「以前、千歌音に言ったけれど、わたしは夜、夢は見ないの。でも、一度だけ、おかしな夢を見たのよ。それはね…」
姫子がついと顔を近づけてきた。
いつのまにか、千歌音は大樹を背中にして迫られている。
こういう場面は、昔、読んだ少女雑誌の中にあっただろうか、そのとき少女は初々しくもどんな心もちで待ち構えていただろうか、とふと思いながら。うつけた手から、桜貝がぱらぱらと滑り落ちていた。
「千歌音がね、そう、あなたがよ、『貴女が好きなの』って何遍も叫びながら、無茶苦茶にわたしに刀を振り回してくるの。それでね、たまりかねたものだから、わたし、とうとう、こうやって…」
姫子の手刀が、千歌音の胸の央(まんなか)めがけて、まっすぐ伸びてきた。
一瞬ばかり、それが、一点の白くきらめいた切尖(きっさき)になり、そしてそれが大きな鋼の刃に変わって、恐れ知らぬ船のごとく突き進んできた。千歌音の喉が鳴った。とっさに、そのきれいに揃った指先を強く握っていた。それが真剣であったのならば、血が滴り落ちてもおかしくないくらいに。姫子の熱が、指から伝わってきた。それは殺気ではなかった。姫子を金輪際逃さないとするならば、剣をこの身に受け入れるしかない、などとふとふとどきに思い浮かんで、慌てて雲払うごとく大仰に首を振ってみせるのだった。
「そんなおかしなこと、この私がするはずない。姫子だって、するわけがない」
「ご名答」
しばし、膠(にかわ)で糊付けしたごとくに固まっていたふたりの指先がほどけ、また結び合って、いつしか睦に絡み合っていた。
姫子が破顔した。千歌音も笑いこぼしていた。いまなら、どんな悪夢でも笑い飛ばせそうな気がした。梢の隙間からもたらされたほんの小さな陽だまりが、土にしがみついた冷たい芝を温めて、肌ざわり柔らかくしてくれていた。揺さぶられて落ちた翠葉が、散りぢりに光りを撥ねていた。裸身で寝転がったら、もっと花園の空気が温まりそうだった。こんなふたりののどかな春が、永遠に続けばいいと、千歌音は願っていた。
「月と地球と太陽と、貴女が生きていればそれでいい。それがわたしの願い。たった、ひとつの、絶えざるこの望み。千歌音はその願い、叶えてくれるでしょう?」
そんな願いでよければ、喜んで。千歌音が頷いた。
いたずらっぽく笑って、姫子がかさねて訊ねる。「何にかけて、そう誓う?」。千歌音の答えはすぐだった──「春の銀河のように煌めく、その瞳にかけて」。千歌音には、自分を覗きこむその澄んだ双眸が、願いをこめていくら眺めてもつきない星のように思えた。優しいまなざしが、たまさか、驚きに目を見張ったかたちになったが、姫子はふと真面目くさった顔つきになって。
「縁起の悪い夢はね、吉兆のあかし。自分が死ぬ夢は、いつか自分が新しく生まれ変わるための夢。だから、千歌音は喜んでいいの。不吉な夢を売ると、その人には幸運が訪れる。わたしは夢を買って、夢を描いて、そしてそれを月に奉納する」
千歌音は乙羽が語った二枚貝の迷信を思い出していた。
この人は「運命」という縛りの言葉で、茨の道に誘い込んだのではなかった。御しやすいからと迷妄に付け込んで、自分の目的のために利用したのではなかった。いっしょに苦界を歩んでくれとも言ったのではなかった。しかし、いつでも涙の人生に寄り添ってくれたのは、この人ではなかったか。姫子は私を生かしてくれたのだ。あんな血迷った夢に惑わされることなどなかったのだ。