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大河ドラマ「義経」 覚え書き 第二十一話 中

【平塚良郷なる人物のモデルは上総介広常か!?】

さて今回のエピソードの中で、妙な人物が登場した。「平塚良郷」(いったいこの人物は誰なのだ??)とかいう武者である。結構な年配で、この男、生来の無骨者と見えて、酔に任せて頼朝に意見をする。木曾義仲の息子の義高を早速殺害すべきだというのである。これに対して頼朝は、あれは人質ではなく、大姫の婿と言い張る。

更に良郷は言い放つ。もしも義仲と争うことになったらどうなさる。その時のために、早く殺害すべきだというのである。

さて、この席に偶然義経が同席をしていた。これによれば、この良郷という人物は、侍所の幹部に近い人物であろう。それにしても侍所筆頭の和田義盛は、どこにいると言いたいのだが、景時は頼朝の意を汲んで、この老いた人物を、引っ立てて来る。

何故こんなことをと、暴れるこの老武者を上から見下す景時は、太刀をいきなりぬいて、「出過ぎたのでござる」とばっさり老武者の皺首を刎ねてしまう。まったく理不尽な血の粛清。これはあくまで頼朝の意を汲んだ景時の裁量であるとして、理の人頼朝の政治家としての冷徹な判断ということで、台本は書かれているようである。

たかだか、酒宴で、正論を吐く御家人を、直ぐさま一刀両断に切り捨てることを、本気で頼朝という人物がするというのであれば、政治家でもなんでもない。とんでもない話である。

御家人とは、家人(家来)ではない。それぞれ所領を保持している土地持ちの土豪、言うならば会社の社長である。その社長たちが、頼朝という流人を会長(CEO)として迎えて、有限会社「平塚」を、株式会社「大鎌倉」として大同団結を図り、共に繁栄をしようというのである。

もしも御家人をこのように理不尽に遇するような狭量な頼朝であったならば、最初から頼朝は株式会社「大鎌倉」の会長になど迎えられるはずはないのだ。彼は慎重に慎重に、都から企業経営のプロとして大江広元のような人物を呼び、企業としての体裁を更に強固に整えようとしていたのである。

だから、21話のシナリオは、どのように考えても不自然。そしてやり過ぎなのである。おそらく、歴史を少しでも囓っている人は、バカバカし過ぎて、観ることも語ることも拒絶してしまいかねないような内容なのである。

さて、頼朝の政権基盤はまだまだ脆弱である。鎌倉政権は盤石ではないのだ。そんな折り、頼朝が御家人を酒宴の席の諌言をもって成敗するなど断じてない。こんなストーリーを観て感心している自分の中世政治観、頼朝観というものをもう一時考え直した方が良いと思うのである。

おそらく、このあり得ない馬鹿げた虚構(フィクション)は、寿永2年12月に頼朝によって粛清される「上総介(平)広常(?‐1183)」のエピソードから拝借したものであろう。

しかしこのエピソードと、大河のフィクションでは、前後の状況が全然異なっていて、およそ同列には扱えない事件である。「上総介広常」殺害事件は、かなり薄氷を踏む思いで決行された陰謀による暗殺劇である。上総介広常という人物は、石橋山で敗れ、這々(ほうほう)の体で房総に逃れた頼朝の許に二万騎の兵をもって馳せ参じ、頼朝が起死回生の反撃にでるために決定的な役割を果たした頼朝にとっても恩のある超大物御家人である。思慮が足りないかも知れないが、頼朝よりかなり年配で相当の軍事力とカリスマ性を有している。しかしやはりどうも自分のお陰で頼朝が勝利したとの自負と、先代の義朝より源氏に味方していたという先輩気取りで、頼朝を少々侮っているフシが伺える。

エピソードとして、寿永2年(1183)6月に三浦半島の三浦氏の館に納涼のために趣いた時、上総介広常も五十騎の兵を率いて三浦一族と共に、頼朝一行を迎えたのだが、他の者たちがすべて、馬を下りて、頼朝にあいさつをする中で、広常はひとり、馬上にいて、「公私ともに、三代の間に、そんな礼を行ったためしはない」と公言したのであった。その時、頼朝は、間違いなく、この人物に敵意を持ったに違いない。しかし辛抱の人頼朝は、これをじっと我慢して堪えていた。

そして、寿永二年十月、都の上皇より頼朝に「東国沙汰権」を認めるという宣旨(せんじ)が届く。これは所謂「寿永二年十月宣旨」というもので、東国における警察権を認められたようなものであるが、大げさに言えば、東国の鎌倉に集う御家人たちにとっては独立が認められたに等しい目出度いことである。すでに頼朝は、平家のみならず木曾義仲を追い落として、天下の趨勢を我がものにすることを考えていた。しかし大物御家人である上総介広常は、東国は宣旨によって、独立を許されたに等しいのだから、何も京に遠征する事などないではないかと考えていたようである。ここに鎌倉政権内に決定的とも思える路線対立が起こる。もし広常と力と力で対峙したのでは、鎌倉がふたつに割れ、上総介広常の従兄弟である千葉常胤も広常陣営に付く可能性がある。そうなればせっかくここまで来た鎌倉政権も空中分解してしまう。要は頼朝も上総介広常が怖いのである。

そこで苦肉の策として考えられたのが、「広常暗殺」という奇策である。このようにどんなに奇妙に思える歴史的な出来事でも、その奥にはそれなりの原因が隠れているものである。つまり株式会社「大鎌倉」の会長(CEO)頼朝が敷いている路線が、継続するためには、このような非道な方法しかないと彼らは思い詰め、悩み考え抜いた末に行ったことであると思う。頼朝ほどの人物が、酒の席での取るに足りない言葉をもって、翌日に首を刎ねるというのは似て非なる事件であり、考えにくいのである。まあ、頼朝に、上総介に対する三浦での馬から下りなかった行為に対する恨みがなかったかと言えばあったかもしれない。「江戸の敵(かたき)を長崎で」という思いだ。しかし辛抱強い頼朝のことであるから、そんなことで私憤を晴らすと考えるほど頼朝が小人物であったとはどうしても思えない。

ちなにみ、愚管抄によれば、広常の暗殺は、盤上で双六をやっている時に、梶原景時がさりげなく、広常のいる方に飛び越えて、刀を振るってその首を取ったということである。これは伸るか反るかの一か八かの捨て身の策であろう。もしも失敗した場合は、その場にて、景時は乱心を装って死ぬ覚悟で行ったはずだ。この暗殺劇だが、原案は頼朝が、そして当然シナリオは梶原自身が描いたのものであろう。これによって、梶原の手は薄汚れ、頼朝との因縁が深くなるのであるが、このような因果が廻ることをすると、厄はエスカレートしてわが身に跳ね返ってくるものである。

頼朝も景時も当時としては高い教養を持った人物のようである。敢えて「大鎌倉」の大義のためにに覚悟を決めて非道を行ったのである。頼朝は、この行為の悪逆非道を当然理解していた。だから、いったん取り上げて千葉常胤に与えた上総介の所領を、後に一部上総介の縁者に返還したとの後日談も納得できるのである。


ともかく、大河「義経」を見る限り、鎌倉政権は、まるで頼朝と政子の個人商店のようである。しかし頼朝は、鎌倉を「大鎌倉」にするために、京から大江広元を呼ぶなどして、鎌倉の政権を強固な組織にしようとしていたはずで、その過程が描かれず、頼朝と義経が、部下を取り立てるのに「理か情」の禅問答をさせる辺り、どうなっているのかと思ってしまうのである。あり得ない掛け違えたボタンを持って論争をするのだから、私からすれば、始めから不毛な論争となる。

第一あんな青臭い少年のような論争を義経が兄に向かって吹っ掛けるはずはない。しかも、義経は仇の平家を褒めるなど、「何を考えて台本を書いているの?」と捻った首が戻らなくなるような思いがするのである。

そこで次に義経が鎌倉の地でどんな生活をし、何を考えていたか。そしてもし頼朝と話したり、進言するようなことがあれば、二人はどんなことを語らっていたのか。そのことを推測を交えて考えてみたい。

つづく
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