てんもく日記

夫と妻と大学生の息子と娘。【ヒゲ親父】は変なことばかり投稿しますが、最近は地元の町歩きにめざめちゃっております。

小浜拉致現場を訪れて・・・

2019年06月07日 21時10分17秒 | 【ヒゲ親父】事件の現場
2018年度、地村さんは福井県小浜市内の全14小中学校で啓発講座を開き、579人の児童生徒に自身の経験を伝えた。
「今の中高校生は拉致を知らない世代」
17年前に帰国を果たした福井県小浜市の拉致被害者、地村保志さん(63)が、講演のたびに口にする言葉だ。
地村さんは「拉致が昔の悲しい歴史になってしまう」という危機感がある。

(拝借

横田めぐみさんの拉致とは違って、
地村さん夫婦の場合は、現実に戻られてきているので、
具体的に何が起こったのか分かっているわけであります。


先日、小浜に行った際、この拉致事件が起きた現場に行ってきました。
その時何が起こったのか、どのように拉致が行われたのか確認したいと思います。

その展望台はあの岬の高台にあります。


今から40年以上前の出来事です。

福井新聞ONLINE「地村さん夫妻、拉致された夜」より

星空がきれいな1978年7月7日夜、福井県小浜市のレストランで食事を終えた同市の地村保志さん=当時(23)=と浜本富貴恵さん=同(23)=は、地村さんの軽トラックで標高67・2メートルの小浜公園展望台に向かった。七夕のデート。2人は1週間前に結納を交わし、秋に結婚することが決まっていた。
海沿いの通りから山にあがる道が出てくる、


その狭い道を通って、


展望台へ向かう。


対向車とすれ違うのが難しい細い道です。


途中で、頂上近くの道を、男4人が歩いて登っていくのが、窓越しに見えた。保志さんは関係者に「半袖のワイシャツみたいな服で、夏場の観光客のようだった」と話している。当時、展望台近くにはユースホステルがあったため、不自然な光景ではなかった。


ということは、あらかじめ地村さんと浜本さんを狙ったのではなく、
偶然に地村さんアベックが被害を受けたということになる。

展望台に到着。


展望台付近に車を止めて、階段を上り、展望台の2階に行った。


眺めがいい。

結婚直前の二人は、この時まで幸せだった。

柵にもたれ下をのぞくと、外のベンチに座っているアベックが、さっきの4人に取り囲まれていた。追い払われるように、アベックは車に乗って去って行った。

「様子がおかしい」と思った保志さんは、下の様子を確認するため、たばこを取りに車に戻った。


悲劇はすぐそこに迫っていたんだ・・・。


展望台1階のベンチに座り、たばこを吸っている4人が見えた。


保志さんはたばこを持って2階に戻ったが、嫌な予感がした。立ち上がって帰ろうとすると、4人が後ろに立っていた。階段を上る音など、近づく気配はまったく感じなかったという。

その瞬間、後ろに倒されうつぶせにされた。猿ぐつわのようなものを口にはめられ、保志さんは手錠、富貴恵さんは後ろ手に縛られた。足も縛られた。
保志さんは頭を振って抵抗したため、地面に顔を擦った。そして、2人はそれぞれ麻のような袋をかぶせられた。うつぶせの状態で、男の肩に担がれて、斜面を下ろされた。



保志さんは関係者に「動くたびに男の肩がみぞおちに入り苦しかった。自分が動こうとすると、手錠が締まっていく感覚があった」と打ち明けている。


音と男たちの動きから推測すると、車道に出て、


1台の車が通り過ぎるのを待って、


浜まで下ろされた。


ここだ。


息苦しそうにしている保志さんを見かねたらしく、口元付近の袋の布がナイフで切られた。そのすき間からわずかに見えた風景を保志さんは覚えているという。両端には岩、正面には真っ黒な海と、奥にはいさり火が光っていた。

この岩を見たのだろうか。

襲われてからここまでの間、2人は男たちの声を一言も聞いていない。まさに無言の犯行だった。

そして二人は連れていかれた・・・・。



怖ろしい・・・・。

こんなに恐ろしいことが起こるなんて夢にも思わなかったでしょう。

40年前の暑い夜に、この展望台で、


とても怖ろしい事件があったんです。


軽トラックだけが、


残されて・・・、


地村さん夫婦が後にこう語っている。
「人生の最も大事な時期を日本で過ごすことができなかったことは、悔やんでも悔やみきれない」
夫妻は婚約後の1978年7月7日に行方不明となり、2002年10月に帰国、24年の歳月が経過していた。



新潟市拉致現場⇒横田めぐみさん拉致現場

宇出津拉致現場⇒久米裕さん拉致現場


【ヒゲ親父】
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北朝鮮拉致第1号の宇出津事件現場を訪れて・・・

2017年10月10日 23時36分26秒 | 【ヒゲ親父】事件の現場
北朝鮮拉致被害者5人が平成14年10月15日に帰国してから15年となる。

福井県小浜市で拉致問題の早期解決を訴える地村保志さん(右)と妻、富貴恵さん(写真:産経新聞)

(拝借)地村さんも歳とったなぁ

もう15年になるのか・・・。

この憎むべき北朝鮮拉致事件は、1977(S52)年から1983(S58)年頃にかけて頻繁に行われている。
1977年9月19日 久米裕さんが石川県宇出津海岸で拉致される。
1977年10月21日 松本京子さんが米子市の自宅近くの編み物教室に向かった際に拉致される。
1977年11月15日 横田めぐみさんが新潟市において下校途中に拉致される。
1978年6月頃 東京で田口八重子さんが拉致される。
1978年7月7日 福井県で地村保志さんと濵本富貴惠さんが拉致される。
1978年7月31日 新潟県で蓮池薫さんと奥土祐木子さんが拉致される。
1978年8月12日 鹿児島県で市川修一さんと増元るみ子さんが拉致される。
1978年8月12日 新潟県佐渡で曽我ミヨシさんと曽我ひとみさんの母娘が拉致される。
1980年5月頃 石岡亨さんと松木薫さんが欧州滞在中に拉致される。
1980年6月中旬 原敕晁さんが宮崎県の青島海岸に連れ出され、拉致される。
1983年7月頃 有本恵子さんが欧州にて失踪、拉致される。

石川県能登町の宇出津から始まったのだ。


宇出津事件の概要は以下の通りだ。
(文字が多くてごめんなさい

1977年9月18日、東京都三鷹市の警備員だった久米裕さん(当時52歳)と在日朝鮮人の李(同37歳)は、国鉄三鷹駅を出発した。東海道を進み、福井県芦原温泉を経由して翌19日、能都町(現・能登町)宇出津の旅館「紫雲荘」に到着した。午後10時。2人は黒っぽい服装で宿を出た。怪しんだ旅館側は警察に通報し、石川県警からの連絡で能都署員と本部の捜査員が現場に急行した。旅館から歩いて5分ほどの小さな入り江「舟隠し」で男は石をカチカチとたたいた。数人の工作員が姿を現し、久米さんと闇に消えた。男は外国人登録証の提示を拒否したとして、駆けつけた署員に逮捕された。旅館からはラジオや久米さんの警棒などが見つかった。

北朝鮮による拉致事件の第1号事件なのだ。

久米裕さん

(拝借



オイラは、この現場に必ず行くつもりだった。

珠洲への国際芸術祭の帰りに寄ることができた。

あそこか・・・対岸より


あそこに現場である「舟隠し」という入り江がある。




1977(S52)年9月19日午後に李と久米さんが宇出津の旅館「紫雲荘」に入る。


ここだ。


バスが駐車してあるが、旅館自体はすでに廃業している。


ここで李は久米さんに旅館ではしゃべるなと注意している。


旅館の女将は落ち着きなく口をきかない二人を怪しみ、夕食後に110番に通報している。


この場所は海岸より高台にあり、旅館の前には遠島山公園がある。


ここには吊り橋があって、


しらさぎ橋(S43.3架)があって、けっこう高い。


橋上から舟隠しの入り江が見える。


あそこだ。


S43年架とあるので、この橋は事件当時には存在していたことになる。


夜9時すぎ、短波放送で「決行」指示の「南山の青い松」が流れた。

李と久米さんは黒い作業ズボン、紺のアノラックに着替え、夜の10時過ぎに旅館から外へ出て行った。

この付近の案内地図。


40年前であるが、二人が歩いたルートは想定できる。

赤い紫雲荘からおそらく黄色線のルートを通ったであろう。

今では「潮騒の小径」などと呼ばれている。


ここ。


今では整備されているが、


当時はどうだったんだろうか、

あまり人が通らない道だったと思うが、

坂をどんどん下りていく、


何かが地面で動いたので、見てみると、

カニがいた。

夜の10時過ぎならば当然真っ暗なわけで、懐中電灯で照らしながらここまで来たんだろう。

入り江が見えてきた。

着いた。


拉致現場である・・・・。


想像するだけで不気味だが、
李が小石を三回打ち付けて合図を送ると、暗闇の中から三人の男たちが現れたという。


遠くにしらさぎ橋が見える。


李は久米さんを三人に引き渡したのち、旅館に戻った。



まさにここから北朝鮮拉致事件が始まってしまったのである。


この宇出津事件、警察が北朝鮮工作員にもっとも迫った事件と言われている。
もし未然に防いでいたのなら、その後に連続して起こる拉致事件に影響を与えたといわれている。

新潟の現場もそうだったが、宇出津の現場も何ともいえない悲しさを感じてしまう場所である。



前に横田めぐみさん拉致現場を訪れた時のことを投稿しました。
横田めぐみさん拉致現場

福井小浜の拉致現場も訪れた
地村夫妻拉致現場


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横田めぐみさん拉致現場を訪れて・・・

2017年06月11日 13時40分00秒 | 【ヒゲ親父】事件の現場
オイラが日頃から北朝鮮に対して怒りの投稿を書くのは、
やはり日本人の拉致事件のせいだろうね。

特に、新潟で中学生の横田めぐみさんの拉致を知ったときは、その衝撃で言葉を失ったほどだ。

いくらなんでも女子中学生まで・・・・。


そして・・・、
国主導で国際犯罪を犯しときながら、あの国の言い放った言葉が
「横田めぐみは自殺したので、もうこの世にいません」だった。
オイラはあの国を絶対に許さないと思った。


先日図書館から借りたこの本と併せて昨日訪れた現場を報告したいと思います。

新潮社「めぐみと私の35年」横田早紀江著


ページを開いてみる。

第二章 絶望 -どこにもいない娘

文章は、

あの日のことは、思い出したくもありません と始まる・・・。


1977年11月15日の出来事。

1977年といえば2017年の今から40年前となる、オイラは8歳の小学生。
めぐみさんは13歳で中学1年生だからめぐみさんの方が5歳ほど年上だ。

あの日・・・、
1977年11月15日夜7時過ぎ、いつも夕方6時には帰ってくるめぐみさんがなかなか帰らないので、
心配された母 早紀江さんは、寄居中学校まで見に行かれた。


バドミントン部だっためぐみさんがいるとすれば体育館。

(著書より)
学校へ着くと、すでに人気はなく、校舎の裏手へまわって体育館へ急ぎました。
体育館には電灯が煌々とついており、「キャー、キャー」という女の人の声が聞えます。
まだ練習をしていたのだと、ほっと安堵しました。

ここか・・・



(著書より)
体育館の入口から中を覗いてみたのです。すると、生徒ではなく、お母さんたちがバレーボールの練習をしていました。
さっと血の気が引いて、胸騒ぎがします。あわてて校門の方へ走って行くと、守衛さんが立っていました。
「バドミントン部の父兄ですけど、子どもたちは帰ったんですか?」勢い込んで聞くと、守衛さんは怪訝そうに言われます。
「もうとっくに帰りましたよ。六時過ぎくらいには、皆、帰りましたが」
私は気が動転し、すぐさま校門を飛び出しました。


これが帰り道。

あの時、めぐみさんも歩いたのである。


早紀江さんは、めぐみさんの友達宅へ電話をし、顧問の先生にも電話をしています。

(著書より)
「一緒に帰ってきたから、もうだいぶ前に別れました」誰もがそう答えるので・・・・・、


この時の早紀江さんのお気持ちはいかほどだったでしょう。
心配で心臓が破裂しそうにあったに違いありません。


オイラにも経験があります。
もう帰らなければならない時間をとっくに過ぎて真っ暗になっても息子が帰って来ない・・・
(当時近所では不審者情報が頻繁にありました)
あの時の不安を思い出します。




海へと続くこの通りから、そこで左折して自宅方面へ曲がる交差点



早紀江さんは暗闇の中、懐中電灯を持ってそこらじゅうを探しました。

(著書より)
防風林の手前には、護国神社があり、周りに街灯もないため、境内へ続く石畳の道だけが白々と浮かびあがっています。真っ暗な参道を歩いていくと、松林が風にざわめき懐中電灯のかすかな灯りの先に慰霊塔が見えてきました。

ここですね。


白い石畳


懐中電灯に照らされた慰霊塔はここか・・・


たしかに夜だと真っ暗で怖いだろうな。

(著書より)
小三の息子たちは怯えてしまい、「もう、イヤだ、イヤだ!」と大声で泣き出しました。
さすがに奥の社殿までは怖くて行けず、やむなく門前まで戻り、寄居浜へと向かったのです。


この時の早紀江さんの気持ちを、想像するだけで心が痛い。


(著書より)
のちに、めぐみが失踪した日の足取りがわかりました。
バドミントンの練習を終え、部活のお友だち二人と学校の正門を出たのが、午後六時二十五分頃。三人は寄居浜の方へ向かって通りを歩き、一人が二つ目の角を右に、もう一人が次の交差点を左に曲がり、めぐみと別れました。それが、午後六時三十五分頃です。娘はさらに一人で歩いて、二筋目を左に曲がりますが、警察犬が立ち止ったのはその角でした。そこから家までは、わずか一、二分。娘の足跡はその角で忽然と消えてしまったのです。


ここでめぐみさんは消えた。


ここが拉致現場といわれているが、特定失踪者問題調査会はさらに進んだ自宅により近い場所だとみている。


ここで拉致された可能性もある

そこを右折すると、すぐにめぐみさんご自宅があった。



めぐみさん、怖かったのだろうなぁ・・・、

オイラにも娘がいるが、そんな悪夢が自分の娘に降りかかったらと思うと卒倒しそうな気持になる。

訓練された数人の工作員が、彼女を捕まえ、近くにある

目立たない防砂林の中へ運び込み、脱出の準備を整え、


浜辺に隠してあったボートに乗りこみ、


沖合に待機していた小型工作船で脱出したといわれている。
11月ともなれば冬直前、波も相当荒れていただろう。

まさかご家族や学校関係者の方もめぐみさんが北朝鮮によって国外に連れ去られたなんて思いもつかなかったことでしょう。


思えばオイラが中学生頃には、海水浴に行ってた内灘海岸などに「不審者を見つけたらすぐに警察へ」の看板が立っていた。
でも当時は変態オッサンのことだと思っていたのだが、警察関係者では海外工作員による連れ去り事件についてうすうす気付き始めていたのである。

めぐみさんの事件の前に能登で発生した宇出津事件をきちんと対処できていたなら、それから発生する多くの北朝鮮拉致事件は起こらなかったといわれている。


相当年月が経ってから、まともな神経では聞くことができないほどの残酷な話が報告されることとなる。

ずっと後になって出てきた証言によると、お父さんとお母さんが必死でめぐみさんを探していたとき、めぐみさんは北朝鮮の工作員に連れ去られ、40時間もの間、北朝鮮に向かう船の中の真っ暗で寒い船倉に閉じこめられて、「お母さん、お母さん」と泣き叫び、出入口や壁などあちこち引っかいたので、北朝鮮に着いたときには、手の爪がはがれそうになって血だらけだったと言われています。

・・・・・・・・・・・

北朝鮮に到着しためぐみさんは泣き続けた。そんな姿に、北朝鮮当局者は「朝鮮語を勉強するなら日本に帰してやる」と伝えた。だが、その約束は、当たり前のようにほごにされる。

・・・・・・・・・・・

証言によれば、めぐみさんは「完全隔離病棟」に収容され、30歳だった1994年4月10日に死亡し、15日に付近の山に埋葬された。証言者たちは「精神安定剤、睡眠薬を主に服用し、注射された」とし、睡眠薬のハイミナルなど、薬の種類と服用した量に言及した。
証言者たちは「患者が死んだ当時、全身に青い斑点があった」「劇物や過剰な量の薬物を飲んだり注射されたりしたとき見られる所見」とした。さらに「(めぐみさんの)遺体は(国家安全)保衛部(労働)党組織の指示で、トラクターに乗せられ、他の遺体5体とともに山に運ばれ、棺もなくそのまま同じ穴に埋められた」という。


だから・・・・、
だからオイラはどうしても北朝鮮を許せないのだ・・・。

あの国は、早く崩壊すべきなのである。


虚しい・・・。



(拝借


あの事件より、まもなく40年になろうとしています。


拉致事件はここからはじまった⇒宇出津事件現場


地村さん夫妻の拉致事件⇒福井県小浜拉致現場

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