松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

骨で立つ

2006-06-23 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
最近のテーマは「骨で立つ」。
骨格を意識して日常行動を行ってみると、
いかに筋力を使っている(筋力に安易に頼り過ぎている)か、
わかってくるようだ。
立つだけでも下肢にはけっこう無駄な力が働いている。

ことの発端は坐骨神経痛対策。
いみじくも誰かが「椅子に座るのがこわい」と言ってたが、
わかるなあ。
痛みというのは記憶の一種でもあるので、
患部が実際に痛んでいることもあるが、
脳に記憶されている痛みの感覚が似たような刺激によって
間違って反応していることもあるにはあるらしい。
なるほどなあ、
考えられないことではない気がする。
椅子を見ただけで痛みを感じるなんていうのは、
脳の記憶の反応そのものかもしれない。

さっそく検証してみることに。
坐骨神経と神経を取り巻く筋肉を意識で消去、
骨だけになってみるのはどうだろう。
とりあえず痛みを感じたら
骨だけのイメージを描いてみる。
思い込むのではなく思ってみるという感じで
ソフトに事を進める。
いかなる時にも「急いてはいけない」というのは、
太極導引から教わった金言(のようなもの?)のひとつ。

すると、徐々に痛みが遠のいていく。
慎重に身体をひねってみたり
痛みを感じた付近に力をいれてみる。
すると痛みの道筋みたいなものがあることに気づく。
また骨だけを…と、くり返す。
じーんとした響きが広がっていく。
たぶん坐骨神経が走っている経路?と
重なっているのかもしれない。
少し苦しくもあるけど、
ちょっとおもしろかったりもする。
ただし湿度が高かったり
陽気の影響はかなり敏感に反応するみたい。
感覚的には数センチレベルで
足の長さが伸縮しているような気分がある。
萎縮しているときは潔くお手上げとするしかないみたい。
芯から硬くなっていて膝も何も伸びない感じで、
ti tuiなどしようものなら
筋肉がぶち切れてしまうのでは!?と思うことも。
ただひたすらに“骨、骨、骨…”と念じていたりして(^^;

最近は脹脛の張り(緊張)を自覚できるようになったし、
またその緊張の度合いもかなりのものと認識。
骨に乗り切れず、どこかに歪みがあるのかもしれない。
もちろん神経痛の痛みに耐えることでも
緊張状態になるだろうし。

歩行時はだいぶ緩められるようになったのだけれど、
導引時はまだまだだと思う。
上体がゆるむためにも、姿勢を維持するためにも
下肢の状態は重要なので、
ここしばらくは観察を続けてみようと思う。

基礎を見直す

2006-06-16 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
基本をなおざりにしているつもりは
ないのだけれど、
練習中に意識が飛んでしまうときがある。
べつに気を失うわけではなく、
意識が抜け落ちてしまっているとでも
言えばいいのだろうか。

要するに身が入っていないようなもので、
全身に巡らせているはずの意識に
綻びができているような状態。
問題なのはそれを自分で気づかないでいること。
指摘されてもなかなか修正できないでいること。
自分でも何やってるんだろうと、
ちょっとショックだったりもする。
あらぬことを口走ってみたりと
あきらかに動揺している。

何となくおかしいと感じたときは
まず基本を見直してみるのが手っ取り早い。
できるだけ念入りに
チェックしてみることかもしれない。
まさかと思うところに
原因が潜んでいるかもしれないから。

基礎の上に積み重ねてきていることは
十分承知しているつもりでも、
いつのまにか基礎がぐらついてきている。
それは基礎に対する
根本的な理解の仕方が足りないのかもしれないし、
土台となる地盤(身体)の変化にも
原因があるのかもしれない。

体力や気力のような身体的な変化によって
基礎技術の使い方も
微妙に変化してくるのかも。
基礎も技術であるから
その習熟度によって使い方にも変化が出てくるのは
当然のことだろう。
だからこそ日々の練習で使い込むことで
変化にも柔軟に対応できるようになっていくのだ。

習得し、さらに磨きをかける。
自分が目指す向上とはどういうことなのか。
いつのまにか絵に描いた餅に
すり替わっていたのかもしれないなぁ。


ただいま混乱中

2006-06-09 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
今週は細かな点について指導してもらえる機会があり、
いささか混乱を起こしている模様。いわゆる消化不良ぎみ?

放松については
絶望的とも思えるような体験もしたし。
でも人体は同じ仕組みのはずだから
少しでも近づく可能性はまだあるだろうと慰めてみたり。

存在感らしき感触もしないというか
異質な感じがしないというか、吸着してしまうような、
なんとも表現しづらい感触。

身体を運ぶイメージも
またまた修正することになってきている。
開合のイメージが
骨盤と上体とが一体となっているときは
よいのだけど、
体重移動とひねりの協調がうまくいかないと
途端にバラバラになってしまう。

不調和の原因がその都度違うものだから
ついつい全体を俯瞰するような意識が希薄になってきて
だんだん訳が分からなくなってしまう。

しかし混乱している自分も自分ではあることに違いなく、
これはこれとしてまるごと受け止めるようにする。
つまり、ここでどんなにダメ出しをしてみたところで
前には進めないのだとハッキリと覚ることだろう。

優先順位をつけるとすれば、
まずはどうすれば調和状態が見えてくるのかを
ひたすら探っていくことなんだろうなあ。

自然であること-1-

2006-06-04 | 心韻-こころの逸話(エピソード)-
自然な状態には隙がないと思います。
隙がないとは破綻がないことでもあるかと。

不自然さがなければ自然なのかしらん。
自然に溶け込むということは
自らの存在を消し去ることとも違うようです。
自然界の調和を乱すような類いの存在感は消し去って、
ただそこに在るとでもいうような状態でしょうか。

翻ってみれば自分はいかに不自然であることか。
自意識も十分すぎるほどに持ち、
他者から認めてもらいたがっているところもあります。
ただ在ることでは不安すぎて
耐えられそうにない心理が働いています。
たぶん肉体的精神的(心理的)にも
さまざまな破綻を抱えているのだと思います。

こうした状態がストレスを
より強く感じてしまうのでしょうし、
ストレスから身を守ることを迫られることで
更にストレスとなる悪循環を起こしてしまいそうです。

たしかに自分をとりまく外的環境との調和をはかることも
ストレスから自分を守ることになるのでしょうが、
同時に自分自身の内的調和を維持管理しようとすることにも
もう少しだけ目を向けてもいいような気がします。

冷静な視線で事象を見つめることは、
感情を調節する上でも欠かせないものかと
思うようになってきました。
どんな時でもなるべく冷静に客観的に
事象をとらえようとする習慣を身につけることで
たとえば冷静さと冷淡との違い、
共感と情に流されたり溺れることとの違い
といったことなどについても、
少しずつ理解できるのかしらと期待してみたり。

情に縛られやすいと言われる日本人が
そのコントロールの仕方を覚えたら、
ストレスなどとも
もう少しうまくつき合えるようになれそうな
気がするからです。

ストレスを感じることは自然なことです。
自然はストレスをも含めた
包括的、総体的なバランスというものを
教えてくれるのだと思います。
事象と感情とを切り離してみることで
わかってくるものもあるような気がしています。

ただ在ることだけに徹してみようとすることにも
意味がないとは言えないのかもしれません。


久々の理論講座

2006-06-03 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
きょうは久しぶりに
理論講義を中心にした教室となった。
昨秋のキャンペーン企画以来の理論講座。
内容的にはいままで折に触れて聞いてきた内容を
改めて整理するとともに、
さらに新しく意識すべきことが加わった。

どうやら練習で身につけたらしいものが
そこそこ理解を助けてくれるものらしい。
何度もきいてきたはずの内容にさえ、
まだ理解すべき点があることを教えてくれる。
おそらく最初は頭だけで理解しているのだが、
実践を通して自分の中に育ってきた
感触や感覚といったものを通して理解し始めると、
いろいろなものが繋がって
理解されやすくなってくるような気がしている。

理論講座の内容が知識としてインプットされている時は、
それぞれが点のように独立している感じ。
ところが体験を重ねることで
それぞれ独立していたものの間に
関連性が出てくるような感じがするのだ。
ただ、この関連性が
体験の蓄積によって新しくつくられたものなのか、
それとも本来は繋がっているのにもかかわらず
単にいままで気づけなかっただけなのか、
このあたりはよくわからないけれど。

今回のように
陰陽の性質についての講義をきいていても、
その性質の説明をききながら
頭では説明を追いつつ
同時に身体ではある動きの形を意識することで
身体に呼び起こした感覚と結びつけたりしてみたり
(イメージによる追体験というのかな)。
理解の仕方が複雑になっているとも言えるのかもしれないが、
自分にはこちらの方がわかりやすいような気がした。

こうして説明の段階から
実際の動きを想定して理解していたせいか、
講義の後に実際に孫式の伝統套路を動いてみたときも、
思いのほか自然に
動きと講義内容とが結びつけられていたような気がする。
その意味ではいままでに感じたことがないくらい
上出来の部類の練習になったかもしれない。

問題はこれ一回きりではなく
毎回の練習にも反映するようにつとめること。
これらの内容は意識すべき要求であり、
身につける必要があるのだから。
しかも習得に期限があるわけでもないのだから、
いたずらに焦る必要も無い。
先生も身につけることは誰にでもできるとおっしゃっている。
これ以上に励みとなることばもないのでは?