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松静自然 -太極拳導引が教えてくれるもの-

松静自然とは落ち着いた精神情緒とリラックスした身体の状態をいい、太極拳導引の基本要求でもあります。これがまた奥深く…

肩が酸っぱい

2004-11-29 | 日常雑記-暮らしの逸話(エピソード)-
最近覚えたばかりの中国的感覚があります。
それは「酸っぱい」。
この場合は味覚の一種としての表現ではなくて、
肉体的精神的なある状態のことを
表現するものらしいのです。
例えば、「肩が酸っぱい」というような
使い方をするのです。
日本語でいえば、しんどい、だるい、つらいなど
といったカテゴリーに含まれるようなのですが、
日本語のニュアンスでは
とらえきれない多様な意味合いを持っているようです。
ちょっとおもしろいと思いませんか?

「酸っぱい」という表現を教えてもらったものの、
それがどんな感覚なのか気になって仕方ありません。
辞書を調べてみると、次のような解説がありました。

 《酸は酒がくさって味が舌を刺激することで、
  「す」をいう。またつくりの部分(シュン)には、
  きびしい、あるいは足を引きずるという意味がある。
  そのため酸は、味がきびしい酒とも、
  酢でぐにゃぐにゃになっている状態ともなる。
             /新選漢和辞典(小学館)》

そういえば、酢は体を柔軟にする、
あるいは摂りすぎると筋肉が萎えてしまう
と聞いたこともあるような…。

この「酸っぱい」というのは、
おそらく酸っぱいものを口に含んだときに
首筋あたりがヒクッとつれるようになる、
あの感覚に似た状態のことかなと、私は想像しています。
味覚表現を使って味以外のニュアンスを伝え合う
中国人にとって
味覚とは複雑かつ繊細なものなのかもしれません。
そういえば五行学説でも
五つの味覚を木火土金水の五要素に振り分けていましたっけ。

中国の人達と「酸っぱい」ニュアンスを
共感することができたら、
もっと仲良くなれるかもしれませんね。

イメージの可能性

2004-11-23 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
これまでにも幾つかの
基本要求というものを教わってきた。
要するにどんな状況下にあっても
基本姿勢の状態を保持することなのだが、
他にも原則として、
足は斜め方向に運ぶ、
両手は体の前で動く、
常に円を描くように動くなど、
さまざまな動きに関する要求がある。

孫式を始めてから
自然に円を意識するようになってきたみたい。
これは孫式の動作自体が転身を含めて
円や旋を意識した動きが多いからだろう。

円みを表現するには角をなくすことだ。
ことに小さな動きの中で
円みを現すには、
できるだけ直線移動を減らして
滑らかに動くこと。
緊張は御法度だろう。

円を意識する(イメージを描く)ことに関していえば、
ほとんど直線にしか見えない動きほど
難しいと思う。
それは軌道となる円の全体像が
つかみにくくなるからだ。
要するに地球は球状なのに
自分が立っている地面が平らに思えてしまうのと同じ。
大きな動作は
姿勢の完成までに調整する時間も稼げるが、
動きの小さいものは
あっという間に姿勢が完結してしまうので、
大きな円の一部という意識が
動作を大きく見せる効果もあるのではないか
と思うのだがどうだろう?
開合手などはその実験には
もってこいじゃないかと密かに思っているのだけれど。

イメージには何の制約もないはずなのに、
実際には限界があるみたい。
柔軟に自在にイメージできるようになることは、
動きはもちろんのこと、
精神的運動(といっていいのかわからないけれど)に
なりそうな気がする。
それに常識を超える、突き抜けた感じには
一種の開放感があるとも思うし。
こんなことを感じるあたり、
何かに抑圧されている感覚があるのかもしれない?

流れのイメージ

2004-11-22 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
つい最近、孫式を練習中に
足先の向きについて認識を新たにした。

一般的な動作姿勢では
足先の向いている方向が正面となる。
よく考えてみれば
当たり前のことなのだろうが、
動作練習の時は
先生から指導されるままに
足先の向きを意識するだけで、
自分から意識的には注意を払って来なかった。

今回はたまたま単鞭から肘底錘への一連の動きに
少し窮屈な感じがあったので、
先生に質問してみたのだった。

足先の向きについての認識は
とても勉強になったが、
同時に大切な基本を忘れていたことにも
気がついた。
それは基本動作要領のひとつ、
足は斜め方向に運ぶということ。

単鞭の場合を例にとれば、
左足を斜め後方に出すことになる。
そして左足爪先を斜めに置くことによって
体の向きが微妙に変わってくる。
上体とともに手をそのまま開いていけば
体の向きに対して横に動いていることになる。

単鞭の前動作「開合手」の体の向きと
「肘底錘」での体の向きは90度ほど転身しているので、
単鞭は転身の途中の姿勢でもあるわけだ。

ここまで考えて、ようやく
自分の動きに足りなかったものを理解したわけ。
個別の動作の流れだけを追っていくと、
ひとつの大きな流れを見失う可能性もあるんだなあ。
ようやく今、そのことを理解したような気がする。

頭は重いのだ

2004-11-19 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
運動に限らず「肩の力を抜くように」とは
よくいわれることだ。
そのくらい体には
もともと力が入りやすいものなのだろう。
だいたいが重くて大きな頭部を
細い首で支えていること自体、
無理があるような気がする。
体全体を使って支えなかったら
立ってはいられない。

最近は頭と背骨の関係を
ちょうど皿回しの皿と棒のようなイメージで
とらえることが多くなった。
言い換えれば重い頭部と頸椎部分、
そして背骨を意識しているということ。
PCや読書などでいつも同じ向き、
角度で固定した使い方をしているので、
気がつくと立ち姿勢の時にも
顔がやや下向き加減になっている。
顎をほんの少し上げてみただけで
肩から肩胛骨や背中まで影響が出る。

また両腕の付け根、
つまり肩口も内側に巻き込んだ状態になっている。
この猫背ぎみ状態のまま
基本姿勢を取ると両肩に緊張感が出やすくなるので、
自分の体の特徴に合わせて
オプショナル修正をいくつか設けるようにしている。

姿勢にもいわゆる
理想的と思われる型があるのだと思うけれど、
それは鋳型のように
ピッタリとした規格としてではなく、
標準として存在するのではないかと思う。
乱暴な言い方をすれば、
正しいとされる姿勢の
基準以内であればよしとするような
適度な許容をもつもの。
そこには個体差を認める視点があるのだと思う。
体力や体格によって可動範囲も変動する。

仮に体力の無い人が練習を積むことで
体力がついてくれば
自然に姿勢や動きに変化がでてくるし、
年を重ねることで、
あるいは故障することでも変動するものだ。
このように姿勢には
いくらでも変動する可能性があるものだと考えれば、
姿勢を型としてとらえるよりも、
意識の表現に近いのではないかという気がしてくる。

理想的な姿勢をどこに求めるのかはその人しだい。
現状に適したよりよい姿勢をとろうとする意識を習慣化して、
正しい姿勢状態を、自己確認する方法を身につけて
自己調整できるようになれることを、
自分は目標にしようと思う。

集中するとは?

2004-11-14 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
どうも集中にもいろんなパターンが
あるような気がしている。

自分の集中状態を客観的にイメージしてみると、
姿勢的にも意識的にも縮小するような、
内に向かって凝縮するような感じがする。

だが、太極導引では
もうちょっと違う集中を要求されているような
気がするのだ。
確かに内面に向かって意識することも
あるのだけれど、
身体的にも意識的にも
流れのような動的な要素があって、
外向性というか外に開くようなイメージも
あるような気がしている。

このあたりの感覚がうまく整理できていなくて
モヤッとした感じ。
どうもうまく連係していないんじゃないか
というのが最近の傾向。

太極導引の練習では
協調させることを目指しているので、
同時に多角的に意識を巡らせながら
集中している状態になる。
動作練習時、
今の自分は内面的には
忙しい状態にあるのを押さえながら
ゆっくり動こうと努めている状態。
決してラクではないけれど、苦しくもない。
この状態が果たして
理屈にあった無理になるのか、
それとも意味のない無理なのか。

集中とはもともと一点に集まることだけれど、
どこに何を集めるのかが問題なのかな。
知識としての答えよりも、「このことだったのか」と、
しみじみ自分のすべてで味わってみたい気がする。

よく見て仕組みを理解する

2004-11-09 | からだの風景-みる・さわる・かんじる-
NHK教育のシリーズ「人間講座」は
興味深いものが多いです。
現在放送中の中では
安野光雅さんの「絵とイマジネーション」を
みています。

先日の放送では、
ものをよく見て、その仕組みを理解して
描くことが経験として蓄積され、
やがてイマジネーションの元になることを
話していました。

ものをよく見ることは、絵だけに限らず、
いろんなことの基本だと思います。
私も幼少の頃からものを見ることや観察には
集中力を発揮していた方です。
というか好奇心がそうさせていたのだと思います。
実際に興味ない対象には“まったく”だったので。
この傾向は今もさほど変わっていません。

現在いちばんの興味対象といえば、
やはり動作、動きの本となる心身のことです。
動きを表現する体の仕組みについては
以前から興味がありました。

原宿の雑貨屋で偶然見つけた
オモチャの人骨(ガイコツ)模型を買ってきて、
いじり倒してきました。
基本姿勢を模型のガイコツくんにとらせることで、
自分の背骨の状態をイメージしたり、
股関節の動きを研究していて
脱臼させてしまったこともありますけども。

あくまで自分の興味本位だけの
遊びの延長みたいなことだけれど、
それでも自分にとっては面白いのです。
書店に行けば、
医学書、武術書、東洋思想などを一巡するのも
楽しみのひとつです。

絵と運動の違いはありますが、
ものをよく見て仕組みを理解しようと思うことに
変わりはないのでは?
その人なりのおもしろさを追求しているだけでも
どんどん世界が広がっていくと思いますし、
それはまたクリエイティブなことでもあるような気が…。

まだまだ先がある

2004-11-07 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
専科クラスでは今月から
5分から7分間に延長して
站トウ功を行っている。
2分間長くなっただけなのに
体の中ではけっこうな変化があるみたい。
ある程度の負荷がかかってくると、
さらなる緊張を意識すると同時に
自分の体のクセが、よりハッキリしてくるようだ。

同じように弛めていても
左右で緊張の度合いが違うのがわかる。
また、体の中心から遠い指先や掌、手首などは
弛めやすいけれど、
肘関節や肩、首の付け根や首筋は
なかなか弛みにくい。
首などは徐々に弛めていても
ある程度を超えると、
急に頭がグラッと揺れそうになる。
これは弛めすぎだなと慌てて仕切り直す。
そうこうしているうちに
7分間はあっという間に過ぎてしまう。

一度、上体の力を本気で抜いたら
どうなるのか試してみたことがある。
自分の限界がわからないので、
とりあえず上体の姿勢が崩れてしまうところまで
抜いてみる。そこから少しずつ
姿勢を修正していってみようと思ったのだ。
実際にやってみると、
猫背で顎が前に出てしまう情けない姿勢に
思わず笑ってしまう。
ところがここで意外なことが…。
姿勢が崩れる程に力を抜いたはずなのに、
まだ力が入っているみたいなのだ。
これって、マジ?

あえなく試みは頓挫した。
弛んでいると思っていたのは、
実はまだ表面に近い部分の緊張感に対しての
感覚だけだったみたい。
筋肉の内部や骨に近い深い部分までは
弛んでいないらしい。

体質というか個人差があるので
一概にはいえないのだけれど、
ここまで緊張していると
逆にたいしたもんだと我ながら感心する。
この緊張が解けていったら
一体どんな世界が待っているのかしらん。

疲労するほどに動き回る「ひねくれ者」

2004-11-05 | 行雲流水-日日是太極拳導引-
このところちょっと時間が取れなくて
練習不足ぎみ。
別メニューの腹筋運動も
お茶を濁す程度にしかできずにいたら、
案の定腰や首の状態があまりよろしくない。
体はこんなにも正直。
あともう少しで今の状態も落ち着いてくると思うので、
もう一度時間調整をしてみようと思う。

さて、自分の体質は陰虚の傾向があって、
陰が弱いらしい。
だから休養と睡眠は欠かせないのだが、
困ったことに、疲れてくるほど
休めなくなってしまうのだ。
日頃から陰が弱いところに
疲労が重なることで
消耗するのだろうと思うのだが、
神経が冴えてくるというか、
相対的に陽が過剰ぎみになってしまうらしい。
本来、陽が強いタイプではないだけに、
一種のストレス状態なのではないのかな。

三調(調心、調息、調身)は養生の基本と
わかっていても、
なかなか生活の中に組み込むまでがたいへん。
意志の強さが求められる。
自分の生活意識を
転換しなければならないこともある。
自分が何を大切にしたいのか。
過剰なまでの緊張感は、
精気の浪費状態を
映し出しているような気もするのだけれど、
その状態を検査数値やCT、MRI画像などで
確認できないから
切実さが今ひとつなのかもしれない。

考えすぎるとまた消耗の原因になるので
程々にして、
気持ちが高ぶらないように、
刺激しないようにと気をつける。
子供だましみたいなことしかできないのが、
ちょっと恥ずかしいのだけれど。