Yumi @ Sudan

北アフリカの国、スーダンでの生活日記

日常生活

2005-08-07 | everyday
何があったって、毎日を生きなくちゃなりません。

8月1日、ガラン逝去のニュースが発表された日、電気屋さんの周りには電気を買う人(スーダンの電気はプリペイドで、電気代がなくなると、電気が全くつかなくなります)がたくさんいました。あぶないのに、良く来るなあって思っていたけれど、8月1日以降約一週間、お店や公共機関など殆どがお休みになってしまいました。

街中には数件開いているお店がありますが、お肉などはほぼ売り切れ。それから、露天の八百屋さんもポツポツ開いてますが、市場が閉まっているので、野菜はどれも干からびかけています。

我が家の隣の家は、ケーブルテレビの契約期間がきれてしまい、テレビが見れなくなったとのこと。事務所も開いてないので、契約更新ができずに大切な情報源のTVを見ることができないようです。

近所の人たちの話によると、明日あたりから市場も再開するから大丈夫っていうけれど、ただでさえ物がないこの街で、こんなに物の入手が困難になると、ちょっと心細い。
でもね、干からびかけてたって、ジャガイモはジャガイモ。
にんじんもたまねぎもあるし、家には小麦粉もお米も缶詰もストックがあるからあと一週間は大丈夫。
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ジョンガランのお葬式

2005-08-07 | everyday
8月6日
今日はジョンガランのお葬式でした。南部のジュバという街で。
TVでは一日生中継。教会でのお葬式には50万人が来たといわれてました。
ハルツームから歩いている人たちはどうしてるのだろう?

人々は頭の上で手を組んで、賛美歌を歌いながら、何度も頭を下げ、ガランの死を悼んでました。
私の家の周りでもいつものように人々はテレビのある場所にあつまって、真剣に葬儀の模様を見守っていた。南部出身の人たちはTVの前で涙を流していました。

今日は昼間に数回サイレンの音が聞こえたけれど、私の見える範囲ではいたって静かで、穏やかに一日が過ぎていきました。


今日で広島に原爆が落ちてから、60年。
私はスーダンから黙祷をしました。戦争で犠牲になった人々へ。今も戦い続けている人々へ。


明後日から学校が始まります。
無事を確認できてない生徒が心配で心配で。早く顔をみて安心したいです。
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少しずつ

2005-08-06 | everyday
今日は休日です。イスラム教では金曜日はモスクへ行くためにお休み。ムスリムの人たちが多くモスクへ足を運ぶので、何かあるのではないかと懸念されていましたが、今日も大きな暴動はなく、静かに一日が過ぎていきました。

家の中にこもっている事にも疲れたので、恐る恐る近所を歩いてみました。
「もう問題ないから大丈夫よ」「もう暴動は起きないよ」とみんなが声をかけてくれた。なぜ起きないってわかるのかなあ?私が理解できないニュースかなにかで、誰かが何かを言ったのかしら?
とにかくみんなが口をそろえて、もう大丈夫!って言う。

これから少しずつ、元のハルツームに戻っていく。

それなのに、私の中に植えつけられた恐怖心が、私に差別をされるようになった。

家の横の広場の隅に、廃材で小さな家を建てて住んでいる、アフリカ系の人たち。
いつも挨拶する人たちなのに、なんとなく怖く感じてしまった。特に、今日はいつもいる女性たちではなく、男性たちが6名で話をしてた。私が通ると「こっちへおいで」って手招きする。とっさに私は「何?」って聞いた。
「何で怖がるの?」って聞かれて、「怖がってないよ、急いでるから」って言った。「それじゃ気をつけて」って言われてその場を去った。

私は怖がってるのか?アフリカ系の人たちだから怖がったのか?男性が6人も一緒にいたから怖いって思ったのか。

心にバリアはしたくない。
溝はつくりたくない。

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8月4日、今日は何事もなかったよ!! 

2005-08-05 | everyday
朝からソヨソヨ気持ちいい風がふいていた。
昨日までの緊迫した空気とは、ちょっと違う街の色。

今日は何も起きないかもしれないなと思いながら、一日がスタート。

朝9:30、いつものようにハミッドが来てくれる。ハミッドの後ろには近所に住む男の子が5人。そのうち2人は南部の子ども。「何日も顔をみせないから、心配して見に来たよ」って。なんの屈託もなく一緒にいる。
今日も出かけられないだろうなって思って、すっぴんでパジャマだったけれど、嬉しくて「あがってあがって!」って言ってお家に入れる。
大家のおばちゃんに見つからないように、静かに階段を駆け上る。
ジュースの買い置きがなかったので、牛乳にお砂糖を入れて出す。美味しいっていって一気飲み。もっと飲む?ってきいたら、「お水でいいよ」って遠慮する。
5人分コップを出してると、「コップはひとつでいいよ、みんなで飲むから」って言って、ひとつのコップで回し飲み。

午後になって、サイレンの音、ヘリコプターの飛ぶ音がしたけれど、今日は大きな暴動はなかったようです。。。
よかった。

学校の生徒の中でまだ無事の確認ができてない子どもが何人かいます。電話線が壊されてしまい、電話がつながらない地域があるとのこと。無事でいてくれると信じるしかない。

毎日ずっと私に何が出来るのか、どうしたらいいのか考えてます。
私になんて、この国の人々の悲しみや苦しさはわかりっこないけれど、
とにかく、この国と向き合い、人々と一緒に生きて、今を一緒に乗り越えていきたい。

写真は小さくて見えないかもしれませんが・・・・、隣に住んでる子どもが私の名前を呼ぶので、屋上から覗いたら、みんなで手をふってくれました。

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8月3日

2005-08-04 | everyday
昨晩、空には幾筋もの稲妻が光っていた。
子どもたちは、昼間は暴動におびえて、夜は雷に怯えてるんだって思ったら、心が痛くなった。

夜中に数時間雨が降り、朝起きたら空気が少し透明になっていた。燃えてしまったスーク(市場)や車のくすぶっている火がこれで全部消えて良かったなって思い、この雨で人々の気持ちが少しでも冷めたらいいのにって思った。

だけど、そんなに簡単なことじゃない。

朝からまたサイレンが鳴り始めた。

いつもは週に3度お掃除に来てくれている、ダルフール出身のハミッドが、外国人の私が怖い思いをするのはかわいそうだからと、ここ数日は毎日顔を出してくれる。「誰か来ても、出て行っちゃダメだよ」「夜5時を過ぎたら、外に出ないように」いつもはニコニコ笑ってるハミッドの表情が真剣。「政府の声明では、40数人しか死んでないって言っているけれど、私が見ただけでも、あちらこちらで40人以上は死んでたよ」


午後1時ごろ、SPLMの司令官が殺されたとの噂が町中に広がり、再び暴動が激化。午前中は開いていたお店も閉められ、車も避難していった。トラックの荷台に銃をもった南部の若者たちが乗って街中に向かっていく。結局、司令官が殺されたというのは、それはただの噂だった。

ハミッドの話によると、ハルツームに住むSPLMの人々のうち1000名以上が、ジョンガランの葬儀(土曜日にジュバという南部の町でとりおこなわれる)に参列したいと、ハルツームからジュバに向けて歩き始めたとの事。交通費なんてない。食べる事で精一杯なのだから。
ジュバまでは直線距離で1000kmと歩ける距離ではなく、道路もなく、途中は通行不可能な湿地帯、地雷が埋まってる可能性だってある。

絶望と悲しみに打ちひしがれた人々の足並みが、再び揃うのはいつになるのだろう。


私の家では、スーダンのローカルテレビがうつらないので、夕方のニュースを見るために大家のおばちゃんの家に行く。
「ほら、言ったでしょ、南部の人たちは悪い人!!南部の人は家に入れちゃだめよ」
いつもはそんなおばちゃんの話を笑って聞いている大学生の娘も、今日はその意見に同意していた。

何が悪くて、何が悪くないかなんてわからない。
今の私に分かることは、みんな同じ人間で、みんな誰かの子どもで、みんなそれぞれに守らなくちゃならない人や、プライドがある。
ただ、生まれた場所が違っただけ。
日本人の私だってそう。生まれた場所が日本だっただけ。ただそれだけ。



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8月2日

2005-08-03 | everyday
8月2日

今日から3日間、スーダン国民は喪に服しています。

昨日のジョンガラン夫人の声明後、もしかしたら少しは落ち着いたのかも知れないと思っていた、国民感情は全く落ち着いてなんかいません。
今日も朝からサイレンの音が聞こえました、
昼過ぎからはハルツーム各地のスーク(市場)が燃やされたり、郊外では、反SPLMの人たちが、南部の子どもが通う学校を襲撃。子どもたちを含む人々が死傷しました。

今日になって、ジョンガラン率いるスーダン人民解放運動(SPLM)の人たちばかりではなく、。反SPLMの人間が報復をはじめたのです。

何がなんだか分からなくなってきたハルツーム。
私の学校の周辺でも、人々は暴れているようです。

幸い私の住む地域は、子どもたちの声や、女性の姿が少なくなった以外は何もかわらず、普段と同じように、朝日が昇り、夕日が沈みます。
優しいスーダン人からは私の無事を気遣う電話がかかってきます。


大学時代、教授がいいました。
「人間に叡智があるならば、かならず平和は訪れる」と。

でも、今の私にはわかりません。ただただ悲しいだけです。
誰が敵で、誰が味方で、彼らに何をどのように、誰が説明するのでしょう。
たとえば、自分の子どもの栄養状態もままならないまま、南部に家族を残してハルツームに出稼ぎに来ていて、「後もう少し、。あともう少し!」って頑張っていた人たちの絶望感は私は計り知れない。
貧困のために子どもを失ったり、教育を受けさせることができなかったり。もちろん、日々の生活の中での差別は苦しくて辛いものだったと思います。

サンちゃんだって、ジョンガランを信じて、教会へ行き、英語を勉強して、働いて家族にお金を送金し、南部が独立したら政治家になるんだって頑張っていた。
サンちゃんは無事なのだろうか。


3月に日本から友人がスーダンに遊びにきてくれました。
二人で行ったオムドゥルマンという場所にあるマーケット。今日はそのマーケットも燃えています。
その時、南部の男の子たちが、彼女のもっていたタミアというヒヨコマメの揚げ物をくれって言うので、「ダメ!」って断ったら、力づくでそのビニール袋を持っていってしまいました。
地面に落ちたタミアを他の子どもたちが食べていました。
スーダンでそんな目に遭ったことはなかったので、二人で悲しい気分になったのを覚えています。よっぽどお腹がすいていたんだねって。だったら、はじめからあげたら良かったねって。

彼らも、もしかしたら今、怒りと悲しみのあまりデモに参加しているのかもしれません。

こんなに優しい国民が、なぜどうしてこんな事をしなくちゃならないのでしょう。
こんな目に遭わなくてはならないのでしょう。
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私の8月1日

2005-08-02 | everyday
スーダン人民解放運動(SPLM/A)のリーダーで、2週間前に副大統領に就任したばかりのジョン・ガランが、ヘリコプターの墜落事故でなくなりました。(7月31日未明)


翌8月1日
ちょっと心配だなあと思いつつも、私は、いつものように学校へ。

8:45 1時間目の授業をしていると強制下校の指示。政府がジョンガラン死亡の声明を発表したので、暴動が起きる可能性があるとの事。
校長先生が生徒全員の保護者に電話を入れているので、順次生徒を下校させると。いつものバン(スクールバスがわりで、数名がグループになって登下校している)に乗って下校する生徒、保護者が迎えに来る生徒。

信じられないことに先生も生徒を残して次々と帰っていってしまう。
「ユミ、気をつけて、あなたも早く帰ったほうがいいわよ」
何の説明も、注意もないままに生徒を送りだしてしまうので、学校が早く終わったことを喜び、はしゃぎながら生徒は校門を出て行きます。私はもう子どもに何かあったらどうしようかと、怖くて怖くて。

9:00 携帯電話が通じなくなる。

10:00 市内から郊外へ出る橋が2つ閉鎖されたとのニュースが入り、橋を渡れずに家に帰れない何人かの生徒が学校にもどってくる。

10:30 生徒が半分(80人)くらいに減った頃、校庭で遊んでいる生徒の数を数えていたら、外でマシンガンの音。鳴り止まない銃声に、悲鳴をあげ逃げる子ども。その場でうずくまってしまう子ども。
横にある幼稚園を見ると、20名ほどの園児がみんなで泣いている。私は他の先生と一緒になって夢中で子ども両腕にかかえて何往復もし、子どもを校内へ運ぶ。窓ガラスから離れた床に座るように指示。

そのときに残っていたのは、教員が4名。子どもは園児もあわせて100名程度。
いつもは20名以上は入れない教室に、子どもを50名ずつつめこむ。
まもなく電気も水も出なくなり。教室の温度はどんどん上昇。

学校のすぐ外の通りでは、トラックがひっくり返されたり、燃やされたり。周辺の建物の窓ガラスは割られている。
教室の中にいても、車の焼ける煙が入ってきて目が痛い。ガラスの割れる音、人々の叫ぶ声。

11:00 学校がある通りが閉鎖され、学校から出ることも、保護者が生徒を迎えに来ることも出来なくなる。

校舎の3階から外を見ると、街の中心地にあるスーク(市場)のあたりと、空港のあたりからモクモクと黒い煙が上がっている。
通りには、普通の市民が銃や棒を持って歩いている。
石やレンガを建物に向かって投げつけている。車の窓を割り、ひっくりかえす。

12:00 銃声がやんで、通りでは警察が警備にあたり始める。サイレンの音。上空をヘリコプターが飛ぶ。

少し落ち着くと、子どもたちはお腹がすいたとか、のどが渇いたとか、トイレに行きたいとか・・・・・・。
水も流れないトイレ。
私が持ってたビスケットを4つに割ってみんなでちょっとずつ食べて。
私のお水をみんなでちょっとずつ飲んで。
みんなで椅子とりゲームをする。子どもたちが笑いはじめる。


13:00 やっと先生や、迎えに来て学校から出られなくなってしまった保護者の人たちと話す時間ができた。
ムスリムの人、クリスチャンの人。
誰もがジョンガランの死を悼んでいる。スーダンにとって、世界にとっても、Great Loss だと口をそろえて言う。
スーダン全体をみて、南も北もなく、ムスリムもクリスチャンもなく、みんなの幸せを考えられるリーダーだったのに、やっと自由で平等な社会に向けて歩んでいけるんだって思っていたその時に、こんなことになり、またスーダンは後戻りしなくちゃならないのか。
それに何よりもおかしいのは、みんなが悲しいって思ってるのに、なぜ同じ国民がこんな恐い目に遭わなくちゃならないのか。なぜ子どもたちまで巻き込まれるのか。
ヘリコプター事故という報道以外は、何も明らかにされていない。事故のあった時、ウガンダは悪天候だったと。
だけど、そんな事、誰が納得できるだろう。。ジョンガランは22年にもおよぶ内戦を戦ってきて、ハルツームに入って22日で死亡。
あっけなさすぎる。


14:00 郊外に出る橋が通行可能になり、保護者や迎えの車が子どもを引き取りに来る。
14:30 ほぼ全ての子どもが学校を出て、迎えのない子どもたち(10人)は学校のドライバーが送り届けることにきまる。

夕方には街の中心で集会が行われるとの噂。
私も早めに帰ったほうがいいと言われ、車2台、計4人で迎えに来てもらい帰宅。
やはり学校だけが無事で周りの建物は相当な被害を受けていた。

18:00 外出禁止令 

19:00 ジョンガラン夫人からの声明。「ジョンガランは、だれかに殺されたのではなく、天に召されたのです。武力に訴えるのは、彼の望んでいたことではありません」
この声明の後、夜間には予想されていた様なひどい暴動はなかった模様。


家でシャワーを浴びたら、ホッとしたのか涙がポロポロでた。
恐くもなかったし、死ぬかもしれないとは思いもしなかった。
変に冷静で、ひとりずつしか運べない他の先生たちを見て、二人同時に抱えて走れる自分を、力持ちだなあなんて感心したりもしてた。
学校だから絶対に大丈夫って思ってた。

だけど、時間がたつにつれて、心がどんどん重たくなった。
あれだけの悲しみがこの国に宿って、それが爆発した、あの瞬間のあの空気を私は決して忘れない。


20年以上続いた内戦に終止符を打って、これからは本当の平和に向けて少しずつ歩き出せるのだと、人々に希望を与えてきたジョン・ガラン。
彼が示したベクトルが、今後もこの国の中で生き続けることを願ってやみません。


8月2日、今日から3日間、スーダン国民は喪に服します。学校も会社もお休み。
私もなるべく外出を控え、おとなしく暮します。
外ではまたサイレンの音が聞こえます。
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げんきです!!

2005-08-01 | everyday
日本でもスーダンのニュースがながれて、もしかしたら心配してくれてる方、私は無事で元気ですので、心配しないでください。これから数日は外出せずにおとなしくしてます。
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