イメージが広がらない。
というか枠を取っぱらうことができない。
意識の流れが画一的になっているように感じる。
“どんなときでも”の状況パターンが乏しいような…。
固定観念とでもいうか、経験則、慣れだけというか。
何となくお約束で動いているような。
はたまた意識自体が鈍感になっているのか。
太極拳導引以外にも、これまでにいくつかの
ボディ・ワーク系ワークショップやセッションなどを通じて
本来的な自然な姿勢や動き方、からだの使い方などを
考える機会もあった。
太極拳導引と共通する理念、考え方に触れて、
理解を深めることにつながるような
ヒントをもらったこともある。
でもそれらが太極拳導引のそれとは
ピタッと重なるものではないこともわかっている。
たとえば、こんなことがあった。
あるワークショップにて
私の立ち姿勢をチェックしていたときに
周りで見ていた人達の感想のなかに
「東洋人から西洋人になっていったみたいに見えた」
というのがあった。
ああ、やっぱりそういうことってあるのだろうなと。
仮に姿勢を型(スタイル)としてとらえるならば、
姿勢ひとつにも概念的要素はあるだろうし解釈もできる。
ということは流行だってあることになる。
それはつまり文化の象でもあり得ることかと。
それぞれが求めるものが自然な姿であったとしても
各々の文化的価値観が反映されているのだから
似てるけど違うということになるのだろう。
太極拳導引に適した姿勢は
基本姿勢として実際に求められるものであるし、
太極拳導引を身体で理解するにつれて
動きも変わり姿勢も変化していくと考える方が
自然ななりゆきと思われる。
そしてその姿勢は別の価値観の視点からみれば
正しくないと評されるかもしれないし、
逆もまたしかり、ということなんだろうな。
冒頭でイメージが広がらないとボヤいてはみたけれど、
イメージが広がりさえすれば好いのかとも思い始めている。
枠をとっぱらうことの他にイメージの解像度を上げる
という視点もあるかなとも思ったり。
解像度が変わる(精度が変わる)ことで
新たに見えてくることもありそう。
イメージに深みが増すことも広がりに通じるのかな。
というか枠を取っぱらうことができない。
意識の流れが画一的になっているように感じる。
“どんなときでも”の状況パターンが乏しいような…。
固定観念とでもいうか、経験則、慣れだけというか。
何となくお約束で動いているような。
はたまた意識自体が鈍感になっているのか。
太極拳導引以外にも、これまでにいくつかの
ボディ・ワーク系ワークショップやセッションなどを通じて
本来的な自然な姿勢や動き方、からだの使い方などを
考える機会もあった。
太極拳導引と共通する理念、考え方に触れて、
理解を深めることにつながるような
ヒントをもらったこともある。
でもそれらが太極拳導引のそれとは
ピタッと重なるものではないこともわかっている。
たとえば、こんなことがあった。
あるワークショップにて
私の立ち姿勢をチェックしていたときに
周りで見ていた人達の感想のなかに
「東洋人から西洋人になっていったみたいに見えた」
というのがあった。
ああ、やっぱりそういうことってあるのだろうなと。
仮に姿勢を型(スタイル)としてとらえるならば、
姿勢ひとつにも概念的要素はあるだろうし解釈もできる。
ということは流行だってあることになる。
それはつまり文化の象でもあり得ることかと。
それぞれが求めるものが自然な姿であったとしても
各々の文化的価値観が反映されているのだから
似てるけど違うということになるのだろう。
太極拳導引に適した姿勢は
基本姿勢として実際に求められるものであるし、
太極拳導引を身体で理解するにつれて
動きも変わり姿勢も変化していくと考える方が
自然ななりゆきと思われる。
そしてその姿勢は別の価値観の視点からみれば
正しくないと評されるかもしれないし、
逆もまたしかり、ということなんだろうな。
冒頭でイメージが広がらないとボヤいてはみたけれど、
イメージが広がりさえすれば好いのかとも思い始めている。
枠をとっぱらうことの他にイメージの解像度を上げる
という視点もあるかなとも思ったり。
解像度が変わる(精度が変わる)ことで
新たに見えてくることもありそう。
イメージに深みが増すことも広がりに通じるのかな。