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ブログ小説 過去の鳥

淡々と進む時間は、真っ青な心を飲み込む

朝青龍よ、くじけるな

2007-08-18 20:17:37 | 朝青龍問題
朝青龍が治療開始、担当医は“第4の医師”高木氏(サンケイスポーツ) - goo ニュース

1文字5円、卒論に代行業者…大学は「見つけたら除籍」(読売新聞) - goo ニュース

 良く似た話があるものだ。
 国技の横綱のなり手がいないため、窮余の策で外国人を横綱に。
 ところが、この品性が良くなくて、いろいろと問題を。
 で、その責任を、横綱に押し付け、
 外国人を寄せ集めて奇怪な国技を作り出した相撲協会はすっとぼけ。

 ただの興業師に過ぎない相撲協会こそ諸悪の根源であるのに、
 すべて朝青龍に責任を押し付ける愚かさ。

 相撲協会の手口と、
 卒論の代行は同じ土俵。
 卒論の出来が悪くて、がたがた言うな。
 
 それにしても、より大きな悪を叩かず
 小さな悪を叩いて、
 正義だと勘違いしている連中の多いこと。

 おいらは別に朝青龍が好きではなかったが、
 こうも叩かれていると、応援したくなる。
 朝青龍は問題があるかもしれないが、
 それ以上に気分の悪いのは、
 彼への攻撃や悪意に満ちた言説の多さ。

 相撲は、もう国技で無い。
 あんなに外国人ばかりそろえ、国技だなんて笑止。
 ただの興業、プロレスと同じなのだ。
 おいらは、極端に言えば八百長があったって仕方ないと思う。
 何しろ、相撲協会が力士不足を
 完全に文化も信仰も習俗も異なる外国人で補ってきたのだから。

 祭礼の神事として神々に奉納してきた日本人の相撲を
 完全に冒涜してきたのは、相撲協会なのだ。
 相撲協会に、遊牧民族の朝青龍の処分を下す資格なんぞない。

 と、かつての相撲ファンだったおいらは
 大きな声で叫びたい。

 また、朝青龍にくじけるなと言いたい。
 もし、うつ病なら、励ましの言葉は禁物ではあるが、
 あんたは遊牧民だ。
 苦境に立っても、屈しないだろう。
 そう、草原をかけるモンゴル人のアイデンティティーは失うべきではない。

 と、今は一杯気分で書いている。
 もう1本、あけるか。
 

朝青龍の問題の背景2

2007-08-13 07:57:11 | 朝青龍問題
朝青龍に「ピンチヒッター」医師(日刊スポーツ) - goo ニュース

 朝青龍の問題が尾を引いている。おおむね彼に批判的な意見。ブログなどをみると、罵倒する文言があふれている。
 例えば「きっこの日記」の論調はこうだ。
 無断引用するな、とか書いてあるので、一応、ここで引用させていただいたことを断っておく。きっこさん、お断りしましたよ。
 
「最近、何よりもウザイのが、来る日も来る日もテレビで報じてる朝青龍の問題だ。あんなもん、ほっときゃいいのに、何でみんな、まるで腫れ物にさわるみたいに、朝青龍のゴキゲン取りなんかしてんの? モンゴルに帰りたいって言ってんなら、帰してやればいいじゃん。もちろん、お相撲は引退させた上で。それで、お相撲を続けたいって言うんなら、相撲協会が出したペナルティーをちゃんと受けて、それからがんばればいいじゃん。ただそれだけのことなのに、まるで「少年法」で保護されてるクソガキや、「精神鑑定」で頭のおかしい人のフリをして罪を逃れようとする犯罪者みたいなマネをして、みっともないったりゃありゃしない。」

 おおむね、これに似た論調。相撲協会の非を訴える人間はほとんどいない。
 そもそもの間違いは、相撲協会にあるのだ。朝青龍は相撲とりである。力士は決して豊かな知性が求められるものではない。まず強いことなのだ。その点を、おいらの友人の石川史雄さんは主張する。

 で、先日、電話での彼の話を、ブログにアップしたわけだが、まだ言い足りないことがあるから、と電話をかけてきた。まあ、きっこの日記にもあるように、いい加減食傷気味の話だが、石川さんの言葉だし、あえてアップすることに。

「で、言い足りないことはなんです?」
「極論すれば、相撲は強ければよいと言うことです。考えてもみてください。力士に頭のよさそうな連中はいますか」
「それは言いすぎですよ」
「いや、誤解を恐れずに言えば、頭は必要ないのです。稽古して飯をドンドン食って昼寝して太って、上の言うことを聞く。それが相撲取りの一般的な姿なのです。我慢と辛抱、それに稽古、従順かつ太ること。そんな中で、朝青龍は自分を強く表面に出す力士だったのです。それは個性です。個性的な人格を認められない相撲の世界では異質になります」

 と、石川さんの言葉は以下のように続く。

 朝青龍のような力士は過去にもいました。例えば千代の富士や北の海、さらに大鵬。みんな傲慢で、露見すれば顰蹙を買うようなことを何度も経験しているはずです。相撲協会の北の海理事長だって、朝青龍に強くいえない脛の傷があるはずです。
 でも、強い横綱は許されていた。若手へのリンチまがいの鉄拳制裁も、強姦としかいえないような破廉恥な行為さえも許されてきた。
 ところが、朝青龍の場合、行儀の悪さ、態度のふてぶてしさが喧伝され、悪役としての印象が強く植え付けられていった。ささいなことでも、横綱審議会とかいう老人団体の小言を浴びせられたりしていた。僕には、そんな姿に、相撲の退廃を見るんです。
 相撲は強ければテッペンに立ち、好き勝手なことがある程度許される。それでいいと思うのです。相撲取りになる連中の知的レベルにあわせたもので十分で、心・技・体なんてどうのこうの言ったっておもしろくないです。
 それにもっとも醜いのは、いわば年金生活者の相撲協会の親方連中です。
 強い力士を部屋に持つことで実入りも増えてきます。なんとしても、強い力士が欲しい。しかし、日本にはこんな前近代的な世界に入ろうとする若者がいない。育てるのも面倒くさい。
 で、なりふりかまわず外国人を集めてくる。それで一山当てれば部屋が潤う。その結果外人依存がすすみ、幕内の上位も外国人だらけ。入門する外国人にしても、格闘技で得られる収入としては大きい。体力のある連中には美味しいビジネスだ。相撲協会、部屋、外国人力士の思惑が合致し、いびつな形での現在の相撲が形作られている。
 これが果たして国技だなんていえるのだろうか。国技だなんて本気で考えている奴がいるとすれば、頭がおかしい。僕は相撲が好きだ。だが、権益にしがみついて、やたら国技であることを主張する相撲協会は大嫌いだ。

 石川さんの言葉はヒートアップする。
 相撲人気の凋落はこれからもすすむだろう。その予感は、相撲をほとんどみないおいらにもある。

朝青龍の問題の背景

2007-08-08 07:58:08 | 朝青龍問題
朝青龍「急性ストレス障害」帰国必要…高砂親方が会見(夕刊フジ) - goo ニュース

 おいらは最近の相撲が嫌いである。ほとんど見ない。おもしろく無いからだ。
 昔はおもしろかった。変な相撲取りがいっぱいいた。けたぐりの名人、内掛けの名人がいた。相撲がどう展開するか分からず、緊張感があった。
「待った」もよくあって、肩すかしを食らうこともしばしばだった。緊張の糸が切れ、ずっこけた気分を味わうのも、相撲の醍醐味だった。
 最近は、なぜかおもしろくない。本当におもしろくない。それはなぜなのか。
 また、朝青龍をめぐる様々な論議の背景に何があるのか。
 おいらのバードウオッチングの仲間で、相撲通の石川史雄さんに電話で聞いてみた。石川さんは、某大学で日本の近世史を教えており、相撲の歴史にも詳しい。

「ということで、相撲がちっともおもしろくなくなったのはなぜですかね」
「そりゃ、もうはっきりしています。最大のがんは相撲協会です。さらに言えば、その背後の横綱審議委員会。この二つによって、相撲はつまらなくなっていると言えるでしょうね」
「どういうことです?」
「最近、相撲は国技だから、礼が大切だとか、心・技・体がどうのとか、やかましいじゃないですか。あんなのがうるさくなったのは、せいぜい元栃錦の春日野親方や元若乃花のニ子山親方が理事長の時代。さらに言えば、北の海親方が理事長になってからと言っていい」

 と、石川さんは以下のような話をしてくれた。

 もともと相撲は見世物だったのです。いわば、闘犬や闘鶏、闘牛と同じ様なもので、金満家や大名などがひいきにしている力士を闘わせ、楽しんだもの。それともうひとつ、全国の神社祭礼などで、奉納相撲がよく行なわれていました。氏神様の前で相撲を興じる姿を見ていただき、村人とともに楽しんでもらって、1年の無事を願う、という願いを込めたもので、祭礼で演じる芸能などと同じ意味があったのですね。
 相撲は、近世までは見世物であって、スポーツではなかった。まして国技なんて畏れ多いことを口に出せるものではなかった。
 その相撲の地位を飛躍的に高めたのは、明治時代の横綱常陸山です。彼が相撲道などと言うものを広め、これまでの見世物からスポーツに地位を高めました。から歌舞伎に地位が高まったのにも似ています。
 しかし、戦後に相撲協会が誕生し、相撲が法人化された組織内のスポーツとなるまでは、倫理だのなんだのとうるさくありませんでした。常陸山だって、私生活は滅茶苦茶で、全国各地に女を作り、生まれた子どもは自分でも把握できていない、という破天荒さ。さらに公私混同ははなはだしく、義兄弟の杯を交わした広瀬中佐を追悼のため、大相撲の一行を旅順に引き連れ慰霊の相撲を奉納したりしています。そう、日露戦争の英雄とされる広瀬中佐です。
 まあ、そういうことで、相撲は地位を高めていったわけですが、まだまだマイナーなスポーツでした。それを一躍メジャーに押し上げたのが、テレビの普及です。
 相撲は15日制となり、場所も増えました。で、親方の権益も増えました。
 そうした中で、昭和39年、高見山が外国人力士としてはじめて入門します。で、ある程度の成功を収め、外国人が次々と入門するようになりました。小錦、曙、武蔵丸のように成功をおさめるものもいれば、挫折し帰国するものも大勢いました。トンガからはブームのように来たことも。
 彼らは、何を求めてきたのでしょう。決して相撲道を求めてきたわけではありません。まず大きいのは収入です。いわば出稼ぎです。
 また、彼らを呼んだ相撲部屋はどんな思惑があったのでしょう。
 外国人を入れるようになったのは、日本国内に相撲取りになろうという若者が減ったことです。その理由ははっきりしています。今の時代に、相撲への魅力がまったくなくなっているからです。小うるさい相撲道を云々したり、根性だとか我慢なんて言葉が飛び交っているようでは、ますます新弟子は減っていくでしょう。部屋ぐるみの鉄拳制裁で死んだ若者もいますが、その処分は曖昧です。このような恐ろしい世界に飛び込む連中は、国内ではよほどの事情を抱えている者しか考えにくい時代になっています。
 一方で、強い力士が部屋に増えると、実入りが大きくなります。部屋を存続するため、どんどん外国から新弟子をかき集めるようになり、今や外国人力士のいない部屋の方が珍しいのが現状です。
 彼らはまったく文化の異質な世界に育っています。それを認めずに、日本の文化、それも、作られた相撲道と言う前近代的な文化を押し付ける異様さはなんでしょう。あきらかに変です。
 世論の多くが、朝青龍を非難しています。しかし、それはお門違いと言うもの。相撲協会が相撲取りの員数を確保するために、安易に外国人をかき集めている現実こそ大きな間違いなのだ。大相撲は、外国人を入れたことで、変質しなければならない。それをますます窮屈な型にはめ込もうとすること自体不自然。
 破天荒な相撲取りがいても良いでは無いか。「待った」を10回やっても、その駆け引きがおもしろければいいし、時間前の仕切りで立ってもいい。昔、先代の若乃花や栃錦は変化する相撲もよくあった。なぜ、朝青龍のけたぐりがいけないんだ。
 相撲協会は狂っている。あいつらが、日本の相撲を台無しにしてるんだ。こんちくしょうめ。それに迎合したファンもどきの奴ら。俺はそう言うのが大嫌いだ。
 相撲は日本人のスポーツだ。外国人を入れるなら、ちょんまげは止せ。露鵬のちょんまげなんて、漫画だぜ。

 と、石川さんの言葉は次第にヒートアップ。しまいには、電話の向こうで罵詈雑言の絶叫がはじまった。これ以上は差しさわりがあるので、割愛させていただいた。
 おいらも、石川さんの言葉にある程度納得している。
 一番心配なのは朝青龍の健康状態だ。ストレスはうつ病にすすむこともある。彼は仮病を使って巡業をサボった。それは組織内ではいけないことかもしれない。が、あの常陸山でさえ、巡業中の神戸から脱走して女と遊んでいた、という話もある。その程度、多めに見てよいのではないか。
 もし四面楚歌のままで孤立すれば、相撲生命だけでなく、生命のほうも心配しなければならない。自業自得という人もいるが、責任は相撲協会にもあるし、たとえ自業自得でも、相撲協会はそれを守り救ってやる組織でなければならない。それの欠けた相撲協会は、既得権益に甘んじて改革をなおざりにしており、おいらとしては「喝」の10連発を送りたい。
 話は飛ぶが、おいらが大好きだった桂枝雀師匠は、うつ病で首を吊って亡くなった。
 朝青龍の健康の回復を祈る。

爆走朝青龍

2007-08-02 20:50:09 | 朝青龍問題
「甘い」!横綱の処分にファン不満(スポーツニッポン) - goo ニュース
 
 モンゴルロシア ウクライナ
 外人ごろごろ 大相撲
 黒海バルトに 琴欧州
 これで国技か なんじゃいな

 朝青龍が 仮病だと
 相撲協会 ぶちきれて
 出場停止が ふた場所と
 なってのんびり 休養よ

 朝青龍は 朝青龍
 それが持ち味 いいじゃない
 相撲に礼儀や 作法など
 云々するが おこがましい

 相撲協会 自らが
 文化の違う 外人を
 力士にさせる 大間違い
 どこが国技か 噴飯よ

 国技でないのに 国技だと
 金髪なのに 髷を結い
 はっきりグロの 大相撲
 この退廃を 生んだのは

 そう、相撲協会なのだ。

 朝青龍のちょんまげ姿はまだいい。琴欧州や黒海なんて、どう見てもグロテスク。
 相撲協会は、国技がどうのこうのという問題よりも、銭儲けにしか頭が向かっていない。だからあんなことになったのだ。
 本当に国技だと考えているのなら、神前に文化や信仰の異なる外国人の異様な姿をさらけ出すなんて神様に対して失礼な発想は生まれない。相撲協会は、神を冒涜していることになる。
 ということで、相撲は、決して国技ではない。