緊張とのつきあいは、もの心ついた頃から
すでに始まっていたように思いますが、
自分の緊張体質を明確に意識し始めたのは
過呼吸の発作をおこした頃からでした。
太極拳導引を始めた当初
師から毎回のように指導されてきたのが
リラックス、力を抜くことでした。
まったくできませんでした。
そもそも力の抜けた状態がどのようなものなのか
想像もつかないし、わかりませんでした。
緊張で凝り固まってしまってたから
感覚もマヒしていたのかもしれません。
そんな解決の糸口さえも見つけられない状態が
何年も続きました。
そしてあるとき、いつもと何だか違う感じがする
今までに味わったことのない感覚に
ふと気づいたのです。
自分の緊張をはじめて自覚できた瞬間です。
師から受けた指導を改めて振り返ってみると、
形、姿勢をととのえることで
うまく機能できずにいた緊張への意識を
目覚めさせようとしていたのかなと想像しています。
(師に確認したわけではないので
これはあくまで私の個人的見解です)
まずは見た目の緊張感が緩和されるような
姿勢や形態に改める(変える)。
外見の変化は鏡などを利用することで
自分でもチェックしやすくなります。
指導前と指導後の型の違いや
見た目の雰囲気の変化などから
体感ではわからなくても
とりあえず何かが違って見えることを
確認できるようになってきます。
このような練習を重ねているうちに
本人が内なる変化に気づくまでの変化を
師はみているのかもしれません。
こうして自身の緊張ぐあいを
自覚できる段階には到達しましたが、
今度は緊張状態を自覚できてはいても
その対処法がつかめてない段階に突入です。
緊張はどうも頭(脳)が
つくってるのではないのかなと
最近の私は想定していたりします。
すべての緊張が悪い訳じゃない。
たとえば集中力も緊張状態のひとつですが
一般的には好感をもって
受容されているような気がします。
他者に緊張感を与えるかどうかで
緊張の好感度は変わってくるのでしょうか。
ならば緊張を目の敵にせず
利用すればいいのです。
こうした発想、視点の転換は
身体的な練功だけでなく
頭の練功も必要だろうなと考えています。
導引的なみかたをすれば
ほどよい緊張にととのえるとでも
いえばよいのでしょうか。
そのような意識の働かせ方を
探求することになるのかななどと
思ったりもしてますが
さて、どうなることやら…
すでに始まっていたように思いますが、
自分の緊張体質を明確に意識し始めたのは
過呼吸の発作をおこした頃からでした。
太極拳導引を始めた当初
師から毎回のように指導されてきたのが
リラックス、力を抜くことでした。
まったくできませんでした。
そもそも力の抜けた状態がどのようなものなのか
想像もつかないし、わかりませんでした。
緊張で凝り固まってしまってたから
感覚もマヒしていたのかもしれません。
そんな解決の糸口さえも見つけられない状態が
何年も続きました。
そしてあるとき、いつもと何だか違う感じがする
今までに味わったことのない感覚に
ふと気づいたのです。
自分の緊張をはじめて自覚できた瞬間です。
師から受けた指導を改めて振り返ってみると、
形、姿勢をととのえることで
うまく機能できずにいた緊張への意識を
目覚めさせようとしていたのかなと想像しています。
(師に確認したわけではないので
これはあくまで私の個人的見解です)
まずは見た目の緊張感が緩和されるような
姿勢や形態に改める(変える)。
外見の変化は鏡などを利用することで
自分でもチェックしやすくなります。
指導前と指導後の型の違いや
見た目の雰囲気の変化などから
体感ではわからなくても
とりあえず何かが違って見えることを
確認できるようになってきます。
このような練習を重ねているうちに
本人が内なる変化に気づくまでの変化を
師はみているのかもしれません。
こうして自身の緊張ぐあいを
自覚できる段階には到達しましたが、
今度は緊張状態を自覚できてはいても
その対処法がつかめてない段階に突入です。
緊張はどうも頭(脳)が
つくってるのではないのかなと
最近の私は想定していたりします。
すべての緊張が悪い訳じゃない。
たとえば集中力も緊張状態のひとつですが
一般的には好感をもって
受容されているような気がします。
他者に緊張感を与えるかどうかで
緊張の好感度は変わってくるのでしょうか。
ならば緊張を目の敵にせず
利用すればいいのです。
こうした発想、視点の転換は
身体的な練功だけでなく
頭の練功も必要だろうなと考えています。
導引的なみかたをすれば
ほどよい緊張にととのえるとでも
いえばよいのでしょうか。
そのような意識の働かせ方を
探求することになるのかななどと
思ったりもしてますが
さて、どうなることやら…