土佐・長宗我部家の跡目争いが怨霊を産んだ「土佐の七人ミサキ」【その弐】

土佐に連綿と続く怨霊伝説「土佐の七人ミサキ」【その壱】から続く
七人の人間の死が連鎖すると、次々と出会った人を祟り殺していく「七人ミサキ」という怨霊になると言われている。その「七人ミサキ」の中でも最も有名なものが長宗我部家の跡目騒動に端を発す「土佐の七人ミサキ」だ(※土佐に連綿と続く怨霊伝説「土佐の七人ミサキ」1)。
天正16年9月、いよいよ長宗我部元親による嫡子決定の合議が行われた。この機を逃すまいと、久武内蔵介は持論を展開した。
「次男・五郎二郎様、三男・孫次郎親忠様共に一度は他家の姓を継いでおられる。亡き嫡男・彌三郎信親様には一女あり、この方と四男の太郎盛親を添い遂げさせ、家を継がれるのがよいかと…」
これに政敵である吉良左京進が反論した。
「それは、人の道に反することである。叔父と姪の婚儀など言語道断」
「まったく、そのとおりでござる」
比江山掃部親興も吉良の意見に同調した。二人の意見は道理に見合うものであり、久武内蔵介の論は退けられるかに思われた。だが、長宗我部元親が発した言葉は意外なものであった。
「吉良左京進、親興比江山掃部親興両名の話は道理にかなったことであるが、予の面前にて久武内蔵介を批判したのは甚だ不敬である。本日の協議はこれまでとする」
そう言って合議を打ち切ってしまった・・・(この続きはこちらから)

