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毎週小説

一週間ペースで小説を進めて行きたいと思います

もう一つの春 13

2006-10-25 20:32:08 | 残雪
抑えきれない激しい感情が湧き上がり、お互い抱き合い口付けをしていた。
「いけないの、こんな事しちゃいけないのよ」
春子は混乱していた。会ってゆっくり自分のこれからの予定でも聞いて貰う位の気持ちで来たのに、もうこんな風になってしまう。
「春子さん、僕がいけないんです、メールで済ませておけばよかったのにどうしても会いたくなった、僕のせいです」
「いいえ、そんなに言わないで、寺井さんが悪いとかじゃないんです、私相談したい事もあって会いたかったんです、でも、奥さんも戻ってらっしゃるかも知れないと考えてためらっていたんです」
「そうですか、家内はまだ帰ったままなんです、旅館のバーであなたに、奥さんに逃げられたのだろうと言われた時は、一部当たってるなと胸にこたえました」
寺井は、自分の母と妻の事を簡単に説明した。
「家庭を持つというのも結構大変な部分があるんですね」
春子は気持ちが落ち着いてきた、寺井の家庭が少しややこしくなっているのが、かえって安心感を与えたようだ。
六義園近くの蕎麦屋で遅めの昼食を済ますと新宿に戻り、駅ビル内の喫茶店に入った。
「寺井さん、たしか修さんでしたよね」
「そうですけど」
「じゃあこれからは修さんて呼んでいい?」
「いいですよ、恥ずかしいけど」
「いいじゃない、修さん若く見えるし素敵ですよ」
「そんな、もう40才だし、年だから」
「なに言ってるんですか、男はこれからですよ、今の2,30代の男性は軟弱すぎて、私物足りないんです」
「そうかなあ、そんな事もないと思うけど、それに結婚を考えると相手が40代じゃ再婚の確立も高くなるし」
「私、結婚は当分しません」
「そんなに断言していいんですか」
「勿論です」
春子は時期がくれば病気の事も話そうと思ったが、まだ大分先になりそうだ。

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もう一つの春 12

2006-10-22 18:57:25 | 残雪
寺井さんとはもう一ヶ月半位会っていない。新潟行きの件もあるし、相談がてら会ってみようかしら。でも奥さんも戻って居るかも知れないし、私の事なんか構ってくれないんじゃないか、そう思って躊躇していた。
すっかり寒くなってきた土曜日の朝、8時過ぎに起きると、携帯電話に寺井からのメールが届いていた。
できれば今日お会いできませんか、少しの時間でも結構ですから、との誘いでやはり嬉しく胸が熱くなった。
駒込の六義園入り口で落ち合う事にした。昼少し前だったが肌寒い日で、待たせない様にと早めに行ったのだが彼はもう来ていた。
何を話してよいのか分からず、下を向いたまま頭をさげ挨拶をしたのだがぎごちなかった。
「よく来てくれました、とてもお会いしたかったです」
「私も・・・」
私もずっと会いたかったの、と大きく胸の中に膨らんだ気持ちの高まりで声にならなかった。
中に入り右に歩いて行くと、まだ紅葉もあまり進んでおらず空いていた。、
白っぽい秋さざんかも咲き始め、手入れの行き届いた松が多く植えられており、その先に渡月橋という二枚の大岩で出来た橋が有る。柵がないので二人しておっかなびっくり下を覗いて見ると、大きな亀と鯉、それにカルガモが一緒に泳ぎ回り、人が近寄ると餌を求めて一斉に集まってくる。
「これじゃあ、亀と鯉のラッシュアワーだよ」
「小さい亀の上に大きな亀が乗ろうとしているわ」
鯉は上を向いて口をぱくぱくさせ餌を催促している。
橋を渡ると、藤代峠と書いてある狭い階段を上りすぐ頂上に着いた。
「いい景色、この池の周りが全部紅葉に染まったら本当に綺麗でしょうね、いろいろな面も覆い隠されて」
「春子さん、何かあったのですか」
それには答えず首を横に振っただけだった。
一番奥まった駅側の散策路は殆ど紅葉していないせいか誰も居らず、自然と二人肩を寄せ合い手を取り合ってゆっくり歩き、そして立ち止まった。
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もう一つの春 11

2006-10-19 20:37:48 | 残雪
朝、家から駅まで静かな住宅街を10分程歩く中、金木犀の咲く道にさしかかると、あの切ない様な香りが辺り一面にたちこめ、秋たけなわの感がある。
木漏れ日の差す休日の午後、春子は新宿御苑を一人散策していた。
秋の薔薇も咲き始め、写真を撮ったり絵を描く人々を何気なく見送りながら、木蔭のベンチに座り込むと物思いに耽ってしまう。
あの時何であんな行動をとってしまったのだろう、幾ら病気の事で情緒不安定になっていたとしても、酔った勢いで男を自分の部屋に引き入れるなんて、しかも妻子持ちだし年も随分離れている。
あれから彼とは週一回位メールのやり取りをしていたが、会うことは避けていた。
出来ればこのままの状態にしておきたい、完全に離れるのは辛いが少し距離を置いて、その間に父親の現況、母の生い立ちを調べてみたい、病気の方は定期健診に任せるしかないのだからと考えていた。
それから暫くして、母方の親戚から連絡が有り、母の事を知っている人が居る旨の
報告が入った。詳しく聞いてみたかったのだが、よく分からないので細かい事はここに問い合わせてほしい、といって住所と電話番号を知らせてくれた。何か事情が有りそうな気配である。
考えた挙句手紙を出す事にした。いきなり電話では聞きにくい。地図を広げてみたら新潟市からわりと近く、訪れる日はきっと近いに違いない、という予感めいたものがあった。
一週間程待たされて返事が来た。男性の筆跡で、遅れましてという挨拶に始まり、昨年肝臓病を患いあまり歩けないし、お会いして説明するのが一番良いと思うので、都合をつけて来てもらえないかと書いてあった。
都会にも紅葉の気配が漂って秋の輝きで街を彩り、澄んだ青空と共に春子にも人に
対する憂愁を強くさせた。
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もう一つの春 10

2006-10-16 21:07:42 | 残雪
「馬鹿になんかしていません、今夜は楽しかった、こんなに素晴らしい夜は初めてですよ」
「本当に?」
「本当です、さあ、お茶を飲みましょう」
「私、だめかもしれないんです」
急に彼女が泣きだしたので寺井は戸惑った。そっと肩を抱き寄せると、痩せすぎに見えたが着痩せしているだけだと分かり、完成された女性を意識して感情が昂った。
「・・・御免なさい、もう大丈夫」
「何があったか分からないけど、よかったら話して下さい」
「ううん、本当に大丈夫、私十分嬉しかった」
病気の事は話したくなかった。春子は他人にこれ程打ち解けたのは初めてだった。
何時も周りに弱みを見せまいと意識し、友人とも深い付き合いは避けていた。
「佐伯さん、僕は四季の変わり目が好きで、今は夏から秋へ移る一番好きな時期でもあるんです。その時期にあなたと出会えた、一期一会を感じます」
「私も9月から10月は好きなんです。風雪や暑さを越えて実る秋、充実の時期ですもの」
「そう、今のあなたの時期ですよ」
「私はまだまだ未熟です、飲みすぎちゃうし」
「少し元気になってきたみたい、良かった」
「もう一杯飲もうかな」
「まだ飲むの、君は昼と夜のイメージが随分変わるんだよなあ」
「私、悪い女でしょう」
「危ない魅力があるね」
春子は冷蔵庫からワンカップ冷酒を取り出してきて飲みだした。
「寺井さんもビール位付き合いなさいよ」
寺井はあまり飲める方ではなかったので、いまのビールで気持ちが悪くなった。
「御免なさい、少し横になってて」
そういって春子の布団に寝かされた。
夜中の1時過ぎに起き上がると、春子はお膳にうつ伏せになって寝ていたが、すぐに気づき寺井の傍に座り込んだ。
「大丈夫、もう醒めた?」
「うん、大丈夫、迷惑かけてしまって、もう戻らないと」
「行かないで」
「そんな訳にはいかないでしょう」
「ここに居て、お願いだから」
寺井は迷った。しかし春子の女そのものの姿が真っ直ぐ自分に縋って来るの感ずると、もう戻る力も断る勇気も失っていた。
高原の秋はこれから色付きはじめるのである。

                   -第一部-



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もう一つの春 9

2006-10-14 20:04:55 | 残雪
「僕は構わないけど、佐伯さん酔ってない?」
「平気よ、まだ三本しか飲んでないわ」
もう充分ではないかと言いたかったが、階上に有るカウンターバーに連れて行った。
「寺井さん何で一人で旅してるの、本当は奥さんに逃げられちゃったんじゃないの」
「そうじゃないけど、お盆の後から家内は実家に帰っているんだよ」
「ほら、逃げられちゃってる」
そうかも知れない、と考えた。子供を産んでから体調がすぐれない日が多く、それを口実に帰っているのだが、寺井の母の近くに居るのを避ける様に、実家に長く帰る事が多くなっていた。
「おかわりください」
春子はまだ飲むつもりだ。
「もう止めた方がいいんじゃない?いい色ですよ」
「大丈夫、水割りなんだから」
「佐伯さんの今の、いやこれからの夢は何なんですか」
「夢、夢なんて無いわ、私もう夢を見ちゃいけないのよ、いけないのよ」
何故か悲しそうで、若いなりの悩みも有るのだろうかと心配になり、
「もう戻りましょう、ゆっくり休めば明日は元気がでますよ」
そう言ってレジでサインを済ませ、彼女の肩を抱えるようにして部屋まで送って行った。
手が痺れているらしく、寺井が鍵を開けてやり、
「じゃあお休み、また明日」
と言って去ろうとすると、
「あんたも入りなさい、入ればいいのよ」
そう言って無理やり彼女の部屋に押し込まれてしまった。
「ご馳走さまでした、お茶入れますわね」
「いや、僕が入れます、あなた酔っているから」
「寺井さん、私の事なんか馬鹿にしてるんでしょう」




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もう一つの春 8

2006-10-11 20:25:20 | 残雪
3時までそこで過ごし、戻りがてら、
「今夜は部屋食をやめて、食事処で一緒に食事をしませんか」
と誘ってきた。春子は、
「寺井さんさえよろしければ」
と一も二もなく受け、それでいて自己嫌悪に陥ったりした。
温泉にゆっくり浸かってみたが、もう熱はなく、いつもより入念に体を洗い髪も時間を掛けてセットした。化粧や着替えを済ますと予約の6時近くになっていた。
寺井は驚きの目で彼女を見ていた。今までの周りの女性との違いは、時代を超えた様な立ち居振る舞いのなかに、独得の古風さや控えめな日本伝統の美を勝手に描いていたのだが、目の前にいる彼女は、淡い紫とピンクの花柄のキャミソールタイプのドレスにセットされた上着を身に着け、化粧を施された小さめな顔に紅い口紅を差している、現代女性そのものだった。
勤めて平静を装い食事を共にしていたが、内心は落ち着く暇もない心境だ。
春子はすっかり打ち解けて、ビールで乾杯した後は自ら冷酒を頼み、もう二本目も空けるところだった。今日はお酒が美味しい、もう風邪も治ったし一応パートナーもいるから飲んじゃおう、と無邪気なものだった。
「佐伯さんは結構飲めるんですね」
「そう、最初にお酒を飲んだ時もまずいとは思わなかったわ」
「羨ましいな、僕なんか今でも本当に美味しいというところまでいかなくて」
「それ位がいいですよ、私男の人の酔っ払いってあまり好きじゃないんです」
そう言いながら本人は目のまわりがピンク色になってきた。
2時間があっと言う間に過ぎ去り、廊下に出ると、
「私まだ帰らないわよ、どこかに連れてってよ」
と春子が絡んできた。
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もう一つの春 7

2006-10-08 19:22:39 | 残雪
翌朝、5時前に目が覚めた。まだ少しだるさが残っていたがもう眠れず、冷たい水で顔を洗うと表に出た。雨上がりの澄んだ空気を体感しながら周りを見渡した。
右肩上がりの近くの山、正面に遠く霞む山々、左側の線路をくぐり下りて行くと谷間に小さな町並み、この丘からのワンカットは故郷への抒情歌であり、母の遺言とも受け取れた。
丁度食事が終わった頃、寺井から電話があった。
「どうですか、具合は」
「大分良くなりました、食欲はいまいちなんですけど」
「そうですか、じゃあこうしましょう、近くに高原植物園が有りますからそこでゆっくり花でも見るという事に」
「お任せします」
春子は自身を訝った。気持ちがどんどん寺井に寄っかかって行ってしまう、私は何て女なんだろう、やはりファザーコンプレックスでもあるのだろうかと考えていた。
ゆっくりと植物園に向かった。ここは山の入り口の中心的存在に見えた。
中空に向かうコスモスがもう咲き始めていて、初秋を感じさせる涼しい風が時折うなじを通り過ぎ、全身が浄化されていく気持ち良さだった。
寺井はというと、春子のことなど忘れてしまったかの様に撮影に没頭していたが、一人に慣れている自分には好都合だった。
お昼になり、軽いランチを食べながら、
「本当にすいません、ほったらかしで」
と神妙そうにしている。
「そんなに気にしなくていいんですよ、私は一人の時間が好きなんだから」
「この後はあなたの撮影に掛かります」
「やだあ、私今日は山歩きだからTシャツとジーンズだし、お化粧もしてないわ」
「もう構図は考えてあります、コスモスの真ん中にあなた、撮る位置は下から上に向けて、背景は青空と白い雲、眩しい表情を避ける為にこの麦わら帽子を被って下さい」
春子は否応なく20枚程撮られてしまった。
「恥ずかしいわ、他の人に見せないで下さいね」
「佐伯さんは自分が思っているよりもずっと魅力的ですよ」
「だって恥ずかしいんだもの」
あなたに写真を撮られるのが一番恥ずかしいの、と言いたかった。

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もう一つの春 6

2006-10-05 20:35:55 | 残雪
「寺井さん、遅い夏休みだと仰いましたけど旅行の目的は何なんですか」
「目的ですか・・まあ気分転換かな」
とりあえず複雑な話は避けたかった。
「佐伯さんは一人旅がお好きなんですか」
「いえ、一人旅は、そう、初めてじゃないかな」
春子は説明にならずにじれったくなったが作り話も嫌だった。
「私何ていうかその、一種の傷心旅行かも知れませんわ」
「そうですか、まあお若い方なりの悩みもあると思いますが、恋愛とか」
「全然そんなんじゃないんです、私男の人に慎重なところがあって、どうも若い人が何か苦手なんです」
春子がそういって黒目がちの瞳を真っ直ぐに向けてきた時、寺井は不思議な気分に襲われた。今までに出会った事のない、強く人を惹きつけるものをもっている。
くつろいで、淡いピンクのブラウスをぴったり着ている胸から腰にかけての成熟した曲線は、目のやり場に困る程だった。
「寺井さんはお一人ではないんでしょう」
「はい、子供一人の三人家族です」
「そういう雰囲気がありますわ、落ち着いて安定した家庭が有って」
「そういい事ばかりでもないのですが」
「実は私、殆ど一人状態なんです」
春子は親子の状況を簡単に話して聞かせた。
「そうですか、佐伯さんはお若いのにいろいろな経験をされているのですね。でもあなたはお世辞ではなく、本当に魅力のあるこれからの方なのですから、傷心旅行なんて言わないで下さい」
「有難うございます。魅力はどうか分かりませんが少しほっとしました」
「そうですよ、もし明日体調が良ければ一緒に出かけませんか、素晴らしい場所が一杯ありますよ」
「ええ、そうしたいと思います」
今日の二人はそこで別れた。春子は早めに部屋で食事を済ますとすぐ布団に入り、好きな小説を読み22時には寝ていた。
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もう一つの春 5

2006-10-04 20:47:54 | 残雪
二人共結構濡れていたので、挨拶も早々にそれぞれの部屋に戻っていった。
春子は内風呂から出てくると急に疲れを感じ、テレビを見ながら畳の上で眠ってしまった。
夢の中でさっきのトンネルが出てきた。今度はあの男性ではなく、もっと老けた白髪頭の男が、雨の中に突っ立ちこちらを凝視している。
「誰?」
「・・・」
「誰なの」
「・・・」
「あなたは、お父さん?」
そう聞いた途端急に景色が変わり、真っ青な海が目の前に広がった。それも写真を撮る時の縦の景色で、他の部分は暗闇だった。その縦の狭い海がコバルトブルーに光り、眩しくてまともに見られず、それでも我慢して見ているとだんだんと遠ざかり、小さくなりながらも縦のままずっと輝いていた。
私は死ぬのかしら、もしかして父も居なくなり、本当の天涯孤独になる私の事を気にして会いに来たのかしら、でもそれだったら母は何故現れないの。
春子は急にうなされて目が覚めた。少し熱っぽかった。
変な夢、きっと風邪をひいたんだわ、そうだ、ロビーにいい雰囲気の喫茶室があった。あそこでコーヒーを飲めば元気になる、行ってみよう。
中に入ると他の客は一人だけで、寺井だった。
「やあ、よろしかったら同席してくれませんか」
「ええ、喜んで」
「本当、光栄だなあ」
「私、風邪をひいたらしくて寒気がするんです、だからコーヒーを飲めば温まると思って」
「そうですか、私もちょっと変なんです、でもここのコーヒーとてもいけますから
直ぐ治りますよ」
香り高い濃厚な味が体の冷えを溶かしていく様だ。
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もう一つの春 4

2006-10-01 11:04:08 | 残雪
30分程も考えていただろうか、雨は一向に止むどころか、横なぐりの強い風が吹きつけ髪も濡れてきた。
旅館側の上の方から凄い勢いで雨水が流れ込み、トンネルの排水溝に落ちていくのだが、それもかなり一杯になってきてスニーカーも濡れだした。
車が2台下から上がって来たが無視された。
まいったなあ。
湯上りで手ぶらだし、サーモンピンクのタンクトップと黄なりの麻のミニスカート、こんな格好で土砂降りの雨の中を旅館まで歩いていったら、殆ど裸に近い有様を皆に見せなきゃならない。もう病気の事等頭の中からすっかり消えて、どうやって帰ろうかで一杯だった。
その時、さっきの車の方向から駆け上げって来る男の人影があった。慌ててトンネル内に逃げ込んだ姿は、防水の帽子を被りブルゾンを着ていたものの足元はびしょ濡れだった。
直ぐに春子の存在に気づくと、
「まだ止みそうもありませんね、一人ですか」
「ええ」
「今旅館に連絡しますから」
携帯電話で話し終わり、5分もするともう旅館の車が見えてきた。
春子の泊まる旅館の車だった。
「どうも有難うございました、本当に助かったわ」
あなたも同じ旅館でしたか、多少の縁ですね、あの私、寺井っていいます」
「佐伯です」
「佐伯さんも一人旅ですか」
「はい」
「私は昨日から泊まっているんです、遅い夏休みなんですけど」
春子は初めて相手の顔を真近に見た。40才位だろうか、背は高く、有名な韓国俳優と同じ様な眼鏡をかけている。ちょっとおかしくなった。
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