陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「葉ざかり桜礼讃」

2009-05-28 | 芸術・文化・科学・歴史
「葉ざかり桜礼讃」

 初夏の桜が好きだ──そう言ったら、あなたがたは驚くだろうか。しかし、私はあの青々としたみずみずしい葉をたたえた桜が好きなのだ。もちろん、春の祝いを告げるようなほんのりと薄紅に色づいた桜が、いっせいに咲き誇るさまは、えもいわれぬ趣きがある。今年の三月、ある山寺に枝垂桜を訪ねたが、天から桜の花びらが降りたのが幻想的で、柳のたおやかさのごとき枝に頬寄せてみるのは、感慨深いものだった。しかし、ここ数年というもの桜の開花をこころ浮き立つ思いで楽しむことはなくなった。そのため、私は春の花と申さば、百花のさきがけ梅の花だと答えるのである。
 桜を眺めると、ふと涙の滲むこと多くなったのは、この花がしばしば別離のシーンに咲いていたからだった。大学進学にあわせた引っ越しのために両親とこの地に来たときも、大学近くの桜並木が花をいっぱいつけていた。その桜のトンネルを、荷物を下ろして軽くなったワゴン車で通り抜けた。親元を離れたのは、はじめて。その夜からの一人暮らしの侘しさを覚悟して眺めた門出祝いの桜は、涙にかすんでよく見えなかった。亡父の最後の写真には、どこか儚げな風情の桜が背後を飾っていた。その翌年の桜は彼にはなかった。梶井基次郎の言い分を諳んじるまでに、花ざかりの桜は、私の人生のシノニムになった。
 桜の見頃は花の終わり頃。はらりと散っては地に敷いて淡い点綴をつくる、その時期からを私は好む。雪の白さ、蝶の翅の柔らかさで、路面を複数の落ち花びらが飾る。とくに春雨に濡れそぼると、しっとりとした淡い味わいをもちながら、地球に貼りついている。融けいることはまったくない。その残滓が潔くないなどとは思わない。
 その散り花の頃、頭上をみあげれば、隙き間の多くなった梢にはわずかに縋りつくように花びらが残り、その下からわずかな葉っぱが顔を覗かせはじめている。桜の満開時期と同じくらい、この翠と薄紅色の共存する時間は少ない。それは貴重な生命の交差点だ。
 春の宴を終え散り急ぎはじめた桜は、見向きもされないだろう。葉桜なんぞみすぼらしい。そう思われるのが関の山。しかし、私はこの葉桜からが好きだ。葉桜には死と生とが、衰えと盛りとがひしめき、せっつきあっている。胎児が母を困らせるのにも似て、新葉は花びらを押しのけながら果敢に生まれてくる。その葉に新しい夏を譲るために、花は消えるのだ。桜は桜らしさをもはや失うほどに翠を増やし、光り溢れる青空に向かって枝を伸ばしていく。風が吹けば若い翠の匂いがこぼれる。よくよく観察してみれば、枝の先はまだしなやかな翠いろを保っていて、元気な葉がびっしり連なっている。あの花びらの群れは落ちたのではない。すべて、この若い葉に生まれ変わったのだ。そう思うだけで私は救われる。だから、私はあの葉ざかりの桜が大好きだ。これからも永遠に。


【附記】
本稿は、レナ・ジャポン・インスティチュート株式会社主催、第二回「さくら芸術文化応援団」プロジェクト「あなたのさくら色」2009 大募集!の応募作である。

作品名:「葉ざかり桜礼讃」
執筆者:万葉樹(よろず はき)
応募部門・カテゴリ:文章表現部門A「エッセイ」
作品のコンセプト:
以前、職場で葉桜のイミテーションを写真撮影していたときに、無性にその造形のおもしろさに惹かれてしまった。その想いを探る文章を練っていたら、自分の記憶と結びついていたことに気がついた。花のみならず、どのような景物も、あるいは出会う人物の言葉も、自分の人生に食い込んでくるからこそだいじと思うのだろう。古来、和歌の常識にもあるように、日本人は花といえば桜という思いこみがあり、桜の色と聞けば淡い紅と考えるが、桜には真夏の生命力溢れる翠の強さや、秋の夕陽をうけて輝くしゃれた葉の黄ばみ、冬の頃のすっきりした梢のみせる乾いた鉄黒さと厳しさ、など季節によっていろいろな表情がみられて、それぞれに楽しくまた思考を誘う。それを私はこの一年ただ一本の桜木を観察して知った。
季節が巡れば、花も蘇り、葉も生まれいづる。その喜びを慌ただしい春が過ぎて、落ち着いた五月の休みごろに見出した。拙文は、その気持ちをまとめたものである。


第二回「さくら芸術文化応援団」プロジェクト「あなたのさくら色2009」大募集! ←参加中





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