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松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

緊張感に生きるタイプの行く末は?

2005-03-08 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
どうも私は一般的に「根を詰める」ものを好む
傾向があるようです。
集中し出すと寝食を忘れるタイプで
疲れ果てて眠るような子供だったそうです。
どちらかといえば幼い頃は一気タイプを好み、
成長するにつれてじっくりタイプへと
好みが変わっていったようです。
おそらく体調を崩したことも影響していると思いますが、
体力的にもつらくなって変わっていったのでしょう。

どちらかといえば達成感の喜びよりも
完成が近づくにつれて
寂しさを感じる方なのかもしれません。
現場が好きですね。
やっぱりある種の緊張感が好きなんですよね。
先日の交流競技会でも参加演目が終わるごとに
「ああ、またひとつ終わってしまった。
今年もこうして交流競技会が終わってしまう…」と、
緊張から解放されながらも同時にせつなさを楽しんでいました。

実は去年、中国結びを習おうとしていたのですが、
体調を崩してしまい中断したままになっています。
そして今、中国結び以上にやりたくて仕方のないのが剪紙です。
厳密にいえば、剪紙はハサミを使って作った切り絵や文様のことで、
カッターのような刻刀を使ったものは刻紙といいます。
自分がやりたいのは刻紙の方です。
刃物はハサミよりも危ないから扱い方に注意しますよね。
これもまたひとつの緊張感でしょ?
ほんとに自分でも呆れるくらい緊張感が好きなんですね。
これは体質が求めているのか、志向が体質を育てたのか?

もちろんすべての緊張が悪いわけではないことも
わかっています。
緊張感を目の敵にしているわけでもありません。
自分をコントロールできればよいのです。
度を超してしまうから問題が生じてくるのです。
太極導引での状況から判断しても、
もう少しコントロール力をつけてからの方が
良さそうな気もしています。
それではその時が来るまで
もう少し待ってみることにしましょうと、
言い切れてしまう自分に驚きます。
今までだったら、まずあり得ない(笑)。
おそらく強引な理由を見つけてきては
自分を説得し始めることでしょう。
我慢を我慢と意識しないで自然に受けいれられるときは
無理がないから穏やかなんです。

たまにこういうご褒美みたいなことがあると、
ほんと嬉しいものです。

生きること、生かされていること

2005-03-07 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
自然界のリズムに同調することは
生命力の再生につながるのではないか
と思っています。

冒頭から大上段に構えてしまいましたが、
つまるところは私自身のささやかな経験から
何とはなしに思っていることなのです。
要約すると、どうもそういうことに
なってしまうんですね。

過呼吸症候群で思うようにならなかった時期、
ふと花を種から育ててみたいと思いました。
自分で手をかけた結果が形となって
確認できることがそのまま自分の存在証明にもなる
と思ったのです。
そのくらいに自分を見失っていました。
今でいう「引きこもり」とほとんど変わらない状態でしたね。
生きている感覚が妙に希薄で、すべてに不安定でした。

幻想の自分と現実の自分を比べてみたり、
みんなと同じことをすることが
普通の生活なのだと思いこんでいたように思います。
つまり自分が思い描いた自分、
みんなと何ら変わらない自分という
虚構の世界ばかりにとらわれて、
現実世界にいる自分をまったく見ようとしていませんでした。

花を育てることは結果的には大正解
だったように思います。
花の生長を見守ることは
時の流れを見つめることになりました。
精神的肉体的な変動期を
じっと過ごす(耐える?)ことができずに、
焦ってばかりいる自分の姿が少しずつ見えてきました。
やがて花と花の生育を阻む病害虫との関わりにも
目が向くようになっていきました。
人がどんなに手をかけてみても、
すべての種が花を咲かせるわけではないし
実を結ぶわけでもありません。
病気にかかっても害虫がついても
花は自らそれを駆除することはできません。
動物ならば忌避することもできますが、
土に根を張る植物はそうはいきません。
それでも育っていくものは育っていきます。
簡単にいのちを捨てないしぶとさもありながら
同時に潔くもある。

うまく説明はできませんが、
花を育てていたはずの私が
実は花に育てられていたように思います。
ありのままの自分を認められずにいた自分を
励ましてくれていたようにも思えます。
花の生長時間を待ちながら
自分もその流れに同調していたのかもしれません。
自分の感覚を頼りに生きてみても良いのかなと、
はじめて思えた頃の話でした。

疲労した筋肉はどうやって回復させる?

2005-03-03 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
2日は腰の状態がかなり悪かった。
MRIを撮ったりした頃のような痺れが
手足全体に広がっていて、
最近では珍しいくらいのいや~な感じ。
先生に相談して
練習は様子を見ながら行うことにしたものの、
結局はいつも通り行ってしまった。
というか、やれてしまった。

練習後、腰のあたりがほんわか温かくなって
練習前に比べても悪くなった様子は見られなかった。
気持ちの方も練習前よりスッキリしたので、
結果的には導引成果があったと思われる。

要するに筋肉疲労からくる血行不良が原因
ということらしい。
仕事柄イスに座っている時間が長いので、
どうしても背中や腰は緊張し、
股関節周りや大腿部の裏側を
いつも圧迫していることになる。

実は自分の記憶をさかのぼってみると、
肩こりらしきものを自覚したのは
小学生の頃になるのだ。
それから現在にいたるまでには
遥かな時間が経過している。
筋肉にしてみれば、
これはちょっと深刻な状態なのかもしれない?

そもそも自分の筋肉の質は
それほど悪いものではないらしい
(だからこそ無理ができてしまったとも
いえるのかもしれない)。
疲労しきっている筋肉をどうすれば
回復できるのか。
筋肉を使わなければ硬くなってしまうので、
使いながら休養させることになるのかな。

自分の場合は、同じ姿勢をとり続けたことが原因で
疲労して硬化しているのだから、
固まって緊張している部分を
少しずつ動かしては休むことを繰り返していく
ことになるのだろうか。

動的ストレッチを始めてからも
腰などの状態がとくに悪くなった様子は
今のところは見られない。
かえって仕事量の増減による影響の方が
大きいようだ。
やはり姿勢の問題が大きいのだろう。
こまめに休憩をとるなどの対策はしているのだが、
既に疲労が累積している分だけ
顕著に表れているらしい。
意識で緊張感を常にコントロールするのだけれど、
まだそれ程効果を感じられないのは
未熟なせいだろう。

休みの達人への道のりも険しそうだが、
それだけ発見もありそうで楽しみ。
しかもこちらには締切がないのが
何ともうれしかったりして?

優しい時間

2005-03-01 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
現在CX系列で放映中のTVドラマ「優しい時間」を
毎週欠かさず見ています。

子供の頃から時間というものに興味がありました。
同じ時を刻んでいるはずの時の流れが、
人によって、あるいは状況によって、
感じ方がいろいろに変化するのを
おもしろく思っていました。

時の流れに優しさというニュアンスが加わったのは
オトナになってからだと思います。
簡単に言ってしまえば、
心底傷つくということを知ってからでしょうか。
外傷とは違ってこころの傷というのは
癒えるまでじっと待つとか、
自分で自分の傷をなめて治すような、
ちょっと原始的で自然にまかすような感じがします。

いわゆるケガの傷にしてもこころの傷にしても
癒えるまでに要する時間というのが、
私は嫌いではありません。
傷口の手当てをする度に
優しい気持ちになっている自分が
好きなのかもしれません。
あの独特の気持ちは何なんでしょうか。
無抵抗なまでに弱い自分をさらけ出していることの
清々しさなのでしょうか。
ま、こころの傷の方になると、
そこまで無抵抗にはなれないことの方が多いですけれど。

そしてもうひとつの重要な点は独りであること。
傷の手当ては独りでするものですね。
誰かがそばにいては
自分に優しくなれないような気がします。
少なくとも私は自分に優しくするところを
他人には見せられない、見せてはいけないような気がします。
独りで密かに行うものだと思っています。

 
そもそも時間に優しいとか優しくないとか
そういう基準(といっていいものなのかしらん)が
あるのかどうか。
時間は人間の思惑とは無関係に流れています。
生き物はいのちを得た瞬間から
死に向かっていくものです。
寿命という限られた時間はとどまることも、
引き返すことも許してくれません。
ただひたすらに流れていくだけです。
時間が優しいのではなくて、
人が穏やかで優しい状態にあるときに
時間を優しく感じられるということなのでしょう。
そして自分を思い、誰かのために
思いをかけるひとときが、
さらに豊かにしてくれるのかなと思います。

こころが痩せてしまわぬように、
一日にほんの少しでも
こういう時間を持ちたいなとぼんやり考えています。