沈没から111年以上経った現在も、タイタニック号は人々を魅了し驚かせ続けている。
今週、Redditでとある奇妙な事実が話題となっている。1985年9月に再発見されて以来、この沈没船は様々な調査がされてきたにもかかわらず、船内からは遺体が全く発見されていないという。
「私は遺体を見たことがありません」 と、タイタニック号を33回訪問して調査し、船長よりも長い時間を船で過ごしたと主張するジェーム . . . 本文を読む
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人工知能 (AI) のニューラルネットワークが、ラファエロの絵に描かれている顔について奇妙なことを発見した。それは実際にラファエロが描いたものではないという。
問題の顔は聖ヨセフのもので、「マドンナ・デラ・ローザ」(または「バラの聖母」)として知られる絵画の左上に描かれている。
この絵がラファエロのオリジナルであるかどうかについては、長い間議論されてきた。出所を断定するには多様な証拠が必要だが . . . 本文を読む
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歴史的偉人の遺体や墓が所在不明となっている例は、日本のほか世界でも多く見受けられる。それが、クレオパトラやチンギス・ハン、ネフェルティティといった古い時代の人物であればなおさらである。紀元前300年代、地中海からインドに跨る広大な大帝国を築いた、かのアレクサンドロス大王もその一人だ。
古代ギリシアの国の一つ「マケドニア」の王であったアレキサンドロス大王は、ギリシア統一したのち東方遠征に乗り出し、 . . . 本文を読む
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1991年(平成3年)、徳島県美馬市の武家屋敷「鎌村熊太邸」にて屋根裏の改修が行なわれた際、その一角に奇妙な物品があるのが発見された。
鎌村家の伝えによると、幕末のある時「才谷」と名乗る土佐の郷士がこの屋根裏に滞在していたと語り継がれており、のちの調査でこの人物が坂本龍馬であることが判明。
文久2年の2月半ばから下旬、龍馬が脱藩する1ヶ月ほど前のこと。彼は土佐勤王党の盟主である武市半平太の命を . . . 本文を読む
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エジプトのサハラ砂漠で、これまで発見された中で最古のキリスト降誕の場面を描いた5000年前の壁画が発見された。イエスの誕生に関する聖書の記述を彷彿とさせるこの先史時代の壁画は、聖書の記述よりも約3000年も前に描かれたものである。
イタリアの研究者チームが、エジプト・サハラ砂漠のギルフ・アル・ケビール高原とナイル渓谷の間の野外調査中に、「Cave of the Parents (ケーブ・オブ・ペ . . . 本文を読む
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幕末の志士坂本龍馬の妻と言えば、楢崎龍(通称おりょう)である。龍馬からは「まことにおもしろき女」とべた褒めされ、龍馬と敵対していた新選組の近藤勇も、好意からたびたび贈り物をしていたと言われ、非常に美しい女性であったと言われている。
明治37年(1904年)12月15日、東京二六新聞に「坂本龍馬未亡龍子」と題する記事が掲載された。明治天皇の皇后の夢枕に坂本龍馬が立ったということで龍馬が有名となり、 . . . 本文を読む
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アメリカで今なお捜査や研究がなされている未解決事件にD.B.クーパーハイジャック事件がある。
1971年11月24日午後4時35分、アメリカの上空を飛行していたノースウエスト航空11便にて、一人の男性乗客が客室乗務員の女性にメモを渡し、「爆弾を持っている」と告げた。
男性は鞄の中に導火線が繋がったダイナマイトを所持しており、身代金20万ドルとパラシュート4つを要求。身代金とパラシュートを受け取 . . . 本文を読む
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百合若大臣は、室町時代に成立した百合若という名の架空の武者を主人公とする物語である。幸若舞(こうわかまい)や浄瑠璃などの題材となり、大分県や壱岐(長崎県)にも伝説として伝わっている。
弓の達人で鉄の弓でも引けるほどの腕前を持つ豊後の右大臣百合若が、攻め込んできた蒙古の撃退の命を朝廷から受け見事これを果たした。しかし、激戦の末に疲れ果てる中、戦果を自分たちのものにしようと裏切りを図った部下の別府兄 . . . 本文を読む
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パキスタンのシンド州にあるモヘンジョダロは、インダス文明を代表する都市遺跡だ。今からおよそ4500年前に繁栄したモヘンジョダロは、多い時には40000人もの人々が生活していたと考えられている。「モヘンジョダロ」という呼び名は地名などではなく、現地の言葉で「死の丘」を意味している。
インダス文字もいまだ未解明であるため、繁栄当時どのような呼び名をされていた都市であるかも不明なのだ。また、「死の丘」 . . . 本文を読む
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昨今は、イベントや特に動画サイトという媒体によって怪談が語られる土壌が広く開かれており、ブームと称する以上に一つのコンテンツとして君臨している。現代における、こうした怪談の隆盛を鑑みる上で、小泉八雲の存在は欠くことができないだろう。
まさしく彼は、日本における怪談流布の功労者であった。
1850年、小泉八雲(出生名パトリック・ラフカディオ・ハーン)は、アイルランド人の父とギリシャ人の母との間に . . . 本文を読む
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戦乱がおさまり、世の中が平定することによって忍者の活動は少なくなっていった。1637年の島原の乱は、幕府の老中松平信綱が甲賀忍者を率いて指揮にあたっていたが、この大規模一揆が忍者集団の最後の組織戦であったとされている。そして幕末、情報収集によって潜入するという職務を行なった、最後の忍者と呼ばれる人物がいた。
それは伊賀の忍者、澤村甚三郎保祐(じんざぶろうやすすけ)である。
甚三郎は、伊賀国の藤 . . . 本文を読む
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テレビドラマ『暴れん坊将軍』のモデルとしても知られる第8代将軍徳川吉宗は、綱紀の粛正、質素倹約の励行、享保の改革を行なったことで、江戸幕府の中興の英主とされている。
吉宗は、それまでの将軍とは異なり、御三家から初めて将軍に選ばれた。御三家とは尾張、紀伊、水戸の3藩のことであるが、吉宗は紀州藩の藩主徳川光貞の子として生まれた。吉宗は四男であり、藩主の座にもつけないような立場であったはずだったのだが . . . 本文を読む
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故事として知られる「元の木阿弥」は、良くなったものが元の状態に戻ってしまうという意味の言葉である。これは、戦国の武将筒井順昭(じゅんしょう)がその死を隠すために影武者として用いた木阿弥という盲人に由来すると言われている。
死の直前、順昭がその息子である順慶が成長するまでの時間稼ぎとして姿が似ている僧侶木阿弥を起用、木阿弥はしばし不自由のない贅沢な生活を送っていたが、のちに順昭の死が公表されたこと . . . 本文を読む
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南北朝時代に編纂された説話集・神道書である『神道集』の「諏訪縁起事」に登場する甲賀三郎は、大岡寺観音堂縁起のほか民話にも登場する伝説上の人物として知られている。甲賀三郎の伝説は、ものによってところどころ違いはあれども、おおよそ以下のようなものだ。
第三代天皇である安寧天皇の五大の孫である甲賀諏胤(よりたね)の三男として生まれた三郎には、太郎、次郎という二人の兄がいた。三郎は諏種の死の直前後継ぎに . . . 本文を読む
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源頼朝は、初代征夷大将軍として初めて武士による政権を作った人物であり、鎌倉幕府を作りおよそ700年近くに渡る武家政権の礎を築いたことで知られている。しかし、頼朝の死後は源氏による将軍は廃嫡となり、実権は北条氏によって奪われてしまうこととなった。
この嫡流廃絶の流れは頼朝の急な死によるものであるとされているが、その死因については実のところハッキリとしていないと言われている。通常唱えられている彼の死 . . . 本文を読む
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