陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

イラストレーターの仕事のゆくえ

2022-11-03 | 芸術・文化・科学・歴史

学生時代にとある美術用教材の会社でアルバイトをしていたときのことです。
そこの経理社員の男性いわく、自分はもとデザイン会社所属のイラストレーターで、オリジナルキャラクターものの絵を手掛けていた。今はもう奮わないけれども、発売当時はそこそこ売れていたキャラだったとのお話。

そういえば、私が子どもの頃、誰が作ったのか分からないけれども、キャラクターもののグッズが出回っていました。サンリオとかの大御所ではなくて、ポップな絵柄の。お土産ショップにあるような女の子向けのキーホルダーとか、地域ブランド的なファンシーなものです。でも、最近、そういうの見かけます?

私の地元自治体の広報誌に用いられている挿絵も、ほとんどがあのいらすと屋さんのもの。
他はあきらかに商用フリーの画像と思われます。もしくは素人がパワポあたりでつくれるような幾何学的な図解みたいなもの。あきらかに手書きの、絵描きの個性がある、ハンコで押したようなものではない、といった昔のイラストの趣きでなくなりました。

ビジネス本などには専属イラストレーターと思われる挿絵がまだ残っています。
けれども、そのほとんどは都内にある出版社。地方在住でイラストレーターは仕事を受けにくいのかもしれません。もちろん、ネットでの受注などもあるでしょうが、新規参入が激しく、買い叩かれているのではとも感じます。その昔にあった映画の看板描きの仕事がなくなってしまったように、イラストレーターという名がなくなりはしないものの、絵を描くだけの仕事ではなくなりつつあります。なぜならば、AIで画像データの複製や加工は容易になってきたからです。

なぜ、こうした事態が気になるかと言いますと。
私の亡くなった身内は印刷会社勤務の専属イラストレーターで、公共施設で売られているような商品の挿絵やら地元開催イベントのポスターやらを手掛けていたからです。Tシャツやペナントのデザインやらもあったそうです。もちろん、それらはコミック絵ではありえない。それもかれこれ20年も前のこと。もし、身内が存命で会社を辞めて独立していたりしたら、仕事はあったのだろうか。私の大学同期生たちのように、チャンスを求めて上京することになりかねなかったのではないか。ありえないことが頭をよぎってしまいます。

最近、しばしば驚くのは京都の老舗の工芸品などと、人気漫画家たちがコラボしたりするケースです。
鬼滅の刃ブームから目だたしくなってきましたが、それ以前にも知名度のあるアニメキャラを商材に活用するケースが増えています。刀剣を擬人化したアニメの影響で、若い女性のあいだで日本刀への関心も高まっています。それは、かつてのコレクターが愛でるものとは異なるような向き合い方でしょう。反り返った刀身の向こうに、別のイメージを夢見ているのです。私たち顧客は、「何を」利用するかではなく、「誰が」描かれているかで、争ってその商品を購入し、ないしは鑑賞するようになったのです。

およそ10年ほど前までは、商業漫画家たちやアニメーターと、純粋な美術としてのイラストレーターの仕事の領分はしっかりとその線引きがありました。

漫画家兼イラストレーターの描くものは、たいがいオタク界隈御用達なグッズとか、ラノベの挿絵だとか、「そういう層」向けのものとして限られていたはずです。つまり、あきらかに玩具としての商材だったはずです。百貨店で売られたり、博物館に展示されたりするようなものではありえなかった。お行儀のいい場所ではなく、それは私たちの手元にあるものでした。

一般層向けの後者の対象は普段使いの日用品。
けっしてエログロな絵柄を用いず、清潔な、どこからも石を投げられるも槍で刺されることもなさそうな無難な絵を描くことを求められていたのです。そのため、私たち消費者は、よほどのブランドネームがない限りは、その描き手に想い馳せることなどありませんでした。そうしたキャラグッズの所持が、集団所属用件にされているということもなかったのです。

而してこの現代、自治体の推奨するゆるキャラにまで萌え傾向が広がりまして。
ご当地キャラにも、啓発的ポスターにも、「漫画家〇〇先生デザインの」というお冠で知名度をネームバリューをあてにしたケースが増えています。その漫画家先生やらアニメ作品のファンをひきつけ、聖地巡礼をあてこんだ観光振興や、地域商品の販促やイベントの活性化にもつながります。それを持っているだけで、応援していますの意思表示となる。よく芸能人が化粧品や飲食品のマスコットキャラクター化しているのと同じ役割を、いま、二次元のキャラやその生み出し手たちが担っているわけです。

私はことさらこの現象を悪いことだとは申しません。
むしろ好ましいことだと感じます。地元の商品が有名漫画家やアニメの力で全国あるいは全世界に知れ渡り、商圏が拡大することは望ましいことなのです。旧弊の大人たちが子どもっぽいとして馬鹿にしていたはずのサブカルキャラクターたちは、いま、それほどの市民権を得ています。

ただ、こうした二次元イメージの氾濫の裏側で起こっていることにも注意が必要です。
そのひとつは、こうした創作者やキャラクターの人気を頼みとした商品開発は、そのブームが終わるや否や不良在庫になりやすいということ。一時的なブームにあやかるほど飽きられやすい。次のシーズンには別のブームに乗りかかろうとするので、顧客の関心をつなぎとめるような過剰なマーケティングを行いがちになります。そのマネーははたして、正しく世の経済を回すために、所得格差をなくすために用いられているのでしょうか。たとえば、異常な射幸心を煽るギャンブル業界への流用は正直いいまして、褒められたものではありません。

もう一つの懸念は、これこそが本日の本題なのですが。
いまの絵描きと呼ばれる職種のありようを大幅に変えてしまったということです。紙やら布やらプラスチックやらの平面的なものの上に、その商品もしくは媒体の中で終わるはずだった一過性の絵が、いまや、複数回の商品グッズに流用されてなんどもなんども世に溢れます。あるキャラは同様の目的を有するコミュニティにおいて、神がかり的なイコンとして機能し、彼ら彼女らの信条や思想の代弁者にされてしまうのでしょう。

つまり描き手が予期しえないイズムの旗幟として利用されてしまう恐れがあります。
ナントカの作品はファシズムの体現だとか、青少年育成上好ましからざる表現だというふうに。あるいは、逆にLGBT意識のアイコンだとか、多様性の思考材料だとかいうふうに。話題になるいっぽうで、作者の意図を離れた、不気味に浮遊する価値づけがなされる恐れがあるのです。

より恐ろしいのは、それが嵩じたばかりに、バーミヤンの遺跡破壊のようなイコノクラスムが置きかねないということです。私たち日本人で言えば、しばしば行われる日の丸の焼き討ちがそれでしょう。ただの白地に赤い円だけの絵なのに、われわれ日本の神性の象徴をするものとして確立されすぎている。知らずに何かの絵を、イメージをなじることが、それの信奉者の尊厳を踏みにじることと同一視されかねないのです。

美術史上、一枚の絵はその時代、その地域や国柄、その創作者の独自性を語るものでしかありえなかったはずなのに、そのイメージが何重にも過剰な意味を背負わされる、そんな時代の最先端に、私たちは生きています。当然ながら、イラストレーターという仕事も、ただ図示をするという領分を超えた、もっと知的で内包するストーリーのある、新しい価値を生み出すものとなるでしょう。描いたら終わりではなく、自分の絵をどう活かすのか、どう見られていくのかを戦略的に考える必要が。その際、ただ絵がうまい、ということではない立ち位置が求められるに違いないのです。

(2021/09/20)


★芸術評論目次★
美術(絵画・彫刻・建築・陶芸・デザイン)・音楽・書道・文芸・映画・写真・伝統芸能・文学・現代アート・美学・博物館学など、芸術に関する評論や考察(を含む日記)の目次です。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« アニメ「神無月の巫女」ブッ... | TOP | 最低賃金法改正にともなうパ... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | 芸術・文化・科学・歴史