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てんもく日記

ヒゲ親父が独特の感性で記録する日記。このブログがずっと未来に残るなら、子孫に体験と思いを伝えたい。

いつか歩きたい

2025年05月27日 20時26分07秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
オイラがいつか歩きたいのは、奥の細道

そうです松尾芭蕉が歩いた地であります。
特に東北エリア、
定年になったら挑戦したいです。
夢が叶うよう今夜はこれを読もうかな・・・
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司馬遼太郎と竹内街道

2025年02月27日 21時10分26秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
オイラは司馬遼太郎のファンである。
だから生前に彼が書き残した場所なんかは訪れたいと思うし、そこで見たとされる風景を見て、どのように感じるのかも体験してみたいと思っている。

その司馬遼太郎が近江(滋賀県)を好んでいるというのは知られているが、奈良についても相当に愛着を持っていたはずだ。

街道をゆくでは何度も訪れており、シリーズでは奈良が最多。

1巻から「竹内街道」さらに「葛城みち」
7巻から「大和・壺坂みち」
12巻は「十津川街道」
24巻から「奈良散歩」

東大阪に住んでいたので気楽に行けたろうし、母親の実家が葛城だったので幼少の頃はよく訪れていたとある。


では「竹内街道」から、


気になる箇所を、抜粋して紹介すると
くりかえしていうようだが、その葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることがのぞましい。
それも田のあぜから望まれよ。視界の左手に葛城山が大きく脊梁を隆起させ、そのむこうの河内金剛山がわずかに頂上だけを、大和葛城山の稜線の上にのぞかせている。
「大和で、この角度からみた景色がいちばんうつくしい」ということを、ごく最近、大阪の中之島で出会ったひとに話すと、そのひとがわざわざ出かけてくれて、
申されるとおりである。と、わざわざ私あてに人伝えにつたえてくれた。



先日の奈良旅行、
オイラもこの場所に立ってみたかったが、もう何十年も前のことだから難しいだろうし、そもそも到着が朝早すぎた・・・、


昔はこれほど住宅地になっていなかっただろう、ほとんど山が見えず、葛城山だの河内金剛山だのまったくわからず



では、もう一か所気になるところへ、

村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村まで路幅も変らず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。それが竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾ー竹内間のほんの数丁の間は日本で唯一の国宝に指定されるべき道であろう。

たしかに路幅は狭いままだが、残念ながら舗装はされたね。


長尾にある、


長尾神社へ、


朝のお参りをして、


境内から鳥居を見ると、ようやく陽が上がってきたようで、


竹内街道は大阪の堺から、この長尾神社付近までとなっているので、この神社は当然に相当古いことになる。


この道が司馬さんがいうように国宝にでもなっていれば、もっと大事に保存されていたんだろうけど、


それでも我が国で最も古い国道に立てたということで、少し嬉しいものがある。
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今週の歴史探偵

2025年02月17日 20時31分14秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
今週水曜日の歴史探偵、
まさかこのタイミングでこれをやるのか・・・、


見るべきか、敢えて見ずにおくべきか、
いずれにせよ録画はします。
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諏訪大社をもっと知りたい。

2024年10月22日 21時46分30秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
先日の富士&諏訪への旅、諏訪大社4社巡りました。
そして諏訪大社について、もっと知りたくなったのです。

事前と事後にネットで簡単に調べただけでも相当変わっている神社だということはすく分かります。

日本最古の神社?
なぜ四社ある?
現人神?
御柱とか御頭祭って?
・・・いろいろ不思議ですね。


諏訪大社は一般的な神社のイメージからかけ離れているようです。
荒々しく、独特で、誤解を恐れず言うなら野蛮な部分も感じます。
そんな異質な諏訪大社をより深く知りたくなりました。

ということで・・・、Amazonで注文したのが本日届きました。

諏訪の神 ~封印された縄文の血祭り~ 戸矢 学 著

入門書とは違って、内容はディープとの評、
これは楽しみ、さっそく風呂読書で読み始めよう。
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竹島はウルルン島!?

2024年07月25日 19時52分00秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
前回、司馬遼太郎の「竜馬がゆく」で
日韓領土問題の竹島領有権について、江戸末期に土佐の岩崎弥太郎(三菱創業)が竹島に上陸、すでに朝鮮人が居た県について、

いろいろ調べた結果、
岩崎が上陸したのは、竹島ではなく、鬱陵島(ウルルン島)とのことで、現在の竹島(当時は松島)とは異なる島だそうです。



そりゃそうだろう、
画像で見る限り、竹島には平地なんてないし、文章での「浜辺に毛氈を敷き、その上で食事をしはじめると・・・」なんて出来ようがない島であります。


鬱陵島(ウルルン島)ならば納得であります。


日本政府は、竹島は、歴史的事実に照らしても、かつ国際法上も明らかに我が国固有の領土という立場を取っています。
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高山右近の墓所

2024年04月29日 18時00分00秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
ボランティアのため志賀町に行ったときに集合時刻まで時間があったので、
少し周辺を車でブラついていた。
~~
道路わきに小さな公園があって何か銅像があったので駐車し見てみると、
なんと高山右近の像であった。


横の説明文を読むと、
このあたりの集落にて右近の子孫が住み続けており、右近のお墓まであるという。
まさかキリスト信徒の右近は国外追放となりフィリピンのマニラで死んだはず。

そろそろ集合時間となるので一旦この場所を離れた。

・・・・・・・・・(ボラ活動中)・・・・・・・・・・・・・。

無事終わり、解散してからまたこの公園にやって来た。
高山右近記念公園とある。


ならば高山右近の墓所に行ってみようと、


しばし歩くと表示板があり、


この細い道を通り、


裏山へ登っていくようだ。


遠くなければいいが、


ちなみにカミさんはいつものごとく、車中で待機している。


ふぅ~


もう少しかな、


なんとか到着したようだ。


おぉ!十字架の墓石がある。


高山右近墓所と刻まれてるではないか!


高山右近が前田家の客将になり、金沢城の修築や高岡城の築城に活躍したことは知っていました。
そういえば以前ブラオイラで七尾に行った時に右近のゆらいの場所がありました。
だけど志賀町に子孫がいたなんてのは知らなかった。


帰って調べてみると、
<ウィキより>
慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となっていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバらから歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1月6日(1615年2月3日)に息を引き取った。享年63。マニラ到着からわずか40日のことだった。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会にて、10日間という長期間にわたり盛大に行われた。右近の亡骸は、イエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬された。1634年には右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられた。1767年、マニラのイエズス会が閉鎖され土地と建物はマニラ大司教区の所有となる。その後、右近の遺骨と画像は行方不明となった。右近の遺骨を探す活動は今も続けられ、その一部は高山右近記念公園(石川県羽咋郡志賀町末吉 ハ3)にあるとされる。
右近の死後翌年に家族は日本への帰国を許されたとの記録がスペインのトレド文書館に保管されており、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系の3つの「高山家」がある。


たしかに秀吉の次の徳川時代もキリスト教は禁止され続けたので、このような墓は裏山の奥に置かれるのは理解もできる。



う~ん、まだまだ地元の歴史でも知らないことがあるものだ。
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ブラタモリとブラオイラ

2023年06月25日 09時50分20秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
昨日のブラタモリは「関ケ原」でしたね。


昨年の10月にブラオイラで行った場所でした⇒ブラオイラ#434

そうかあのルートは断層が原因でできた道で、


徳川方の黒田長政の鉄砲隊が、石田方の勢いづく島左近を抑えることとなる走ったルートだったんだ。


あの時オイラ達は自転車で走りました。


黒田隊進め~!(なんつって


関ケ原では多くの陣地を巡れたが、
時間が無くて大谷吉継のところが行けなかったので、ぜひ今度挑戦してみたいよ。
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まさに大河ドラマで勉強してる。

2022年08月08日 19時08分12秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
オイラは歴史好きだけど、
鎌倉時代については知らないことが多かった。

源氏から北条氏への権力の移行なんて、
まさに今放送している大河ドラマで知り得ているところ。

それだけに今までの大河の視聴とは違って、
授業を受けている感覚でもある。しかも面白い授業だ。

オイラにとっては歴代1位の大河ドラマ、
ますます面白くなって、日曜日楽しみなのです。
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まぼろしの関

2022年02月08日 19時17分20秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
先日、滋賀県からの帰路で西近江路という古くからある道を通った。

この道は近江から越(越前)に通ずる道で、かってこの途中に愛発の関(あらちのせき)という関所があった。

(ウィキより)
愛発関(あらちのせき)とは、北陸道に置かれ、越前国にあったとされる関所。東海道の伊勢国鈴鹿関と東山道の美濃国不破関とともに古代三関(さんげん)の1つであった。奈良時代から平安時代初期の一時期のみ存在し、のちに逢坂関にとってかわられた。その詳細な所在地は明らかになっていない。

福井に入ると疋田という地に入る。


愛発って書いてある。


この小さな用水は敦賀運河(疋田舟川)


とても流れが早い。


この疋田という地域、個人的には大変興味深いものがあります。
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何度目かのマイブーム

2021年07月20日 20時00分00秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
Amazonから二冊の本が届きました。

おくのほそ道です。

何度目かのマイブームが再燃しました。

今回は、この本とYouTubeの二刀流で学んでいこうと思っています。
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越前和紙は最初の紙幣

2021年05月05日 14時30分00秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
100円で売ってた越前和紙のメモ用紙。

普通の紙より滑らかに書けるような気がします。
やっぱ越前和紙は違うなぁ・・・。


そういえば、先日行った越前和紙の里の集落に、


「紙幣工場跡地」という説明板があった。



そこで調べてみると、
紙幣の歴史がこの越前和紙から始まっていることがわかりました。

ネットより抜粋
<紙幣の歴史>
1661年 日本で最初の藩札が福井藩にて発行された。
福井藩藩札用紙を五箇村で漉く。
1868年 政府で今までに発行された各藩の藩札を比較検討した結果、「五箇村の紙が一番良い」とされ、福井藩が全国通用の太政官金札(だじょうかんきんさつ)を発行することになった。
1923年 「川上御前」を紙祖として、大蔵省印刷局抄紙部王子工場及び、三島高野製紙場へ分祀(ぶんれい)する。
1942年 14企業が終結して「岡太製紙施設組合」を組織し、「抄紙部(印刷局抄紙部越前工場)」が誕生。


日本銀行金沢支店のHPにも以下のような紹介がありました。
日本銀行券の「紙すき技術」と「すかし技術」のルーツは「越前和紙」です!
「越前和紙」の歴史は古く、奈良時代には既に紙がすかれていました。
1660年(江戸時代)、福井藩主からの要望で、日本で最初に「すかし技術」を開発し 「すかし(梅と鶯の文様)が入った紙」を献上しました。
また「紙すき技術」の研究を続けた結果、近世の「藩札」や近代の「金札」の紙に「越前和紙」 が採用されました。
その後も「紙幣用紙」の研究開発に協力し、新しい技術を完成させてきました。


この紙が、


100万円の札束に見えてきた・・・。


ジョーク、ジョーク、わしジョーク。
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なぜ日本人はイスを採用しなかったのだろうか。

2021年05月01日 18時42分50秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
外出してトイレに入った際に、
和式だったら・・・、

洋式トイレでないとできるだけ我慢します。
和式は嫌ですもん。

最近思うのです、
なぜ日本人にイスという文化が発展しなかったのだろう。
不思議だなぁ・・・。

昔から日本人は畳の上で、
食事も、接客も、勉強もしてきた。
正座やあぐらをかいてよくできたもんだ。
昔でも高齢者なら膝が痛くなっただろうし、我慢したのだろうか。

なんて考えるのは、
最近いろいろ膝が辛くなる場面が増えてきたからです。
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幕末の動乱

2021年03月05日 20時17分00秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
「青天を衝け」に触発されて、幕末モードに入っております。

先日ブックオフで買ったこの小説を寝る前に読んだりしてね。

ドラマでは草彅剛さんが演じてますね。

週末に敦賀方面に行くけれど、
敦賀のイメージといえば、横浜や神戸のように北陸におけるの海外への玄関口、日本海側だけに勝手口といったところか。
古くは渤海国の松原客院、近代の欧亜国際連絡列車やユダヤ難民上陸港などまさにそれになります。

一方で幕末動乱のイメージもあって、敦賀は幕末に起こった水戸天狗党終焉の地でもあります。
尊王攘夷の急先鋒であった水戸藩から明治維新の志士がいないのは、この地でみんな殺されたから・・・。

そのあたりを意識して、敦賀の地を巡ってみようと思います。
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ここまで細かい「金印」の本

2020年06月14日 09時18分33秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
この本も図書館で何度か借りているんです。

福岡で発見された「漢委奴国王」の金印に関する本です。

これが凄いのは、金印そのものを詳細に分析しているというところ、


写真も豊富で


ここの彫り方はどうのこうのと・・・、

(細か・・・


金印といえば、江戸時代に作られたという真贋論争がありますがそれはあり得ない。

これは1981年に中国の揚州市郊外で発見された「廣陵王璽」の金印ですが、


日本の「漢委奴国王」と同じ時期に同じ場所の同じ工房で作られたと言います。
蛇も亀もたくさんの◎の模様がありますが、
これは◎印を刻む「たがね」で打っているということです。

こういう細かい内容の本を読むときは、ある程度のパワーがいりますが興味あることならぐぐっと読み進めます。


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歴史好きが憧れる土地。

2020年03月09日 20時24分08秒 | 【ヒゲ親父】歴史のこと
オイラは歴史が好きです。
だから、会社帰りのコンビニにこんな本が売っていると


大抵、買っちゃいます。


歴史は古代から近代まで隈なく好きですが、
なかでも古代史にはロマンを感じますねぇ。


次に生まれ変わるなら、奈良県民になりたい。
京都ではないんだよね・・・、古代史のメッカ、奈良がいい。
オイラが奈良なんかに住んでいたら、
死ぬまで土地歩きしまくって一生飽きないだろうよ。

当然世の中には、歴史に興味がない方はおられますが、
オイラから言わせれば、もったいないの一言です。

歴史から学ぶものがあるとかいうけど、オイラの場合
そんなかたいモンではなくて、
昔々・・大昔にそういう事があったんだということを知るだけで、なんとも面白くなるのですね。
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