Yumi @ Sudan

北アフリカの国、スーダンでの生活日記

私の8月1日

2005-08-02 | everyday
スーダン人民解放運動(SPLM/A)のリーダーで、2週間前に副大統領に就任したばかりのジョン・ガランが、ヘリコプターの墜落事故でなくなりました。(7月31日未明)


翌8月1日
ちょっと心配だなあと思いつつも、私は、いつものように学校へ。

8:45 1時間目の授業をしていると強制下校の指示。政府がジョンガラン死亡の声明を発表したので、暴動が起きる可能性があるとの事。
校長先生が生徒全員の保護者に電話を入れているので、順次生徒を下校させると。いつものバン(スクールバスがわりで、数名がグループになって登下校している)に乗って下校する生徒、保護者が迎えに来る生徒。

信じられないことに先生も生徒を残して次々と帰っていってしまう。
「ユミ、気をつけて、あなたも早く帰ったほうがいいわよ」
何の説明も、注意もないままに生徒を送りだしてしまうので、学校が早く終わったことを喜び、はしゃぎながら生徒は校門を出て行きます。私はもう子どもに何かあったらどうしようかと、怖くて怖くて。

9:00 携帯電話が通じなくなる。

10:00 市内から郊外へ出る橋が2つ閉鎖されたとのニュースが入り、橋を渡れずに家に帰れない何人かの生徒が学校にもどってくる。

10:30 生徒が半分(80人)くらいに減った頃、校庭で遊んでいる生徒の数を数えていたら、外でマシンガンの音。鳴り止まない銃声に、悲鳴をあげ逃げる子ども。その場でうずくまってしまう子ども。
横にある幼稚園を見ると、20名ほどの園児がみんなで泣いている。私は他の先生と一緒になって夢中で子ども両腕にかかえて何往復もし、子どもを校内へ運ぶ。窓ガラスから離れた床に座るように指示。

そのときに残っていたのは、教員が4名。子どもは園児もあわせて100名程度。
いつもは20名以上は入れない教室に、子どもを50名ずつつめこむ。
まもなく電気も水も出なくなり。教室の温度はどんどん上昇。

学校のすぐ外の通りでは、トラックがひっくり返されたり、燃やされたり。周辺の建物の窓ガラスは割られている。
教室の中にいても、車の焼ける煙が入ってきて目が痛い。ガラスの割れる音、人々の叫ぶ声。

11:00 学校がある通りが閉鎖され、学校から出ることも、保護者が生徒を迎えに来ることも出来なくなる。

校舎の3階から外を見ると、街の中心地にあるスーク(市場)のあたりと、空港のあたりからモクモクと黒い煙が上がっている。
通りには、普通の市民が銃や棒を持って歩いている。
石やレンガを建物に向かって投げつけている。車の窓を割り、ひっくりかえす。

12:00 銃声がやんで、通りでは警察が警備にあたり始める。サイレンの音。上空をヘリコプターが飛ぶ。

少し落ち着くと、子どもたちはお腹がすいたとか、のどが渇いたとか、トイレに行きたいとか・・・・・・。
水も流れないトイレ。
私が持ってたビスケットを4つに割ってみんなでちょっとずつ食べて。
私のお水をみんなでちょっとずつ飲んで。
みんなで椅子とりゲームをする。子どもたちが笑いはじめる。


13:00 やっと先生や、迎えに来て学校から出られなくなってしまった保護者の人たちと話す時間ができた。
ムスリムの人、クリスチャンの人。
誰もがジョンガランの死を悼んでいる。スーダンにとって、世界にとっても、Great Loss だと口をそろえて言う。
スーダン全体をみて、南も北もなく、ムスリムもクリスチャンもなく、みんなの幸せを考えられるリーダーだったのに、やっと自由で平等な社会に向けて歩んでいけるんだって思っていたその時に、こんなことになり、またスーダンは後戻りしなくちゃならないのか。
それに何よりもおかしいのは、みんなが悲しいって思ってるのに、なぜ同じ国民がこんな恐い目に遭わなくちゃならないのか。なぜ子どもたちまで巻き込まれるのか。
ヘリコプター事故という報道以外は、何も明らかにされていない。事故のあった時、ウガンダは悪天候だったと。
だけど、そんな事、誰が納得できるだろう。。ジョンガランは22年にもおよぶ内戦を戦ってきて、ハルツームに入って22日で死亡。
あっけなさすぎる。


14:00 郊外に出る橋が通行可能になり、保護者や迎えの車が子どもを引き取りに来る。
14:30 ほぼ全ての子どもが学校を出て、迎えのない子どもたち(10人)は学校のドライバーが送り届けることにきまる。

夕方には街の中心で集会が行われるとの噂。
私も早めに帰ったほうがいいと言われ、車2台、計4人で迎えに来てもらい帰宅。
やはり学校だけが無事で周りの建物は相当な被害を受けていた。

18:00 外出禁止令 

19:00 ジョンガラン夫人からの声明。「ジョンガランは、だれかに殺されたのではなく、天に召されたのです。武力に訴えるのは、彼の望んでいたことではありません」
この声明の後、夜間には予想されていた様なひどい暴動はなかった模様。


家でシャワーを浴びたら、ホッとしたのか涙がポロポロでた。
恐くもなかったし、死ぬかもしれないとは思いもしなかった。
変に冷静で、ひとりずつしか運べない他の先生たちを見て、二人同時に抱えて走れる自分を、力持ちだなあなんて感心したりもしてた。
学校だから絶対に大丈夫って思ってた。

だけど、時間がたつにつれて、心がどんどん重たくなった。
あれだけの悲しみがこの国に宿って、それが爆発した、あの瞬間のあの空気を私は決して忘れない。


20年以上続いた内戦に終止符を打って、これからは本当の平和に向けて少しずつ歩き出せるのだと、人々に希望を与えてきたジョン・ガラン。
彼が示したベクトルが、今後もこの国の中で生き続けることを願ってやみません。


8月2日、今日から3日間、スーダン国民は喪に服します。学校も会社もお休み。
私もなるべく外出を控え、おとなしく暮します。
外ではまたサイレンの音が聞こえます。
コメント (8)
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