になっていることがわかるはず。


条件G:魚雷営に「三千」を連行(小野日記)

小野日記に「魚雷営に三千を連行」と書いている人が複数いる。この条件が加わると、下図の赤枠で示したところにガッチリ固定されてしまい、数字は一切動けなくなる。


ここまで来ると数字のしがらみどころか、もはやがんじがらめである。

計算上の誤差は無視してもらうとして、上述の試算結果はこのように追い込まれて出てくるのである。



(クリックで拡大)



なお、一箇所説明を省いたところがあって、それは上図の左表左上つまり魚雷営の「事件発生時点の隊列長」である。

これは魚雷営埠頭で収容したという紅卍字会【574】を、上元門〜C地点に割り振ったためである。この区間は山田支隊の戦場掃除でも地上に残され、C地点〜魚雷営は岸辺なので河に投げ入れたはず、という想定である。

それで、上元門~C地点の区間距離を600mとしているのだが、隊列遺体密度1.03人/mとすれば事件発生時点での隊列区間長は560mとなる。つまり、数字的には事件発生時点で魚雷営隊列の尻尾は上元門から40m先に進んでいたという計算である。

また、C地点~魚雷営の区間距離も600mとしているので、600m+560m=1.16kmというのが魚雷営の「事件発生時点の隊列長」となる。



(文献や証言との整合性)

16日の魚雷営に出動した部隊の指揮官だった角田中尉は次のように証言している。

「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか----。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ……。あすは南京人城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」

南京の氷雨―虐殺の構造を追って /阿部 輝郎



私の試算でも事件発生時点で魚雷営の現場に到着済みの捕虜数としては1,000人になった。角田中尉が現場で視認した人数としては整合的である。

特にこれを狙って試算していたわけではなく、上述したように「隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% × 距離」を用いて隊列の長さを割り出すと、機械的な計算の結果としてそうなるのである。



それから、両角連隊長手記に草鞋峡での事件発生時の描写がある。

二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。
両角連隊長手記



この「二千人ほど」という数字を信じる南京論者はほぼいないと思うが(私ですらそうだった)、上述したように草鞋峡現場へ到着済みの捕虜数は 2,800人なのである。概ね整合している。



また、『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』には幕府山事件について、次のように書いている。約1,000名射殺。

警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、17日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。これにより捕虜約1,000名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下7名が戦死した。

戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1> 防衛庁防衛研究所戦史部




さらに、情報源は同じだと思うが、郷土部隊戦記にも同種の数字がある。死体は千人を上回った程度。

翌朝、江岸には不幸な捕虜の死体が残った。しかし、その数は千人を上回った程度で、ほとんどは身の丈はゆうにある江岸のアシを利用し、あるいは江上に飛び込んで逃亡したのである。(P112)

郷土部隊戦記1 /福島民友新聞社



私の試算でも草鞋峡現場での死者数は1,680人である。この数字は紅卍字会【大渦子:1,409】に水葬後の流失による割増分を約20%上乗せした数字であり、整合的である。(1,680を母数とすれば、約16%の流失で1,409)



それから、18日朝から草鞋峡の現場で遺体片付けをした丹治善一上等兵は「四百人前後だった」と証言している。片付け作業は18日に日付が変わった深夜から行われているはずなので、朝からの参加なら少なく認識してもおかしくない。そうすると、これも「千人を上回った程度」というのと概ね整合的である。


やむなく発砲したとはいえ、とにかく捕虜の集団に銃弾は飛び込んだ。ではどれだけ死者が出たのか。 これは確認しておきたい点である。第三次補充で十七日夜、内地から南京の連隊に追及してきた丹治善一上等兵 (福島市大森)らの回想が記憶もあざやかである。

「あの記憶は鮮烈ですね。なにしろ初めて戦場を目撃したのですから。しかもあの無数の死者......。 私たち新参の補充要員は十八日朝、いきなり江岸のその現場に連れ出され、戦争の残酷場面を見せつけられたのです。死者は河岸の一角に折り重なっていたり、散乱していたり......。千人以上は死んでいるな、そう感じたものでした。しかし実際に私たちが死者を片づけてみると、四百人前後だったように思う。とにかくこれだけの死者があると、ものすごく見えるものですね。死者の大半は揚子江に流したのです」(P128)


ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社




また、捕虜移送隊列から捕虜が逃げた話を八巻竹雄中尉が証言している。この文面からすると、現場での事件発生前から、隊列からの脱走が始まったように読める。私の試算だと隊列からの逃亡率は40%ということになるが、話としては整合的である。

この前後を関係者の話からもう一度ながめてみたい。十二中隊長だった八巻竹雄中尉 (梁川町中町)は 次のように回想している。

「幕府山から江岸までは四キロほどだったと思う。私たちは彼らを解放する目的で四列縦隊で歩かせたが、彼らは目的を知らない。私たちは少数であり、どこで暴走が起こるか、むしろ彼らより緊張していた。はたして途中で彼らの逃亡が始まり、私たちの中隊の兵隊も彼らに連れ去られ、途中で殺されたりした。このような犠牲を払いながらも、ともかく解放のための努力を続けたのです」

途中でかなり逃亡があったという。解放するのだからかまわないようなものだが、やはり対岸に解放しないとまずい、という判断があったようだ。(P129)


ふくしま 戦争と人間 1 白虎編 /福島民友新聞社




それから、既に書いたように角田中尉が草鞋峡事件発生の瞬間の様子を証言しているが、深夜の出来事でもあり、混乱の中で逃亡に成功した捕虜がいても不思議ではない。



捕虜の立場で魚雷営に連行され生き延びた殷有余氏の証言もある。

「上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時」という言い回しだと、おそらく私の地図でのC地点付近ではないかと思われる。つまり、移送隊列の中にいた。現場まで600m以内。

そして「殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた」とのことなので、いわゆる「死んだふり」である。それも9人。

しかも、「敵はすでに機関銃四挺を設置済みで」ということをなぜ知っているのか。殷有余氏が改めて現場に行って確認するわけないので、これは現場から脱出した別の人に聞いたのではないのか。

意外に脱出者は多そうな気配がある。


魚雷営の大虐殺

一九三七年十二月十五日、南京城陥落の次の日、一般人と武器を捨てた軍人九千余人は、日寇(*5)の俘虜とされたのち、海軍魚雷営まで押送され、機関銃による集中掃射を受け、殷有余ら九人が脱出したほかは全員殺害された。被害者殷有余が法廷でおこなった証言資料はつぎのように指摘している。「(農暦) 民国二十六年〔一九三七年〕十一月十一日(*6)、被害者わたくしは上元門において敵に縄で縛り上げられました。わたくしと一緒に俘虜となった官兵および民衆は約三百余人で、胡姓の瓦葺きの家に押し込められました。十三日夜になって、またもや上元門外の道路沿いに追い立てられながら魚雷営の長江の端まで来た時、敵はすでに機関銃四挺を設置済みで、拉致されてきた計約九千人以上の一群の人々が行進している最中、敵はたちまち機関銃を発射し、掃射を加えたのです。」 この時の集団大虐殺は夜間におこなわれたため、殷有余ら九人は銃声を聞いて倒れ込み、血だまりの中に横たわっていて、幸いにも銃弾に当らず、死を免れることができた。

*5:日寇とは日本侵略者の意。あえて訳さず日寇のままにした。
*6:農暦十一月は新暦十二月。(P22)


証言・南京大虐殺―戦争とはなにか / 南京市文史資料研究会




以上のように、事件関係者の証言や記録などに対して大きく破綻することなく整合している。むしろ、従来は無視されてきたような証言とも整合的である。

そして、全体としては収容捕虜総数9千人に対して、死亡率60%。また、犠牲者数の58%は現場ではなく移送途中の路上周辺となった。




《4. 遺体の散乱範囲》


続いて、前項の試算モデルの数字を紅卍字会埋葬記録の数字とともに地図上に書き入れてみた。



(クリックで拡大)



また、それらの遺体散乱範囲も色付けで記載した。

おそらく、隊列からの遺体の多くは移送経路の路上またはその至近距離にあったとは思うが、事件発生直後に、逃亡~追跡~射殺があったとしたら、このくらいの範囲になるかもしれないという図である。

概ね、移送経路から200m以内を想定して作図してある。

事件直後は、これくらいのエリアに移送経路の道程換算で約1体/mの密度で遺体が散乱していたわけである。

(隊列密度1.7人/m × 隊列死亡率60% = 遺体密度1.02人/m)


空間密度的なイメージとしては、道路200m区間を含む200m四方の空間に200体の遺体があったという理解でも良いと思う。

おそらく、これを上回る密度の遺体というのは、南京戦の範囲では陥落日に脱出しようとして行き場を失った下関の岸辺と、同じ日の新河鎮の激戦くらいのものではないだろうか。



事件翌日に現場に向かった同盟通信記者・前田雄二氏らが遺体の散乱を目撃したのはA地点からB地点に抜けるルートだと思われる。

この文面に出てくる「道路の揚子江岸に」という言い回しが気になっていたが、遺体の散乱範囲まで考えるとまさにそのようになった。逃走する際に急斜面は登らないはずだという想定をするとこうなるのである。

ここから推測すると、事件発生時点で路上を移送されていた捕虜らの少なくない人数が逃走しようとし、結果として「道路の揚子江岸に」おいて遺体になった、ということのように見える。

なお、「死体の山が連なっている」の「山」というのは既に山田支隊の戦場掃除がある程度進捗していたことを示していると思う。

私は、翌朝、二、三の僚友と車を走らせた。挹江門の死体はすべて取り除かれ、も早、地獄の門をくぐる恐ろしさはなかった。下関をすぎると、なるほど、深沢のいうとおり、道路の揚子江岸に夥しい中国兵の死体の山が連なっている。

南京大虐殺はなかったー『戦争の流れの中に』からの抜粋 /前田雄二



角田中尉もこのように証言している。現場での事件発生に起因する混乱が移送隊列に波及し、散り散りになって逃げようとする捕虜と、それに向かって「乱射乱撃」する護送兵、という情景が浮かぶ。

(角田中尉の証言)

「前方で乱射乱撃が始まり、どんどん銃弾が飛んでくる。…突発でなかったら、味方の方向に銃弾が飛んでくるなんて考えられませんよ。とにかく無茶な射撃でした」


南京の氷雨 /阿部 輝郎




(山田支隊の片付け工数)

ここで、ある種の検算のため、遺体の片づけ工数を考えてみる。


『南京の氷雨』にこういう日記が載っている。16日の夕食後に魚雷営に出かけて事件に居合わせ、戦場掃除をした上で23時30分に宿舎に戻っている。意外に戻るのが早い。

(佐藤一等兵・仮名)
12月16日 朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。あんなに二万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。夕飯を食してから、寝やうとして居ると、急に整列と言ふので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。考へて見れば、妻子もあり可哀相でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。 これも戦争か。午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰り、故郷の家族を思ひながら、近頃は手紙も出せずにと思ひつつ、四人と夢路に入る。(南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)(P25)


南京の氷雨 /阿部輝郎



魚雷営事件の直後には、現場の600体だけを片付け(揚子江に投げ入れ)たとする。


翌17日深夜には草鞋峡の事件があり、そこから全体の片付けを始めたものとする。

揚子江への投げ入れ:
- 魚雷営~C地点区間の612体
- 草鞋峡現場の1,680体
(小計:2,292体)

地上の適当な場所への集積(=のちに紅卍字会の埋葬対象):
- 上元門~C地点区間の588体
- B地点〜草鞋峡現場区間の306体
- 上元門~B地点区間の1,020体
- 上元門内(収容所方向)の594体
(小計:2,508体)

合計:4,800体



遺体数だけで見ても、魚雷営現場600体の 8倍。
魚雷営現場は岸壁なので、遺体を運ぶにしてもせいぜい20m。

翌日からの片付けは数百メートル運ぶ場合もあったと思われる。
そうすると、作業工数は 8倍どころではなくなる。

平均100m運ぶとすれば、それだけで遺体あたりの工数が 5倍。
併せて 40倍。

魚雷営の片付けを 3時間に見積もっても、翌日からの片付けは約 120時間分ある。

3倍の人員を投入しても 40時間分の作業。
4倍の人員を投入しても 30時間分の作業。

4倍の人員を投入して、19日の午前中までかかった。くらいが真相かもしれない。

魚雷営出動人員数を200名とすれば、18日からは800名投入。2交代制で1,600名。第65連隊でいえば2,200名だから幹部その他除けばほぼ総動員。

片付けに12月18,19の2日間かかって渡河予定を1日延期、というのは数字的にも納得できる範囲。



これがもしそうでなく、魚雷営に1/3連行、草鞋峡に2/3に連行で、全員処刑して魚雷営の片付けが 3時間で終了するならば、草鞋峡は 6時間しかかからないはずである。人員数2倍なら 3時間で終わる。現場の広さを考慮してもおそらく4倍くらいにしかならないから、12時間分の作業にしかならない。これなら投入人員数を増やせば18日の午前中に終わったはず。

こういうところからも、幕府山事件とは魚雷営と草鞋峡の2ヶ所の現場で起きた事件である、というような理解は誤りであることがわかる。



(草鞋峡遇难同胞纪念碑)

ここまで考察してきてから「草鞋峡遇难同胞纪念碑」が、なぜあそこに建立されているのか、やっとわかった。

上の地図で見てもわかるように、そこは幕府山事件で地上に散乱した遺体のエリアのほぼ中心地なのである。また、地形的特徴からすれば紅卍字会が一部の遺体を埋葬した場所でもあると思われる。

日本側の論証では、草鞋峡と魚雷営の現場にのみ注目が行っているが、中国側には事件後に目撃した人の話が残っていて、遺体散乱エリアこそが事件現場だと認識しているのだと思われる。

この点においては、前田記者らの目撃談と共通する面がある。




《5. 従来イメージを覆す試算結果》


上述してきた試算結果からすると、南京論者(歴史家、研究者その他)が一般に語ってきた幕府山事件イメージは相当間違えているのではないか。

つまり、収容捕虜数9千人として、このほとんどが2ヶ所の現場で殺害されたという話になってしまっていると思うが、実はそうではなかったと結論できる。

私の試算だと、事件発生時点で捕虜の過半数が現場ではなく移送中の路上にあり、その隊列の60%が死亡し、犠牲者総数の58%は移送途中の路上周辺である。前田記者らの目撃談や紅卍字会の埋葬記録とも、その方が整合的である。

また、上述したように例えば両角手記にある草鞋峡現場の捕虜数「二千人ほど」という数字や、郷土部隊戦記にある草鞋峡現場の犠牲者数「千人を上回った程度」は、収容捕虜数からいって信用ならない数字とされてきたと思うが、実は移送途中の隊列を無視しているために「そんなはずはない」と決めつけて切り捨ててきたのではなかったか。

関係者は、この移送途中の隊列に注目し直した方がいいと思う。


しかし、この移送途中の隊列からの多大な犠牲者というのは、突発的に計画外のことが起きたということであり、すなわち「自衛発砲説」に直結している。したがって、この事件を「計画的処刑」であるとして糾弾したい側からすると、触れにくい話なのかもしれない。




《改版履歴》


2022.09.17 初版




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《幕府山事件》概要編
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《幕府山事件》草鞋峡現場の外形的検証(後編)
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《幕府山事件》埋葬記録の絞り込み
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★南京大虐殺の真相(目次)
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