てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

ブラオイラ#240(街道をゆく③森本編)

2018年01月06日 21時16分13秒 | 【ヒゲ親父】ブラオイラ
街道をゆく本日はここからスタート

津幡から金沢に入りました。


この味方の本を持ち、今日も旧北陸道をゆくぞ~


おっ

「與一の道」とあります。
そう八田與一(はったよいち)さんですよね。

(與一は難しいので以降は与一と書きます。)


街道沿いには何かとあります。


ほぉ、


利屋町にはいりました。


この付近には利屋一里塚があったとあるけど、


位置的はここかなぁ、

左手の空き地が候補地である。


味方の本にはこう書いてあります。
津幡を過ぎた北陸街道は、まもなく金沢に入る。一里塚があった利屋、松並木が見られる北森本町へ進むが、
かってこのあたりは、河北潟岸の湿地帯だった。


おや、左手に小学校、右手に今どきめずらしい火の見櫓が見えます。

そして正面にあるお屋敷は・・・、


街道沿いにあるこのお屋敷は、

石川県が生んだ大偉人、八田与一技師の生家であります。


ちょっち、お邪魔しま~す


八田与一技師生誕地と刻んだ石碑。



台湾の人からすれば国の恩人であって・・・、
長くてすみませんが

(WEB歴史街道より)
八田与一 ~台湾で最も尊敬されている日本人
烏山頭(うさんとう)ダムを建設し台湾の人々から今も慕われ続ける日本人です。
今も「台湾で最も尊敬されている日本人」と称される八田与一。彼の功績は台湾の教科書に写真入りで紹介されているそうです。

そんな八田は明治19年(1886)、石川県河北郡花園村(現在の金沢市今市)に生まれました。
八田はその生涯のほとんどを台湾で過ごし台湾の開発に人生を捧げることになりました。
その最大の仕事は、嘉南平野に農業用水を供給するための灌漑工事です。

15万ヘクタールにも及ぶ嘉南平野は、河川が少ないために深刻な旱魃の危険に常にさらされた不毛の土地とされてきました。
八田はその大規模な水利工事の指揮をとりました。
ダムを建設して水源を確保し、さらに水路を平野に縦横に張り巡らせて、不毛の地を豊饒な大地へと変貌させようとしたのです。
工事は実に10年にも及びますが八田は陣頭指揮を執り続けました。
日本人も台湾人も一緒になって取り組み、八田は自ら率先して危険な現場にも足を運んで工員たちからも篤く信頼されたといわれます。
その結果、貯水量1億5千万㎥の大貯水池・烏山頭ダムと、嘉南平野一帯に16,000kmにも及ぶ細かく張り巡らせた水路がついに完成。
これによって潤された嘉南平野は、台湾最大の肥沃な穀倉地帯へと生まれ変わります。

台湾の人々は八田への感謝の気持ちを込めてダムが完成した翌年に八田の銅像を建てました。
その銅像は座った姿で右手を額のあたりに添えています。八田が考え事をしている時によくとっていたポーズでした。

しかし太平洋戦争中の昭和17年(1942)、フィリピンの綿作灌漑調査を命じられた八田は、
「大洋丸」に乗船して五島列島南方を航行中、アメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けて船が沈没、不慮の死を遂げます。享年56。


石川県では毎年8月に日本全国で学ぶ外国人留学生、研修生と市民のふれあいのためのテント=『JAPAN TENT』が開催されていますが、

(拝借

台湾の参加者は、その期間中にこの八田技師の生家を訪ねているとのことです。

(拝借

生家の裏手に小学校があって、


八田技師の像もあります。


ん!?


台南市教師団御一行来校記念


嘉南国民小学校御一行来校記念


台湾との交流が続いている証ですね。

そんな偉大な八田技師のことを思いながら、
街道を進む。







山側環状線高架下をくぐると、


ここにあるように


松並木が現れます。


昔の風情が残っている貴重な場所です。


そこに、


ちゃんと石標と

石川県指定史跡 松並木の旧金沢下口往還 と彫ってある。

そして説明板も設置されていました。


さらに進むと、


橋が出てきた。

森本大橋。

森下川で上流方面を見る。

北陸新幹線の高架が見えます。

下流方面

晴れ間が出てきた。

橋を渡ると左手に立派なお寺が


光円寺とある。


そして正面に陸橋が見えてきた。


歩いてみよう


上り口の左手に小さな公園。


これは道路元標

ここに移設したようです。

右手に森本中学校と体育館。


陸橋を下りる


森本の中心付近。


右手に森本駅。


きっと北陸新幹線の高架でここが一番高いのではないだろうか。


北陸自動車道をくぐります。


左手に神社があった。


菅原神社。


昔ここで白いヤギを見た記憶があんだよなぁ(記憶違いかな


百坂。


真っ直ぐの通りではなく、


旧道は横に入って行きます。


ここね。


脇に対のお地蔵さんがありました。


今日はここまで。


今回はこれだけ進みました。



次回は鳴和編につづく。
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