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ブログ小説 過去の鳥

淡々と進む時間は、真っ青な心を飲み込む

吉田権造物語 5 修学旅行ともうひとつの旅立ち

2007-12-05 09:29:16 | 小説
 修学旅行と言うのは、学校生活の楽しい思い出、では必ずしもない。吉田権造にとっては地獄の責め苦。冬川夏子も赤瀬源平もそう。
 小学6年生では、まだ学校生活は続く。地獄は終わらない。

 バスは走る。
 冬川夏子は死人のように青ざめた顔で、大塚先生の向こうの席で固まっている。
 その姿を見て、権造はもうひとりの級友の姿を思い出していた。
 さらに三年前、小学3年生のときのことだった。

 金村雪子。
 彼女は突然、親の故郷である北朝鮮に帰ることになった。
 いつも汚い身なりだった。冬でも上着を着て学校に通ってくることはなかった。小柄で痩せていた。しかし、目鼻立ちはしっかりして、かわいい少女だった。
 権造の近所に家があった。幼い頃から、よく遊んだ。
 泥壁の掘っ立て小屋のような家に住んでいた。両親と弟の4人暮らし。その家は、昔は物置か何かに使われていたのかもしれない。
 雪子は明るく、勉強もできたため、クラスでイジメのようなことはなかった。快活で人気者でもあった。
 その子が、見たこともない祖国へ。

「なんで帰るんや」
「家族が帰るんやもん、しょうがない」
「また日本に帰ってくるんか」
「さあ、遠いさかいなあ」
「もう、会えへんかもしれへんなあ」
「これあげる」
「なんや」
「ビー玉。中にワッカのような模様があるやろ」
「けったいな模様や」
「けったいと違う、きれいな模様や」
「これ、おまえの大事なもんとちゃうの」
「国に帰ったら、もっときれいなビー玉いっぱいある。おかあちゃん、そうゆうてた」
「そんなええ国なんか」
「ええ国や。天国みたいにきれいで」
「ええなあ、そんな帰る国があって。ほな、ビー玉もろとく。そや、これおまえにやる」
 権造は、ポケットから椿の種で作った笛を取り出した。
「何、これ」
「笛や、こうやって鳴らす」
 口に当てて吹いた。ピーっと鳴ってまわりに響く。
「おおきい音やなあ」
「ええ音やろ。おれ作ったねん」
「ええ音やないわ、うるさいだけや」
「あかんか」
「いや、ゴンちゃんの作ったもんやったらもろとく」
「ほな、ビー玉と交換や」

 その翌日、金村雪子の最後の登校だった。
 クラス全員が20円ずつ出し、先生のお金を足して買ったオルゴールを記念に送った。確か4時間目の授業を送る会に変え、みんなでひとことずつ送別の言葉を言った。
 権造はビー玉のお礼を言いたかったが、それは口にできなかった。
「国に帰っても、こっちのこと忘れんと、手紙書いてください。ぼくらも書いて送ります」
 最後に金村雪子がしっかりと言った。
「みんなのことは忘れません。きっと手紙、たくさん書いて送ります。わたしもがんばりますので、皆さんもがんばって下さい」
 そのあと、先生がオルガンを弾き、みんなでホタルの光を歌った。
 雪子は翌日汽車で新潟に向かい、船で北朝鮮へ帰っていくのだと言う。
 権造は、周りの連中がみんな涙ぐんでいるのを見た。自分の目頭からも、なぜか涙が出てくるのを感じていた。

 それからひと月ほど経って、雪子からクラスのみんなに手紙が届いた。
「みなさん元気ですか。わたしも元気です。こちらの国の人はみんな元気です。日本もたのしかったけど、こちらはもっとたのしいです。また手紙をかきます」
 そんな文面だった。
 権造たちは返事を書いた。しかし、二度と返事が戻ってくることはなかった。

         (次回に続く)
 

吉田権造物語 4 修学旅行出発へ

2007-12-04 07:27:32 | 小説
 
 冬川夏子が、乗り物に乗る前に乗り物酔いで吐いてしまったことを、誰かが先生に連絡しに行ったようだ。担任の大塚真利子先生が慌てて駆けつけてきた。
「なによ、冬川さん、もうなの?」
「センセ、ごめん」
 うずくまってしょげ返る夏子に、大塚先生は冷たい。
「ほんとに困った子やなあ。乗る前に酔ってどうするんや。これから先が思いやられる。吉田君、ボーっとしとらんと、スコップはよ持ってきて。吐いたもん片付けるさかい」
 権造は、大塚先生の命令に素直に従った。相手は、自分の弱みを握っている。絶対に口にされてはならない秘密。
 校庭の掃除用具入れの中からスコップをもって戻ってくる。
「吉田君、あんた片付けとき」
「ええっ、ぼくが?」
「文句ないやろ、あんた」
 大塚先生は、権造をにらみつけて命令する。これも逆らえない。逆らってあのことが暴露されたら。
 吐瀉物をスコップですくい取り、校庭脇の草むらまで運んで捨てた。

 出発時間が近づく。
 全員が整列。
 校長先生の挨拶があった。
「ええ、いよいよ奈良京都への修学旅行、みんな楽しみやったと思うけど、はしゃぎすぎて事故がないように。先生のいうことをよく聞き、楽しい思い出の修学旅行にしてください。とくに、奈良では鹿をおちょくって噛み付かれたりせんように。旅館ではマクラ投げなんかして、ふすまを破ったりせんように、いいですか、わかりましたか」
 校長の話を聞きながら、権造は暗い気分がますます暗くなっていくのを感じた。
 そう、鹿に蹴られて死んでもいい。マクラ投げなんてやってられるか。
 夜は、地獄が待っている。遊んでなんておれないのだ。

 バスに全員が乗り込む。座席は修学旅行のしおりにあるとおりの指定席。
 乗り物酔いの冬川夏子は最前列の窓側の席。その隣の通路側が大塚先生。通路を挟んだもう一方の最前列が吉田権造と、なぜかクラス一の秀才で絵の上手な赤瀬源平だった。
 赤瀬源平は、権造の隣に座り黙りこくっている。心なしか顔色がさえない。そういえば、最近元気もなかった。
「ゲン、乗り物酔いすんの?」
「いや、せえへんけど。ゴンは?」
「せえへん。なんでおまえがこんなとこに」
「おまえこそ」
 短い会話。で、なんとなく気まずい沈黙が。
 その後ろでは、これからの楽しい旅行への期待やなんやかんやで喧騒の渦だと言うのに。

 もしかしたら、赤瀬も。と、権造は思った。だから元気がないのでは。クラスの人気者のはずなのに、こんな離れた席にいるのは変だ。
 その予想を決定的にしたのは、バスが動き出して大塚先生が小声で二人に話した言葉だ。
「あんたら、旅館ではみんなと別の部屋用意しとるさかい、心配せんでええで」
 権造はほっとした。赤瀬もほっとしたような顔をした。
 一方で愕然とした。他の連中と別行動をとるのだ。その理由が知られるかもしれない。が、こうなればなるようになるしかない。
 バスは出発する。バスガイドがリーダーになって、歌が始まる。
 そのはしゃぎまわる連中の沸き立つ気持ち。
 吉田権造と赤瀬源平は、哀しいほどカヤの外だった。

「ゴンも、夜、してしまうんか?」
「ああ、毎日ではないけど」
「おれも、毎日ではないけど、緊張してると漏らして」
「ゲンも、とは意外やなあ」
「治したいけどあかん。4年生のとき、あそこに輪ゴム巻いて、漏れへんようにしたことがあったけど、血い通わんようになって、ものすごう痛うなって、そのときは死ぬかと思った」
「あそこに輪ゴムか。おれは紐で縛ったことがある。けど、痛かったさかいゆるう縛ったんや。そしたら漏れてしもた」
「ゴンは、夢を見るか?」
「ああ、見る。夢の中で、いっつも火事が起きて、消さなあかん思うて、はっと気がついたら水浸しや」
「一緒やなあ。おれも夢の中で、火い消そうとおもて、気がついたらやってしもて」
「水道の蛇口みたいに、栓がでけたらええんやけど」
「そうやなあ、栓が欲しいなあ」
 
 余談である。
 とはいえ、この小説そのものが余談なのだが、吉田権造は成人してから都会へ出て、通勤にバスを使うようになった。そのバスで、運転手のこんな車内アナウンスが気になって仕方がないのだ。
「揺れますので、手すりつり革にオツカマリ下さい」
 このオツカマリのフレーズを聞くたびに、大塚真利子先生のことを思い出すのだ。だからなんだということだが。

           (次回に続く)
 

 

吉田権造物語 3 修学旅行

2007-12-03 14:57:54 | 小説
 というわけで、修学旅行の出発の朝、吉田権造は風呂場でからだの汚れを流し、新しいパンツを身につけた。
 半ズボンにシャツ。リュックには着替えやタオルやもろもろの持ち物。修学旅行のしおりに書かれた品物を、母親がしっかり用意してくれていた。
 ところで半ズボン、最近目にしなくなった。
 あれはどうしてだろう。
 権造が子供の頃は、小学生のあいだは半ズボン。それが普通。中学生になると長ズボンになった。それが成長の証しであり、半ズボンは小学生の証しでもあった。
 小学生の低学年では、半ズボンでしゃがむと、その腿の脇からちっぽけなチンチンが覗いている、なんてことがよくあった。それが皆無。
 あっても長めのファッショナブルな短パン。

 そういえば、スカート姿の女性も減った。幼稚園の送り迎えの若い母親は、ほとんどがジーパン。吉田権造の妻も、若くはないが冠婚葬祭以外でスカートを履くことはない。
 そういえば、そういえば、吉田権造の母親は、磯野フネさんのように和服を来ていることが多かった。昭和30年代。女性はまだ、和服が多かった。とくに地方の場合は。
 そういえば、磯野フネさんはどう考えてもワカメのお婆さんだ。今の時代では。だがそのアナクロがまた新しい。
 そういえば、磯野カツオも半ズボン。

 で、下剤で胃腸がすっきりした権造は、朝食にオムスビを1個に蒸したサツマイモを食べた。お茶を飲もうとすると、母親はきっぱり言った。
「お茶はやめとき」
 権造は首をかしげた。
 飲み物を口にするのは危ない。言われなくともわかっている。
 が、サツマイモは胸に焼けた。
「あのう、チョビットでもあかん?」
「あかん。水けを口にしたら、夜中に出る」
「口にしてないときかて、出ることあるでえ」
「口にしたらもっと出る。おまえのチンチンは壊れた蛇口みたいなもんや。今日と明日は我慢するんや。いちおうセンセには連絡しとるさかい」
「センセにゆうたんか」
「しおりに書いてあったやろ。オネショウの癖がある人はセンセに連絡するようにゆうて」
「センセ、知ってるのか」
「まあ、心配せんでええ、ゆうてくれはった。大丈夫やとは思うけど、水は我慢しい」
 吉田権造はまた落ち込んだ。
 担任の大塚真利子先生が、オネショウの癖を知っているわけだ。
 これは絶望的絶対的致命的な弱み。知られてはならないプライバシーの極致。
「何で、センセにそんなことを」
「そうかて、修学旅行でお漏らししたら大変やろ。センセがしっとるんやったら、何とかしてくれるさかい、それに、誰にも絶対にいわへんゆうてくれてる」
「ほんまに誰にもいわへんのやろな」
「大丈夫や」

 午前7時30分、学校に全員集合。クラスのみんなは、校庭に集まると、喜びはしゃぐものが多数。修学旅行にわくわく。
 しかし権造はどきどき。
 喜びの輪からぽつんと離れた連中も何人かいた。
 ひとりは冬川夏子だった。
 彼女の理由は明らか。乗り物酔いだ。これまで余りにもひどく、遠足のバス旅行も休んだほど。しかし修学旅行となると休めない。ということで来たようだが。
 権造は、うなだれている夏子に声をかけた。
「元気ないなあ、心配なんか?」
 蒼白な顔を上げてうなずく。
「うん」
「乗り物酔いが?」
「うん」
「揺れるのがあかんのか?」
「うん」
「なんで揺れたら酔っ払うんや」
「ううう」
「どうしたんや」
「想像しただけで、酔っ払ってきた、おえええっ」
 と、夏子は戻しそうな表情になり、ほんとうに勢いよくもどしてしまった。

         (次回に続く)
 

吉田権造物語 2 生い立ち1

2007-12-02 07:25:33 | 小説
    吉田権造物語 その2

 
 小学6年生にもなって夜尿症、なんてことが周りに知れると大変だ。級友の笑いものになる。イジメの標的になるのは間違いない。
 竹内憲太が知ったら、百パーセント大声ではやし立てる。

「ゴンゾー漏らした 寝小便
 旅館の布団が 大洪水
 畳の下まで ずぶぬれで
 金魚が三匹 泳いでる」

 憲太の囃し声が、権造の耳に聞こえるようだ。もう、学校にも行けなくなる。
 というようなことで、吉田権造は、修学旅行が近づくにつれ、陰鬱になってきた。
 何とかしなければならない。
 いろいろな考えが頭をよぎる。
 学校が火事になれば、修学旅行は中止にならないだろうか。
 いや、自宅が火事になれば、行かなくても済むかも知れない。
 しかし、火事なんてめったに起きるものではない。起こすためには、自分で火をつける。それしかない。
 放火。
 そんな勇気もないくせに、吉田権造は、燃え上がる自宅を夢想する。
 火事。燃えさかる炎。逃げ惑う親兄弟。
 と、もう駄目だ。その夜は、自宅が火事になった夢を見てしまう。慌てて火を消そうとして、気がついた時には布団の上にたっぷり放水してしまったあと。
 絶望の上塗り。

 で、容赦なく近づく修学旅行出発の日。
 そうだ、病気になればよいのだ。
 吉田権造は、また考えた。
 しかし、病気と言うものは、罹りたいと思って発病するものではない。
 それに、どんな病気になればよいのだ。
 11歳の少年がまず考えたのは風邪だ。風邪なら誰でもよく罹る。
 ところが、風邪はいつでもひけるものではない。原因がある。例えば寝冷え。
 そう、寝冷えだ。それなら風邪をひける。
 と考え、布団をかけずに寝た。
 で、夜中にまた夢を見てしまった。寒さに凍える夢。
 何とか暖をとろうと、焚き火をしたら、その火がめらめらと燃え上がり、大きな火事に。慌てて消そうとして懸命になり、勢いよく放水開始。目が覚めたら布団はまたぐっしょり。むろん風邪なんかひかない。
 
 修学旅行の前日になっても、吉田権造はまな板の鯉になれなかった。
 おなかをこわせば行かなくてもよいだろう。
 が、これもなかなか難しい。
 食あたりや下痢は、思わぬときにやってくるもの。
 そういえば、以前に母親に飲まされたひまし油が、薬箱にあったはず。
 権造は探し、見つけた。
 それを飲んだ。うかつにも寝る前に。
 で、あとは推して知るべし。
 修学旅行当日の朝だと言うのに、寝小便ならまだしも、布団は寝下痢便まみれで目を覚ましてしまった。悪臭と絶望の目覚め。
 母親の悲しげに引きつった顔。兄や姉の嘲笑。排泄物でべっとりの自分のお尻とパンツ、そして布団。
 こんなありさまで、修学旅行に出かけることになるなんて。

         (次の更新に続く)

 

 
 
   

吉田権造物語 プロローグ

2007-12-01 09:59:38 | 小説
   プロローグ

 いつか書いて見たかった物語。吉田権造の生い立ちと考えを綴った小説だ。
 私小説ではない。
 むしろ詩小説。
 詩のような小説。
 美しいではないか。
 が、それは書き手の私の妄想。現実はそんなに美しくない。文も美しくない。思いついたまま、物語を構築していく。それが、この物語。

 吉田権造、58歳。
 まだ一度も定職を持ったことのないフリーターである。
 以前は、文筆業を名乗ったこともあった。しかし、せいぜいパンフレットの宣伝文句や三流雑誌の無署名のコラムを書く程度。職業と呼ぶにはおこがましく、むろんそれで生計が立つわけがなかった。
 カメラマンを名乗ったこともあった。中古のニコンFで、下請けの補助の仕事を請け負ったことがあったが、カメラが壊れ、修理費もままならずにカメラマンを廃業した。
 ほかにも建築現場の作業員、映画助監督、交通整理のガードマン、映像の構成者、トラックの運転手、学習塾の臨時講師など、様々な仕事をこなしてきた。
 たいした収入もなく、何とか子ども二人を育てあげたが、いまだに借家住まい。蓄えなど皆無に近く、老後に希望はなかった。

 そんなときに、思わぬ話が舞い込んできた。
 吉田権造が以前仕事を手伝ったことのある会社の経営者が、うちの会社に来てくれないか、と言うのだ。その会社は、若手がほとんど。社員をまとめ、業務を仕切る、一定の年齢の人間が欲しいとのこと。
 定年間近の年齢の男を、新しく雇うという酔狂な考えの裏に、何かがあるような気もするが、安定した収入も魅力だ。
 で、迷いが生じる。
 迷い。
 その最大のものが、彼の60歳寿命説。
 彼は60歳で人は死ぬべき、との考えを以前から抱くようになっていた。
 動物のほとんどは、出産し、子育てができない年齢になれば寿命が尽きる。人間だけが、子育てを終え、それからもだらだらと生き続ける動物。なんだかみすぼらしく思えるのだ。認知症や寝たきりになっても生き続ける命。死にかかっても、何とか延命するための治療が施され、なかなか終わらない命。それが耐えられなかった。
 が、安定した収入は、その考えというか、60歳で命を終える決意が鈍ってくるような気がするのだ。

 筆者の私は、吉田権造を60歳で死なせたくない。そのためにも就職して欲しい。
 しかし、就職とはどういうことなのか、考え始めると悩ましい。
 また寿命ということ、生きるということを深く考えはじめると、さらに悩ましい。私の頭では考察不能の世界。
 ということで、吉田権造の生涯をたどり、その考え方にふれることで、もろもろの問題を探れればと思う。
 まあ、どのようにこの小説が展開していくか不明で、いつまで続くかも怪しいが、読んでいただければ幸いだ。更新は不定期。毎回1千字前後と考えているが、初回は少し長めに。


  生い立ち

 吉田権造は、兵庫県の山の中の小さな町の小さな商店の三男として生まれた。
 父親は吉田鉄太郎。戦時中は徴用で九州の炭鉱で働いていたが、終戦で帰郷、小間物を商う商店を始めた。
 とはいえもののない時代。汽車で大阪まで出かけ、背中にいっぱい買い込んだ荷物を背負って帰り、小さな店で商いをした。
 母親はマツ。戦時中は長男、次男、長女の三人の子どもを連れ、実家に戻っていたが、父親の帰郷後は一緒に暮らし、店を助けた。
 もののない時代であり、仕入れれば何でも売れた。

 そんな暮らしの中で、権造は成長していく。
 幼児期から少年期にかけての記憶は、成人し、あるいは老いても鮮明に残っていたりする。とくに辛かった思い出。
 権造の最大の記憶は、寝小便のこと。
 夜尿の習慣と言うか性癖と言うか、これはなかなか治らなかった。小学校の4年生頃まではほぼ毎晩のように漏らした。親は心配し、お灸をすえたり、せんじ薬を飲まされたりしたが、効果はなかった。中学生の頃まで時々漏らし、高校生になってようやく漏らさなくなった。
 とはいえ完全ではなかった。成人してからも、深酒のあとに何度か寝小便を漏らしている。大人になってからの寝小便は、量も多く匂いもきつい。そのときの布団は廃棄してしまった。

 小学6年生のとき、京都奈良への二泊三日の修学旅行があった。このときは、旅館に宿泊することになる。旧友と同じ部屋に寝なければならない。それは権造にとって恐怖以外のなにものでもなかった。

                  (つづく)

人身事故が今日も電車を止める

2007-11-28 07:08:41 | 小説
山手線一時運転見合わせ 新宿駅で人身事故(朝日新聞) - goo ニュース

 人身事故。聞くたびに心が痛む。
 で、以前書き、このブログにも載せた小説ではあるがじゃっかんリメイクでアップ。
 今朝方、新宿駅で起きた事故にやるせない気持ち、追悼の気持ちをこめてのこの小説、まだの方はぜひ一読を。

 
   靴

 誰だって、自分の靴に一度や二度、痛い思いをさせられた経験があるはずだ。靴擦れをこしらえて歩けなくなったり、階段を踏み外して足をくじいたり、ぬかるみに足をとられてころんだり……。
 靴ってやつは、いっけん従順そうだが、実は信用ならない。性格がひん曲がっていたり、嫉妬深かったりする。それを忘れていると、思わぬ痛い目にあう。
 私も何度か煮え湯を飲まされてきた。しかし、喉元過ぎれば何とかで、時がたてばつい油断してしまう。自分の足は、靴の動きを制御できると思い込みがちだ。ところがどっこい、従順そうな仮面の後ろに、とんでもない素顔が隠されていたりする。それが靴というものだ。

 白い革靴……。
 新宿の伊勢丹で買ったイタリア製のその靴が、私のいちばんのお気に入りだった。値は張ったが、価格に見合う履き心地だった。水虫の棲む私の足を快く迎え入れてくれたし、立ちっ放しの大学での講義の間も、足が重くなることはなかった。公園の散歩や美術館へ出かける時も、ためらうことなくその靴を履いた。まさに身体の一部のように馴染んでいた靴だ。
 だが、しょせん靴である。死ぬ気で惚れた女でも、結婚して毎日顔をつきあわせていると、他に目移りするようになる。
 銀座のワシントン靴店のショーウインドーで、英国製の黒い革靴を見つけた時がそうだった。私の目は、靴の発する強烈なオーラに惹きつけられ、欲しくてたまらなくなった。
 店員にその靴を出してもらって、触ったり匂いを嗅いだり頬ずりをしてみたりした。じっさいに履いてみて、その感触を確かめてもみた。外国製品のもつアクの強い匂いはなかった。意外に軽く、革が柔らかい。肌触りもしなやかだった。偏平足ぎみの私の足にぴったりフィットした。
 値は、白い靴の二倍も高かったが、躊躇せずに買った。以来、スーツを着ての外出や、大学での講義などでは、その黒い靴を履くようになった。
 白い靴は、あおりを食って下駄箱の住民となった。むろん忘れてしまったわけではない。公園の散歩や近所での買い物程度の外出には履こうと考えていたが、たまたま多忙で、そんな機会がなかっただけだ。

 ひと月あまりたって、ようやく散歩に出かけたくなるような心のゆとりができた。外出にはもってこいの好天。私は、白い靴を履いて近所の公園にでかけることにした。
 下駄箱から取り出すと、いくぶん黴臭かった。革の持つ独特の生気も失われていた。手早く磨いて靴に活力を与え、いつものように、右足から突っ込んだ。足の先端やかかとに多少の違和感があったが、気に留めるほどではない。
 季節は秋。暑くも寒くもなく、風も穏やか。絶好の散歩日和。
 いつもの散歩コースをたどった。
 自宅からのんびり歩いて五分ほどで公園に着く。芝生や花壇のあいだを散策路が続く。その小道を、スキップを踏むような軽い足取りで歩いた。
 前方からベビーカーに赤ちゃんを乗せた若い母親が近づいてきた。やわらかい陽射しを浴びて、スローモーション画像のようにゆったりとした足取りで。
 絵に描いたように幸せそうな母子。ミニのスカートにルーズソックスを履けば、女子高生で十分に通用する幼い母親。プリンのように瑞々しい頬の張り。ゴム毬のように柔らかそうな胸の膨らみ。子どもを産んだにしては引き締まった腰のくびれ。
 不謹慎にも私は、その若い母親が母親になるために男と共にした行為を想像してしまった。裸体の股間に深々と突き刺さった一物。目を閉じ、口を半ば開き、よだれを流しながら喜悦の声をあげる女……。
 その時だ。私の足元を、えも言われぬ感触が襲った。

 ぐにゅっ……。

 靴底がその物体を捉えた瞬間、見なくともわかった。あの弾力。あの大きさ。ほのかに立ちのぼる臭気。まぎれもなく、犬によって仕掛けられた糞地雷だった。しかも、排泄して間もない柔らかなものである。
「ううっ……」
 私は、破裂した風船のように絶望的な気分になった。
 若い母親に、足元で起きた事態を悟られてはならない。私は、さりげなく口笛を吹きながら、フンのへばりついた靴底を草で拭った。しかし、窪みに深く食いこんだ粘着物は、簡単には取れない。
 行く手には、池に流れ注ぐ人工せせらぎがあった。私は、これ幸いとばかり水辺に降りた。ちょうど靴底がつかるほどの深さだった。
 足を突っ込み、流れの底の砂利でこすりながらかき回した。それを数回くり返したのち、靴底の状況を確かめた。黄色い粘着物は、跡形もなく取れていた。
 犬の糞を放置したままの飼い主なんて許せない。絶対に許してはならない。こいつが最低の飼い主だという写真入りポスターを町中に貼りまくってやりたい気分だ。糞をしたカス犬は、毒入りのドッグフードで、もちろん抹殺。
 だが、それよりもさらに悪いのは白い靴だ。靴の目線は低い。目の前の糞に気づいていたはずだ。にもかかわらず踏んづけるという主人への背信行為は、断じて許せない。
 もう散歩はおしまいだ。こんな不快な気分を味わうのなら、白い靴のことを気にかけて散歩になんて出かけるのじゃなかった。
 次の瞬間、その後悔が決定的なものになった。
 せせらぎから上がろうとして、私は、流れの中の石に足をかけた。
 石の上は、水苔にびっしり覆われていた。水苔と靴底は相性が悪い。靴は、見事に滑った。私は宙を舞い、水の中に尻餅をついてしまった。派手な水しぶきが上がった。
 散策路にいた連中は、私を見て吹き出した。いかにも軽蔑の笑い。いい歳の男がなんてザマだ。他人の笑いものになる屈辱。臀部をびしょ濡れにして恥をさらし、すごすごと尾羽うち枯らして帰っていく惨めさ。

 私は、白い靴の行為に我慢ならなかった。私が大枚をはたいて買ってやった靴である。それなのに、これほどの大恥をかかせるなんて。なんて恩知らずなやつだ。
 自宅に戻った私は、靴にお仕置きをしてやった。箒の柄による鞭打ち二十回の刑だ。手加減せず、思いっきり引っぱたいた。むろん、靴は抵抗しなかった。抵抗できっこなかった。たっぷり懲らしめたあと、また下駄箱の奥に放り込んだ。
 その時、廃棄してしまえばよかった。しかし、心の底のどこかに愛着があった。何しろ一時期はいちばんに可愛がってやっていた靴だ。これだけ罰を加えれば、反省するであろうという甘い読みもあったのだ。

 それからはまた黒い靴を履く生活となった。同時に、なぜか私の心を異様な虚しさが覆うようになった。生きていることへの、深くて暗い虚しさである。いったいこの空虚な気分はどうしたことだろう。

 大学での身分の不満が根底にあったのかもしれない。五十の歳を迎えるのに、まだ講師のままである。教授とまではいかなくても、せめて助教授に昇格してもいい年齢だ。論文だって、そこそこのものを書いているのに、一向に認めてはくれない。
 授業のことを思うと、さらに陰鬱になる。学生たちは、私の講義なんか聞いていない。平気で私語を交わすし、携帯電話の不快な着メロがしょっちゅう鳴り響く。文句を言うと、不貞腐れて教室を出ていく。受講する学生の数が減れば、大学側の評価も低くなる。私はじっと堪え、学生の眠りや私語を妨げないように静かに講義を続ける。
 だいたい、私の教えている日本古代の法制史など、今の学生に興味があるはずがない。律令制度が解かって、今の社会にどんな役が立つというのだ。とくに私の教える三流大学の学生には、百パーセント無意味な授業と確信できる。何か途方もない時間の浪費を続けているような気がする。それでも大学に行かねばならない。私自身が食うために。そうなのだ、学生に教えることよりも、私自身が生活するための授業でしかないのだ。

 日々虚しさがつのる。このままで老いていいのだろうか。食うためだけの学問。学生に教える意味。考えれば考えるほど落ち込み、さらに虚しさがつのっていく。
 気分を変えてみようと思い、もう一度白い靴を履いてみた。白い靴を履いていた頃の方が、私の心の状態は健康的であったような気もしたからだ。
 下駄箱の奥から白い靴を取り出した。黴臭いだけでなく、実際に黴が生えていた。よく拭き取り、クリームを丹念に塗った。足をつっこんでみる。懐かしい履き心地である。
 その日、授業は一コマ目からだった。朝のラッシュ時の電車は大嫌いだ。しかし、仕事とあればでかけねばならない。
 家から駅までは、徒歩十五分。重い気分を引きずりながら歩いた。
 ホームにのぼり、電車を待った。間もなく満員電車がやってくる。その電車を待つ行為がたまらなく虚しい。
 みんな、同じように待つ。能面のように表情もなく待つ。何も疑うことなく満員電車に乗り込むのだ。横にいるのはどんな相手か分からないまま肌を密着させて。かわいい女子高生と中年の口の臭い変質者も、ぴったりと身体を寄せ合って。便秘女も、胃下垂男も、ハゲもデブもアル中も……。
 私は、嫌になった。こんな生活は、もうやめたい。おしまいにしたい。
 電車はやって来る。乗り込めば、また大学に行くことになる。くだらない授業をして、学生どもの眠気を誘うだけだ。電車になんて乗り込みたくない。にもかかわらず、ひたひたと近づいて来る。
 構内放送が続く……。
「渋谷行きの電車がまいります。白線の内側にお下がりください……」
 電車が見えてきた。
 そうだ。もし今、線路に向かってジャンプすれば、何もかも終えることができるのだ。この嫌な気分から開放される。たったそれだけで、万事解決だ。なんて簡単な話だ。そう思った時、私の足は、ひとりでに線路へ向かった。
 躊躇することなく、飛び跳ねるような軽やかな足の動き。二歩、三歩、四歩……、それーっ。
 ホームの端からジャンプした。
 私をめがけて、電車はまっしぐらに突っ込んで来た。警笛と急ブレーキの金属音が、あたりの空気を引き裂く。駅のホームでは、人々の叫び声がする。
 これでいいんだ、これで。すべてが終わってくれる。
 その時だった。足先から沸き上がる不気味な含み笑いの声を聞いたのは。
『クツクツクツクツ……』
 その声で、私の身に起きた事態を了解した。次の瞬間、身体は電車と激突した。そして、意識は消滅した。

                 おしまい

禁断の愛の時代

2007-10-16 17:40:55 | 小説
「恋愛感情抱き、誘拐認識ない」容疑者 長崎の小6誘拐(朝日新聞) - goo ニュース

 これは過去にアップした掌編。
 どうせ、いい加減なブログ小説、と言うことで、若干リニューアルしてアップ。
 まあ、禁断の愛に興味があり、ごっそり時間のある方は読んでください。


   結婚

 娘のサオリは、来月の三日で二十三歳になる。
 親の私が言うのもなんだけど、子どもの頃から可愛かった。近所のハナタレガキとは月とスッポン、エメラルドとアヒルの糞ほどの違いがあった。
 その可愛さは、短大に入り化粧をするようになって、妖艶な美貌へと変わった。さらにだ、卒業してアパレル関係の仕事に就いたことで、服装や化粧にいっそうの磨きがかかり、今では、職業は女優、と言っても十分通るほどの美人になっていた。
 それにしても、ほんとうに早いものだ。
 早すぎる。
 抱っこして頬ずりしたり、風呂にいっしょに入って全身をくまなく洗ってやったりしたのが、ついこのあいだのことのように思う。女房に代わっておむつを替えてやったことも一度や二度ではない。尻に付いたウンコを、ウェットティッシュできれいにぬぐってやったこともある。爛れたときにはパウダーを付けてやったりした。その同じサオリが、今では風呂場はおろか、一人で部屋にいる姿すら覗かせてくれない。
 同じサオリだと言うのに。
 父親としては、寂しいかぎりだ。さらに辛いのは、そろそろ結婚の年頃をむかえていることだ。

 結婚!   

 そうなのだ。結婚し、見ず知らずの男と一緒になるのだ。
 最近は結婚をしない女が増えているらしい。結婚できなかった結果としてシングルでい続けているのかもしれないが、ともかく一人でいる女が多い。そういう連中が、どんな人生を送ろうと知ったことではない。
 しかし、自分の娘のこととなると違う。一生結婚できないのも親としては困る。結婚はすべきだ。かと言って結婚すれば、寝室で二人っきり。サオリは、あられもない恰好で見知らぬ男に抱かれることになる。それを考え出すと、脳味噌がぐしゃぐしゃになりそうだ。
 娘の結婚は定めである、と自分に言い聞かせてはいた。いつ打ち明けられてもうろたえたりしない覚悟だけはしておこうと考えていた。いい父親でありたかった。
 しかしである、ものには限度というものがある。その話を聞いたときだけは、さすがの私も耳を疑ってしまった。

「あたし、ジョージさんと結婚したいの」
 サオリは、さりげない口調で切り出した。
『結婚』という言葉に、一瞬ギクッとしたが、心の動揺をカモフラージュするため、口笛でも吹くような軽い調子で聞き返した。
「な、な、なーんだ、おまえ、もう好きな男がいたのか、はっはっはっ……。で、そのジョージさんって、会社の同僚かなんかかい?」
「いやだ、お父さん、会ったことあるじゃない。男は品格が勝負だ、あれはなかなか鼻筋の通ったしっかりした顔つきしているって言ってたでしょう?」
「そんな男、いたっけ?」
「このまえ、ペットショップに行ったときのことよ。覚えていない?」
「ペットショップ?」
 そう言えば、ひと月ほど前の日曜日、妻と娘のお供をしてニュータウンのデパートへ出かけた。その帰り、ペットショップへ立ち寄った。あの時のことだろうか。
 我々に応対してくれた店員の顔を思い浮かべてみた。目の細い四十才前後の男だったように記憶している。美人のサオリとは明らかに不釣り合いな貧相な男だった。他にはサオリと釣り合いのとれる品格ある男は、あの店にはいなかったはずだ。
「ほら、あたしがじっと立ち止まって話しこんでいたじゃない」
 娘が長く立ち止まっていた場所というと、子犬のケージの前だ。犬になにやら盛んに話しかけていた。
 そう言えば、犬のことをたしかジョージと呼んでいたような気がしたが……。
「おまえ、まさか、あの子犬……?」
「そうよ、大当たり。ラブラドールレトリバーのジョージさんよ」
「おいおい、あれは犬だよ」
 私は目を丸くした。
「もちろん犬よ。変なお父さんねえ。ブタとかゾウとかと間違えっこないでしょう」
 娘は、平然と言い放った。
「変なのはおまえだろう。ばかなこと言って、お父さんをからかうものじゃない」
「からかってなんかいないわ。本気よ。あたし、ジョージさんに恋してしまったの。彼のことを思うと、切なくて切なくて夜も眠れなくなるわ。ああ、ジョージさんに会いたい」
「本当に本気で、あの犬と……」
「こんな大事なこと、冗談で言うわけないでしょう。彼って、優しくって、賢くって、あたしを心から愛してくれているのよ。もう、離れられない関係なの」
「か、関係? あんな子犬と?」
「強く強く抱き合って、うっとりするような熱い口づけを三回も四回も五回も……」
「おまえ、いったい……」
「あたし、彼に身も心も、何もかもぜえーんぶ捧げてしまいたい感じなの」
「だ、だ、だいたいだね、人間が犬となんか結婚できるわけがないだろう」
「どうしてよ?」
「どうしてって、そういうものなんだ。常識だよ。昔から決まりきったことだよ」
「だれが決めたのよ?」
「そんなの知るか」
「法律はないんでしょう。犬と人間の結婚はいけないって言う」
「法律以前のこと、常識だよ、常識」
「愛があれば、いいじゃん。昔の常識が、今じゃ非常識ってこと、たくさんあるもの」
「だいいち、あの犬、生まれてまだ一、二カ月の子どもじゃないか」
「歳の差なんて、愛に関係ないでしょう」
「そもそも犬と人間じゃ、子どもができないし……」
「子どもができないと、どうして駄目なのよ。世の中には、子どもの出来ない夫婦って、いっぱいいるじゃないの」
「あれは、結果としてできないだけで、最初からできないと予測していたわけじゃない。そうさ、それだよ。子孫を残すために、一緒になる。それが結婚の大前提になっているんだ」
「違うわ。愛しているから結婚するのよ。子どもは目的ではなくて、たまたま愛が育んだ結果なの。愛の結晶よ。でも、時代は変わっているわ。最近は、犬との結婚がトレンディーなのよ。犬だけじゃないわ。ニワトリやヒキガエルと結婚したりする人もいるくらいなんだから」
「まさか?」
「ほら、犬を散歩させている人たちを見ていると、人前で平気に抱き合ったり、唇と舌をからめ合わせたりしてるじゃない。あんなこと、深い肉体関係がないと、できっこないでしょう」
「あれは、ただじゃれあっているような気がするが……」
「遅れてるわねえ。なんて世間知らずなの、お父さんって。バス停の横の渡辺さんちに、クッキーって名の犬がいるでしょう。あの犬は、じつは娘さんの理恵子さんのご主人なのよ。田中さんちのリリーだって、息子さんの奥さんだし」
 サオリが奇怪しくなったのか、それとも私が変なのか……。
 我が子が奇怪しくなったとは思いたくない。私の脳味噌も具合は良好のはずだ。
 とすれば……。
 そう、サオリの言っていることが正しいことになる。まさか、とは思うが、そのまさかが起こりうるのが現実だ。
 冷静に考えてみた。娘の言葉にも一理はあるような気がしてくる。
 そうなのだ。昔は人間どうしでさえ、家柄がどうのこうのと煩くて、だれとでも自由に結婚できなかった。我々の世代になってようやく、好きな相手と抵抗なく結婚できるようになった。最近はさらに進んで、種の違いさえ結婚の障害にならなくなったと言うことだろうか。
 考えてみれば、愛してもいない相手と、濃厚な抱擁や接吻なんてできるものではない。娘の言葉通り、世の中は変わって来ているのかもしれない。
 確かに常識は、時代によって変わる。自然科学の世界でも、大昔は天動説が常識だったが、今では地動説が常識だ。ヒトは神によって造られたものではなく、混沌の地球に生まれた微生物が進化したもの、との考えも常識になっている。同様に、種を越えた結婚が、新たな常識になりつつあるのなら、娘の意思をおおいに尊重すべきだ。
「もうお母さんには話したかい?」
「お母さんは、お父さんの言いなりになるわよ。ねえ、一生のお願い。あたしとジョージさんの仲を認めて」
 私は、娘に甘くて弱い。結婚という人生の最大のイベントに際しても、理解のある父親であり続けたかった。
 娘の将来のことも考えてみた。犬は、主人に対してきわめて従順な動物である。酒におぼれたり、賭け事にうつつを抜かしたりしない。暴力をふるったり、浮気をして妻を泣かせたりもしない。金を稼ぐのは難しいかもしれないが、火達磨になるような借金を抱えることもない。犬の餌代程度は、サオリの給料でもなんとかなる。と、考えていくと、犬といっしょになった方が幸せを掴めそうな気がする。世間が、犬と人間の結婚を認めているのなら、なんら問題にならないではないか。なによりもまず、我が家を出て行かなくてすむのだ。
「わかった。おまえが幸せになるのなら、お母さんとも相談して見よう」
「わあーっ、ありがとう。さすがお父さんだわ」
 娘は飛び上がって私に抱きついてきた。柔らかい乳房の膨らみが私の胸に押しつけられ、思わず頬が赤くなるのを感じた。娘がたまらなく可愛い。これほど喜ぶのなら、親として思いを叶えてやるほかない。

 翌日、私は妻といっしょにペットショップへ出かけた。相手の意思も確かめねばならない。とりあえずは、ジョージさんに挨拶だ。
 ジョージさんのケージに近づくと、嬉しそうに鼻を鳴らして尻尾を振った。私たちの迎えを喜んでいるようだ。
 妻は、目を細めて私に言った。
「性格もよさそうね、ハンサムで優しそうだし。さすがにあの子が見立てただけあるわ」
 だが私は、あらためて不安を感じた。犬の姿を目の当たりにしてみると、やはりしっくり来ない。変なのだ。私が古い人間だからなのだろうか。
「どうもおかしいなあ。おれはこの犬のお義父さんになるわけだよな。おまえはお義母さんになるんだぜ」
「わたしたちの場合、まだ身近な哺乳類だからいいわ。武田さんの奥さんなんか、息子さんが、ナマズと結婚するって言い出したときは心臓が口から飛び出すほど驚いたと言うわ。息子さんは、湖で出会ったナマズにひと目惚れしたのですって。それに比べれば、犬のお義母さんなんて、同じ哺乳類だもの戸惑うほどじゃないわ」
「しかし、すっきりしないなあ、この姿、なんだか……」
「何よ、その煮え切らない態度」
「犬って、いつも全裸だぜ」
「そりゃ、犬なんですもの、洋服着たって似合わないわ」
「散歩には、チンチンぶらぶらさせたまま出かけるんだぞ」
「そんなこと、別に……」
「ときおり、片足上げて、電柱や街路樹におしっこをひっかけたりもするんだ」
「癖だと思えば、許せる範囲のことよ」
「そんな開放的というか、傍若無人というか、犬の野放図な生活態度に、あのわがままな子がついていけるだろうか?」
「将来のことより、大切なのは今の気持ちよ。嫌になれば、離婚すれば済むことでしょう」
「離婚?」
「そうよ。犬が相手なら、役所へ届けることも慰謝料もいらないのよ。子どもの養育費の問題もないんだもの。気にいらなくなれば、ただ別れるだけ。それですべて解決よ。人間どうしだと、そうはいかないでしょう。親戚付き合いや世間体なんかもあるし」
「そういえばそうだけど」
「サオリには、お似合いの相手じゃない。わたし、ようくわかるのよ」
「犬と結婚した方が幸せになるってことがかい?」
「あの子のためにはね。わたしたちだって、なんだかんだ言いながら、ずるずると二十五年も我慢して結婚生活を続けてきたわけじゃない。もしあなたが犬だったら、わたしなんか、もうとっくに……」

〔付記〕
 統計によると、異種動物間の結婚は、二十年ほど前から年々増え続けている。最近の日本人の出生率の低下には、この非生殖異種間結婚の増加が大きな要因となっているという説が有力だ。
 従来なかった婚姻関係によって、人と動物との幸福な家庭が、多数誕生しているのは事実である。反面、離婚による悲劇もあとを絶たない。昨年一年間に人間側から一方的に離縁された犬は、全国で二十万頭とも三十万頭とも言われている。ほとんどは、新たな結婚相手が見つからないまま、各自治体の手によって殺処分る。その死体の一部は、密かに食肉業者に買い取られ、ハンバーガーや餃子の材料として利用されているとの噂があるが、実態は深い謎に包まれている。

           オワリだ

峠 ワルの美学

2007-10-13 08:19:34 | 小説
 のさばるワルは嫌いだが、虐げられたワルは好きだ。
 相撲取りでは、朝青龍が大嫌いだったが、今年の夏にパッシングの嵐を受けるようになって好きになった。
 亀田兄弟もそう。おとといの試合を見るまで、こんな奴がテレビに出ること自体おかしいと思っていた。が、相手をぶん投げるような反則技までして惨敗し、罵声を浴びながら引き上げていく姿を見て好きになった。どうもおいらの脳みそは、他の人間と反応が異なっているようだ。
 まあいい。ということで、以前書いた悪がきのハードボイルド調掌編を一発。
 おいらの従来のトーンとは異なる小説。
 まあ、これも虫干し。亀田兄弟に捧げる。


  峠

 ラジオの天気予報は、大雪警報が発令されたことを告げていた。今夜から明朝にかけて猛烈な吹雪が続くらしい。
 ドライブインの親父は、俺の食いおわった食器をカウンターの奥へ押しやりながら、峠越えなんて無謀なことはよせと諌めた。
「……おめえのように気の短けえドライバーが、毎年一人か二人、あの峠で車ごと雪に埋もれて凍死してやがる。今夜のような大雪の日にかぎってな」
「俺は、無茶はしねえよ」
 どうせどこかにトラックを停め、一晩を過ごさなきゃならない。同じなら、峠に近い方がいいと考えていただけだ。翌朝、除雪車が入って通行可能になれば、一番に峠越えができる。
「荷は急ぎかい?」
「急ぎじゃねえけど、ちょっと訳ありで、早く帰りてえんだ」
「女でもできたのか?」
「ああ、腹ん中にはガキまでな。じつは明後日、女の実家に挨拶に行く予定なのさ」
「道理で光った顔してると思ったぜ。暴走族の悪餓鬼も変わったもんよなあ」
 そう言えば、もう七年になる。俺が頭だったゾクの仲間が、二十台のバイクでこのレストランの駐車場に集結したとき、親父はたった一人で仁王立ちになり、俺たちを叩き出そうとした。
 俺は、でかい態度をとるオトナが大嫌いだった。腕っぷしには自信があった。親父を血祭りにあげて仲間にいいところを見せようと思い、サシで勝負を挑んだ。親父は受けた。
 図体がでかいだけの中年男だとたかをくくっていたのが甘かった。親父は強かった。強すぎた。俺は、完璧にぶちのめされた。あとで知ったことだが、親父は前頭まで上った相撲取りだった。かなうはずがない。
 以来、ダチになり、暴走族から足を洗って長距離のステアリングを握るようになってからも、近くに来れば必ず立ち寄った。
「そうだ、おめえにプレゼントをやろう」
 親父は、直径五センチほどの黒くて丸い石ころを、ズボンのポケットから取り出した。
「なんだね、これ」
「カチ石ってんだ。これを持ってれば、勝負に勝ち、おのれに克てる。苦境に立った時には、きっとこいつが役にたつぜ。おめえの人生はまだ長いんだから、持ってるがいい」
「あんたの大事なものじゃないかい」
「人生で勝負することのなくなったわしには、もう用のないものさ」
 俺は、お守りや呪いのたぐいを、一切信じない。だが、親父の好意を無にしたくなかった。
「ありがとよ。結婚式をやることになったら、親父も呼ぶからな。じゃあ」
 俺は、竜の刺繍の入ったジャンパーを羽織った。
 店のドアを押し開けると、地吹雪の粉末が顔面に突き刺さった。
「ちくしょう、冷えてやがる」
 トラックまで、突っ走った。
 運転席に乗り込みキーを差し込む。まずはヒーター全開だ。
 ヘッドライトを点けた。ワイパーは軋みながらフロントガラスの雪を払いのけた。
 前方の光の先に女が立っていた。一瞬目を疑った。コートのフードで頭がすっぽり隠れ、顔つきはよくわからないが、歳は若そうだ。吹雪の真夜中に、女がたった一人でいるなんて、全くどうかしている。
 窓を明け、女に向かって叫んだ。
「どうしたんだ、こんな時間に」
 女は、問いには答えず叫び返した。
「このトラック、峠越えすんの?」
「ああ、そのつもりだ」
「乗っけてくんない?」
「この雪では、越えられるかどうかわかんねえぞ。それでもいいのかよう」
「いいわ」
「じゃあ、乗んな」
 俺は、助手席の方へ身体を伸ばし、ドアを開けてやった。

 女は、慣れた身のこなしで助手席によじ登った。身体についた粉雪が舞い散る。
 席に腰を下ろして、フードを脱ぎ、長いさらさらとした髪をかきあげた。肌は雪のように白い。瞳が大きく、唇は薄くて小さい。まるで日本人形を思わせる美人だ。
「ありがとう」
 ルームライトの下で、女は小さく微笑んだ。
「峠の向こうに帰るのかい?」
「まあね」
「家へ帰るんじゃねえのか?」
「さあ、どうかしら」
「どうかしらはねえだろう。変なやつだなあ。まあいいや、出発するぞ」
 ギアを入れ、アクセルを踏んだ。
 ふだんは夜中でも交通量の多い国道だが、さすがにこの大雪では走る車は少ない。
「おまえ、名前はなんてんだ?」
「ユキ。あんたは?」
「俺はジロー。おまえ、まだ未成年だろう」
「十七」
「若いなあ、おれより、八つも下じゃねえか。高校生?」
「ユキノセイよ」
「えっ? なんだって?」
「なんでもないわ」
「それにしても、エアコン、効かねえなあ」
 エアコンの温度は、二十七度まで設定を上げたが、いっこうに暖かくならない。外気が冷え込んでいるためだろうか。

 峠に近づくにつれ、吹雪は激しさを増した。民家はもう二キロほど前から途絶え、楢の木の樹林帯へさしかかっている。視界は、二十メートルとない。轍は雪で埋まり、路肩の判別ができなくなった。
「ちくしょう、轍がわかんねえや」
 俺は、ハザードを点けてトラックを停めた。
「どうしたの? もう進まないの」
「この先は無理だよ。しょうがねえ。天気の回復と除雪車待ちだ。焼酎でもやっか。おまえもどうだ?」
 座席の後ろからボトルを出した。小型冷蔵庫には、氷とサワーが入っている。ポットには湯も入っている。
「ううん、いらない」
「未成年だからって、遠慮することはねえ。あったまるぜ」
「お酒、好きじゃないの。それよりも、怖い話をしようかしら?」
 女は、俺を舐めるように見つめながら言った。
「怖い話って?」
「もうずいぶん前のことよ。この道で、わたしと同い年の少女の凍死体が見つかったことがあるの。雪の日の朝にね」
「へえーっ」
「少女は、前の晩、ヒッチハイクでトラックに乗ったんだけど、運転手に無理矢理犯されたの。そして、雪の降る峠道に放り出され、寒さに震えながら死んだってわけ。どう、可哀相でしょう」
「べつに。自業自得さ」
「違うわ。悪いのは運転手よ。決まってるじゃないの。少女は運転手を憎んだわ。憎しみのあまり成仏できなくて、少女は雪女になったってわけ。そして、トラックが来ると乗せてもらい、運転手を誘惑するの。抱かれると、身体の熱をぜーんぶ吸い取って凍死させるのよ。それが、雪女になった少女の男への復讐なの。怖いと思わない?」
 俺は、超能力もオカルトも全く信じない。妖怪や幽霊のたぐいなんて、もってのほかだ。
「マンガみたいな話はよせ。その雪女が、自分だとでも言うのかい?」
「そうよ、おお当たり。どう、雪女のわたしを抱いてみる勇気、ない?」
「相手が違うぜ。俺には女がいるし、間もなく生まれるガキもいる。抱いてもらうのは、おまえが好きになった男だけにしろ」

 俺は人並みに女好きだった。まして美人とあれば、据膳をむさぼり食うのは当然のことと心得ていた。誘われて断るような気障ったらしい性分でもない。だが、奇妙なことに、女を抱く気はまったく起きなかった。間もなく父親になるという自覚が、性格を変えたのかもしれない。
「変な人……」
「変なのは、おまえさ。俺は人に説教たれる柄じゃねえけど、節操だけは大切にしろよ。それにしても、このエアコン、ちっとも効かねえと思わないか?」
「べつに」
「それならいいが、朝まで長い。ひと眠りしときな。俺は焼酎の湯割を一杯やって、あったまって眠るから」
「ねえ、あんた、わたしのこと、本当に抱いてみたいって思わないの?」
「しつこいなあ。俺は、そういう男じゃねえって言ってるだろう」
「わたしのこと、かわいくない?」
「かわいいとかブスだとか、そんな問題じゃねえ。その気にならねえだけだよ」
「セックスしなくてもいいわ。ただ抱くだけで……」
 少女は、俺に身体を寄せようとした。俺は少女の肩を邪険に押し返した。
「いいかげんにしろ。俺は寝るぜ」
 焼酎を一気にあおってグラスを置き、毛布を上体にかけた。
「おまえも、毛布を使うんだったら、後ろにあるからな」
「あんたって、変わってるわ。初めてよ、あたしを抱こうとしない男なんて。わたし、もう降りる」
「降りるって、ここは山ん中だぜ。こんなところで外へ出たら、凍え死んじゃうぞ」
「死なないわよ。わたし、雪女だもの」
「まだそんなばかなことを言ってんのか。どうかしてるぜ」
「あんたは立派よ。いいカモだと思って乗ったけど、負けたわ。あんたは、きっといいお父さんになると思う。悔しいけど。じゃあね、次の助平なカモを探すから」
 女は、そう言ってドアを開けた。
 俺は、引き止めるために手を伸ばそうとした。しかし、金縛りにあったように身体が動かない。女は吹き込んで来た粉雪とともに、闇の中へ溶けるように消えてしまった。
 ドアが風で押されて閉まった。
 金縛りが解けると、女の座っていた席を触ってみた。その場所だけが、氷のように冷たく濡れていた。
 あいつは、本物の雪女だったのだろうか。
 効きの悪かったエアコンは、急に熱い空気を吐き出しはじめた。
 俺は、ふとドライブインの親父からもらった黒いカチ石のことを思い出し、ポケットから取り出してみた。それは、まるで雪のように真っ白く変色していた。
   
              おわりだ

林檎

2007-10-10 07:47:06 | 小説
 またもや小説の虫干し。こうやってブログに発表してしまうと、ひとつの踏ん切りが。まあ、これももう少し書き直したいところだけど。


   林檎

 クライアントの無理難題とマシンのトラブルで、予定よりも大幅に仕事が手間取ってしまった。またもや朝帰り。俺の勤務時間は、収拾がつかないほどずたずたになっている。
 帰宅すると、妻の百合子はすでに出社したあと。ここのところ何日か、携帯メールのやり取りだけで、顔を合わせていないし言葉も交わしていない。こんな生活で、夫婦と呼べるのかどうかわからないが、何とか一緒のマンションに暮らしているし、離婚話もいまのところ持ち上がってはいない。そもそもそんな会話をかわす時間もないのだが。
 まあいい。互いの生活は、侵すことなく守られているのだから。
 それにしても、毎日がげんなりするような仕事の山。今どきどっさり仕事があるのは贅沢な話だが、売り上げそのものは伸びていない。当然、サービス残業で給料には反映していない。睡眠時間は、毎日二、三時間。疲れは日々溜まっていく。今日だって、夕方から会議だ。昼すぎには出社して、レジュメを作成しなければならない。それまで三時間ほど仮眠ができるだけだ。

 浴室でシャワーを浴びた。熱めの湯で、全身を一気に洗ってしまう。垢や脂分がすっかり落ちて、身も軽くなった気分がする。
 バスタオルを巻いてダイニングへ。
 テーブルの上のバスケットに、リンゴがのっていた。傍らには宅配便のラベルのついたダンボールがある。長野の百合子の実家から、また送られてきたようだ。
 俺はリンゴが大好きだ。百合子の実家でも、そのことを知っていて、毎年送ってくる。
 リンゴには気品がある。果物の王者だと、俺は常々思っている。まず匂いがいい。リンゴの匂いを嗅ぐだけで、気分がすっきりしてくる。
 さらに、「林檎」という字が簡単に書けないのがいい。パソコンだとすぐに出てくるが、手書きだと、俺には書けない。自慢にはならないが「葡萄」も書けない。「栗」、「梨」、「苺」、「西瓜」、「桃」などは書ける。「蜜柑」も怪しいがなんとか書ける。だが、リンゴとブドウは難しい。それだけで恐れ入りましたということになる。
 形のいいリンゴだった。サンフジ独特の霜降り艶消しのような表面の色合いがいい。
 ちょうどシャワー上がりに喉を潤したいところでもある。二個のリンゴをよく洗った。
 皿の上に乗っけて、包丁を出した。
 とりたてて言うほどのことでもないが、リンゴの皮の剥き方には大きく二つの方法がある。丸のままぐるぐると回しながら剥いていく方法と、先に二つにカットしてから剥く方法だ。俺は、いつも半分にカットしてから剥く。特に理由はない。昔からそうしてきただけのこと。
 まな板の上にリンゴの上芯を上に向けて置いた。左手をあてがう。右手に持った包丁で真上から切ろうとした。その時だ。
「やめて」
 手の下でリンゴが叫んだ。
 たしかに、そうしゃべった。
 俺は、思わず手を退いた。
 一瞬、事態が理解できなかった。しゃべったのは、ラジオでも九官鳥でもない。リンゴである。リンゴは木から落ちることがあっても、口をきいたりしない。それはニュートンが万有引力の法則を発見する以前からのまぎれもない事実だ。
 何者かがそばでしゃべったのを聞き違えたのかと思い、まわりを見回した。むろん誰もいない。
 耳の錯覚なのだろうか。リンゴは口をきくはずがないのだ、と自分に言い聞かせ、もう一度手を伸ばした。
 しかし錯覚ではなかった。
「やめて……」
 やはり聞こえた。コンピューター処理されたような声だが、はっきり聞き取れた。
 絶対にあり得ないことだ。俺の頭がどうかなったのだろうか。
 リンゴには口がない。口のない果実はしゃべるわけがない。しゃべれないリンゴの声が聞こえるわけがないではないか。幻聴なのだ。幻聴であれば、無視しても平気だ。いや、無視すべきだ。
 俺はリンゴを強く掴んだ。だが、リンゴは叫ぶことを止めなかった。
「いやあー、放して……」
 絶対に幻聴である。本当は聞こえてはいない。
 かまわずに包丁を振りかざした。
「切らないで、お願い! 助けて! きっと後悔するわよ」
 リンゴは喋っていないんだ。幻聴に惑わされてはならない。
「やめてーっ……」
 と叫ぶリンゴの声を無視して、俺は真っ二つにぶった切った。
「ギャーッ、痛いわ……、痛い……」
 皮をひん剥いた。剥いている間、リンゴは切ない声で訴え続けた。
「ああ、止めて、痛い……」
 これも幻聴だ。夢まぼろしだ。聞こえるはずがないのだ。食ってやる。胃袋に放り込んでしまえばこっちのものだ。
 剥き終えたリンゴをさらに半分に切り、中の芯を切り取った。四切れになったリンゴを皿の上に乗せた。
「痛い、痛いわ」
「苦しい、もう駄目」
「駄目よ、ああ、助けて」
「ああ、もういや」
 四切れのリンゴが、口々に言葉を発する。
 俺は、委細かまわず口を鰐のように大きく開いた。そしてかぶりついた。
「ああー……、いやー、やめてーっ……」
 やかましいやい。俺んちに送られてきたリンゴだ。俺には食う権利がある。黙れ、黙れ、つべこべ言うな。
 力いっぱいに激しく咀嚼した。腹の中で粉々になってしまえば、幻聴だろうと何だろうとおしまいだ。
「ああ……、ああ……」
 口の中に放り込むと、リンゴの声は力を失ってかすれていき、やがて聞こえなくなった。
 俺は、四切れすべてを平らげてしまった。味は紛れもなくリンゴであった。
 食べ終え、朝刊に目を落としていると、真綿の池に落ち込むような奇妙な眠気を感じた。そのまま溶けるように眠りこんでしまった。

 どれくらい時間が経ったであろうか、目を覚ますと、妻の百合子が俺を見下ろしていた。百合子と俺の間には、包丁の刃が鈍い輝きを放っている。
 事態を飲み込むのに時間はかからなかった。俺のいるのはまな板の上。つまり俺はリンゴになっていたのだ。
 百合子は、手を伸ばしてきた。俺は思わず叫んだ。
「おい、百合子、俺だよ」
 百合子は驚いた様子で手を引いた。
「何よ、このリンゴ。嘘でしょう」
 声が聞こえたようだ。しかし、声は電気的な加工を施したように変質している。おそらく俺の声とは気付かないだろう。
「嘘じゃないよ、俺がリンゴになってしまったんだ」
「わーっ、これ、絶対に幻聴だわ。わたし、疲れているのかしら。そうよ、疲れすぎているのよ」
 俺がリンゴになったのが幻覚でないなら、百合子の聞いた声は幻聴ではない。だが、俺がしゃべっていることそのものが幻覚であれば、俺はリンゴになっておらず、百合子が聞いた声も幻聴なのではないか。しかしもし、俺がリンゴになっているのが現実であるとすれば。
「待ってくれ、君の耳に聞こえているなら、幻聴じゃないかもしれない。とりあえず、切るのは待ってくれ。俺を切らないでくれ」
 そうなのだ。幻覚や幻聴でないとするなら、切られると再びもとの肉体に戻ることができなくなるかもしれない。マイナス掛けるマイナスがプラスになるように、幻覚掛ける幻聴は現実、という可能性だって十分ある。
「何をごちゃごちゃ言ってんのよ。いえ、あなたが言ってるのではなく、聞こえているだけなのよね。ばかばかしくって話にならないわ」
 百合子の左手は、俺を強く掴んだ。まな板の上に置き、ナイフの刃先を俺の頭にあてがった。
「俺だって信じられない。こんなこと、ありえないはずなのに、起きてしまっているんだ。だから待ってくれ」
「ああ、いや。こんな幻覚、もう真っ平。あなたなんて、どうなってもいい。そうなのよ。頭から真っ二つに切ってやるわ」
「よしてくれ。考えようよ、俺が元の身体に戻れるための方法を。俺は、君のこと、愛しているんだよ」
「愛してるだって。こんなどさくさにまぎれて口にするなんて、卑劣よ。そうだわ、わたしの壊れた期待が、こんな無残な幻覚になって現れたのね。でもわたしの愛なんて、もうとっくに冷めているわ。終わりにしたかったのよ、実は。今、はっきりとわかったわ」
「これは、幻覚じゃないかもしれないんだ。そうだよ、現実なんだよ。だんだん確信してきた。俺は本当にリンゴになってしまったんだ」
「それならますます好都合よ。あなたなんてもう要らない。だからもう、ひと思いにおしまいにしてあげる」
 百合子は、左手をナイフの背にあてがい、両手で上から一気に力を入れた。
「よしてくれ。助けてくれ。ああ、痛い、痛い、ギャーッ」
 俺は絶叫した。身体は真っ二つになった。

「何よ、このリンゴ、中は鬆だらけじゃないの。あーあ、外見だけで中身がなってないのは、あの人とそっくり」
 百合子は、俺を台所の生ゴミの袋に、憎々しげに放り込んだ。
 腐ったキュウリや黴の生えたパンが、迷惑そうに俺から顔をそむけた。

          終わりだぜ、あ~あ。
 
         

様々な死の風景

2007-10-09 05:30:18 | 小説
 
 このところ、死にまつわる事件や事象の書き込みをする機会が増えている。
 自分自身、年齢が死に近づいてきたせいなのか。
 と言うことで、これも極めつけ、死をテーマに書いたもの。
 とはいえ、他の掌編とはちょっと違う手法。
 これも、もっと手を加えたいのだが、虫干しをしておこうと思って今回アップ。


    花火

 (ドーン)
 ほうら、また上がったぞ。大きいなあ、あれは。
 わあーっ、開いた、開いた。なんてあざやかな変化菊だ。あの見事な光の輪……。
 なに、よく見えないって?
 ようし、お父さんが肩車をしてやろう。
 よいしょっと。これでどうだい。よく見えるようになったろう。しっかり両手で頭に掴まっていなよ。
 (ドーン、ドーン)
 またでっかいのが上がったぞー。今度は何かな。
 おおーっ、さざ波菊だ。たまんないなあ、あの小さな星の光……。びびっと電気が走りやがる、頭の先から足の先まで。
 あれはきっと、信州の島岡煙火店が得意の十号変芯さざ波菊だな。いやあーっ、さすがにほれぼれする職人技だ。

 おまえのお祖父さんも、花火が大好きだった。お父さんはね、子供の頃、お祖父さんに連れられ、何度も何度も花火見物にでかけたものよ。おまえと同じように肩車もよくしてもらったなあ。
 お祖父さんはね、よく言ってたよ、花火は一瞬が勝負だってね。花火は、火がつき、空を彩って、すぐに消えてしまう。その後には、なにも残らない。ただ暗闇があるだけ。しかしね、目に焼きついた光は、見る者の心の奥にも深く焼きつくものなんだ。だからこそ、花火師は命懸けで素晴らしい花火を作ろうとするし、見物人は食い入るように見て、心を打たれる、というようなことをね。
 一瞬の光が放つ張りつめた世界は、ビデオや写真に撮っても、絶対に花火師のこころいきまで写し取ることはできない。そんなふうにも、お祖父さんは言ってたなあ。
 そのお祖父さんが亡くなったのは、五年前のちょうど今日だった。
 (ドーン)
 お祖父さんはね、すっかり身体が弱って、病院のベッドで寝たきりだった。自分でウンチはできないし、食べ物も喉からは入らなくなっていた。体に入るのは点滴だけ。そんな状態が、一週間も続いていたんだ。
 あれは花火大会の三日ほど前のことだった。お父さんが病院へ見舞いに行くと、お医者さんは、こう言った。
「あと四、五日も、体力はもたないかもしれませんね」と。
 お祖父さんの身体はすっかり痩せ細って、骨の上に薄っぺらな皮膚がへばりついているだけって感じだった。手足は、もうほとんど動かなくなっていたしね。
 ベッドの脇で看病してても、うつらうつらと居眠りしていることが多かった。話しかけると、一言ふた言は答えるんだけど、その声は弱々しく、いつの間にか目を閉じて寝息をたてていたりした。息をするのも苦しそうだったし、もう長い命でないことはよく分かった。
 でも、頭はぼけてはいなかった。意識はしっかりしていて、目が覚めると、必ずこう漏らした。
「ああ……、もう一度花火を見てえなあ……、花火を見て死にてえなあ……」
 できるものなら、お祖父さんのその願いをかなえてやりたかった。
 担当のお医者さんに相談してみたんだ。花火を見せに出かけることができるかどうかって。お医者さんは、そっけなく、無理だと言ったよ。車での移動に耐えられる体力は、もうないというのだね。
 だけど、お祖父さんにしてみれば、花火を見ることができれば、死んでも本望だったはずだ。家族のみんなも、そう思った。このまま安静にしていたにしても、ほんの何日か寿命が延びるだけの話だ。
 院長先生にも、家族の気持ちを強く訴えてみた。その気持ちが伝わったのか、しばらく考えこんだあと、私が付いて行こうと言って下さった。
「医者は、ただやみくもに患者の寿命を長びかせればいい、というものではありませんからね。その人らしい命の終わりを、しっかりと看取るのも、医者の大切な役目だと思いま
すし……」
 院長先生のこの時の言葉を聞いて、世界一の名医に思えたね。
 さっそくお父さんは、花火見物の準備にとりかかった。ストレッチャーの運べるレンタカーを手配したり、花火のよく見える、このすぐ上の駐車場を予約したり。
 もうひとつの大きな問題は、お祖父さんの命が花火大会までもつかどうかだった。なんとか元気づけて、命の炎を燃やしつづけておいて欲しかった。
「明日の花火大会、お祖父さんもいっしょに行くからね」
「そうか、花火か……、連れてってくれるのか……」
 お祖父さんに言うと、わずかに目を明け、頷きながら声を漏らした。その表情は、とても嬉しそうだった。
「だから、元気になってね……」
「……」
 お祖父さんは、分かったというふうに、小さく口もとを動かした。

 花火の当日は、天気が心配だった。雨のときは、一週間の延期になると決まっていたからだ。そんなに長く、お祖父さんの命が持つ保証はない。
 さいわい、家族の願いが通じたのか、翌日は朝から快晴だった。
「さあ、いよいよ車で出かけるからね。ちょっと苦しいかもしれないけど、少しの間だから我慢してね」
 と、お祖父さんに言うと、
「花火……、ああ、花火……、ありがとうよ、花火が見られるなんて……」
 と、かすれた小さな声で答え、家族のみんなに笑顔を見せようとした。入れ歯のはずれた口元を、ヒョットコのように歪めることしかできないんだけれど、お祖父さんの嬉しい気持ちはよくわかった。
 お父さんや、その時お腹の大きかったお母さん、おまえの叔母さん夫婦なんかが手伝って、点滴の器具をつけたまま、お祖父さんをストレッチャーに移した。そして、病人搬送用のワゴンのレンタカーに、静かに静かに注意しながら乗せた。
 運転したのはお父さんだ。この時は、できるだけ揺れないように、ゆっくり慎重に走ったよ。お祖父さんの横には、院長先生が付いていて下さったから、本当に心強かった。
 花火大会はすごい人出だった。海岸も、海に近い公園も、人でいっぱいだった。ちょうど今日のようにね。
 予約しておいた駐車場に車を入れると、海側の窓を開けた。ストレッチャーの背を少し起こして、お祖父さんにも花火がよく見えるようにした。
 ドーンドーンと大きな音をひびかせ、大輪の花が真っ暗な空に浮かび上がった。派手なスターマインや千輪菊も、次々と打ち上がった。
 花火が開くたびに、お祖父さんの顔が薄明るく照らしだされた。その表情は、とっても穏やかで、口元は、いつもにっこりと微笑んでいるように見えた。
「どう? 花火、よく見える?」
 そう聞くと、
「ああ、きれいだね……、よく見える、赤い冠菊が、あざやかに見える……」
 消えそうな声だけど、お祖父さんは、はっきりと言った。目は衰えていて、本当は花火の形なんて見えなかったはずだ。でもね、ドーンと車の窓まで揺るがすほどの音は、じゅうぶんに聞き取れたはずだ。それに、お祖父さんの心の中では、昔見たたくさんの花火と重なって、光の帯のひとつひとつまでくっきりと見えていたのかもしれない。大好きだった大輪の冠菊の花が、空いっぱいに広がり、花弁が海面へ落ちていくのも……。
 それからも、何発か、大きな花火が、夜空に赤や青や黄色の花を咲かせた。八重芯の変化菊やさざ波千輪、牡丹ものなどが開くたびに、歓声と拍手がそこいら中からまきおこった。それは、花火が大好きで、誰よりも花火のことをよく知っていたお祖父さんの長い人生への拍手のような気がしたんだ。
 最後のスターマインが打ち上がり、花火大会の終了を告げるアナウンスが流れた。お父さんたちは、我にかえって、お祖父さんの様子を見た。その時だった。脈をとっていた院
長先生は、家族のみんなを見まわしたあと、小さく頷いた。そして、ぽつんと言った。
「ご臨終です」
 お祖父さんは、静かに息を引き取っていた。たくさんの光、たくさんの音、大勢の人たちの拍手や歓声に包まれながらね。それはそれは、何か楽しい夢を見ているように安らかな表情だった。

 おまえが生まれたのは、その三か月あとだった。お祖父さんの生まれ変わりのようにして、お母さんのおなかの中から、勢いよく飛び出してきたんだ。
 (ドドドーン)
 あれから、もう五年……。早いなあ。
 (ドーン)
 あっ、また上がった。今度は大きいぞ。尺玉の冠菊のようだぞ。
 (ドォーン)
 わーっ、はじけた。やっぱり冠菊だ。紅芯の銀冠菊……。
 きれいだなあ。なんて鮮やかな色だ。
 お祖父さんの大好きだった、あの糸を引く光。おお、長いぞ。
 光が海に落ちていく。
 ああ、もう消えていく……。

                おわり