専科クラスで始まった動的ストレッチも
早いもので1カ月を過ぎた。
これが始まってから
またいくつか発見することがあった。
同時にこれまでの導引練習では
あまり気づくことのなかったことを
見直すきっかけにもなった。
いちばん大きな発見は
体の使い方をまだまだ知らないということ。
静的ストレッチでは柔軟性を発揮しても、
実際の運動においては
それを十分に生かし切れずにいる。
動きに対する理解不足と
その動きに適した
体の使い方を知らないことも原因か。
力の配分は固定ではないし、
筋力のばらつきがあっても
姿勢や動きのコントロールにも影響するのかも。
運動とは総合的なものなのだと改めて思う。
どのような状況にあっても
協調を目指すべきだが、
やはり動作速度による影響は大きいと思う。
まだ体の使い方に未熟な点があればあるほど
素速く動くことは難しくなる。
極端な話、動的ストレッチを練習していると、
セル画一枚ごとに動きを分解して、
その1シーンごとに
バランスを徹底していくくらいのつもりでないと
動けない気がする。
つまり1コマ飛ばしても
全体の動きが不自然な動きとなって
バランスを失うような感じだ。
例えば「仆歩下勢」の場合、
片足に体重をかけ移してからでなければ
片足で体を支えながら
姿勢を真っ直ぐにして立つことはできない。
片足を伸ばし出したときに
体重をもう片方の足側に残しておかないと
次の移動ができないというように、
動きを構成するひとつひとつの姿勢、型には
要求がある。
こうした要求度は
運動速度が速くなればなるほど
素速く確実に反応できるようにならないと
協調に結びつかないわけだ。
明確な体重の移動があってこそ、
素速く流れる動きが生まれる。
動的ストレッチは
その点で導引練習よりも要求がやや厳しい
とも言えるのかもしれない。
しかし、だからといって
導引練習の要求度が低いというわけではない。
太極導引はゆっくり動くので、
こうした要求の厳しさが
表面的には現れてこないだけで、
要求の厳しさに変わりはないと思う。
このように運動速度や運動内容の質に
違いがあるだけなのに、
自分の体に対する印象も違ってくるのがおもしろい。
個性というのは単一の中ではわかりにくい。
さまざまな場面に巡り会ってこそ
わかってくるものだ。
機会があればいろいろな運動をしてみると
自分のことがもっと見えてくるかも。
早いもので1カ月を過ぎた。
これが始まってから
またいくつか発見することがあった。
同時にこれまでの導引練習では
あまり気づくことのなかったことを
見直すきっかけにもなった。
いちばん大きな発見は
体の使い方をまだまだ知らないということ。
静的ストレッチでは柔軟性を発揮しても、
実際の運動においては
それを十分に生かし切れずにいる。
動きに対する理解不足と
その動きに適した
体の使い方を知らないことも原因か。
力の配分は固定ではないし、
筋力のばらつきがあっても
姿勢や動きのコントロールにも影響するのかも。
運動とは総合的なものなのだと改めて思う。
どのような状況にあっても
協調を目指すべきだが、
やはり動作速度による影響は大きいと思う。
まだ体の使い方に未熟な点があればあるほど
素速く動くことは難しくなる。
極端な話、動的ストレッチを練習していると、
セル画一枚ごとに動きを分解して、
その1シーンごとに
バランスを徹底していくくらいのつもりでないと
動けない気がする。
つまり1コマ飛ばしても
全体の動きが不自然な動きとなって
バランスを失うような感じだ。
例えば「仆歩下勢」の場合、
片足に体重をかけ移してからでなければ
片足で体を支えながら
姿勢を真っ直ぐにして立つことはできない。
片足を伸ばし出したときに
体重をもう片方の足側に残しておかないと
次の移動ができないというように、
動きを構成するひとつひとつの姿勢、型には
要求がある。
こうした要求度は
運動速度が速くなればなるほど
素速く確実に反応できるようにならないと
協調に結びつかないわけだ。
明確な体重の移動があってこそ、
素速く流れる動きが生まれる。
動的ストレッチは
その点で導引練習よりも要求がやや厳しい
とも言えるのかもしれない。
しかし、だからといって
導引練習の要求度が低いというわけではない。
太極導引はゆっくり動くので、
こうした要求の厳しさが
表面的には現れてこないだけで、
要求の厳しさに変わりはないと思う。
このように運動速度や運動内容の質に
違いがあるだけなのに、
自分の体に対する印象も違ってくるのがおもしろい。
個性というのは単一の中ではわかりにくい。
さまざまな場面に巡り会ってこそ
わかってくるものだ。
機会があればいろいろな運動をしてみると
自分のことがもっと見えてくるかも。