陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「太陽と稲穂の或る風景」(弐)

2008-07-24 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女
畦道を歩いていた姫子はふと何かに惹かれたように、歩みをとめた。
道端にどこかの収穫済みの田から飛んできたのか、一本の稲穂が落ちている。はぐれて忘れられた稲穂は、豊かさの象徴だった。この落ち穂のひと粒さえ口にはいらない、そんな飢えた民はこの村にはいない。そう願いたかった。
そっと拾い上げた姫子は、その茎を指先でくるくると廻して、謎めいた微笑みを浮かべている。なにか面白そうなものを見つけた子どものような、あどけない笑顔。彼女はどんなささやかなことにも、人生の楽しみを見出すのが得意だった。

隣では利発そうな顔だちに深い海いろの瞳が美しい少女が、それを不思議そうに見つめる。その瞳が薄く雲の影がさした月のようにくすんでいたのに、姫子は気づかなかった。
拾った落ち穂は、まだ田を離れて日が浅いのか、新鮮な弾力を失ってはいない。実りを孕んだ穂先の手触りは豊かで、そこから生まれてくる未来の粒の泣き声が、いましも聞こえてきそうな気がした。
姫子は、てのひらのうえの黄金の実りを弄ぶことに気をとられていた。稲穂に戯れながらの足を数歩進めてからはじめて、隣に肩をならべる艶やかな黒髪の持ち主がいないことに気がつく。

「…ちかね?」

甘い唇がその名をふんわりとのせる。
求めていた声は、耳の奥までやわらかく響いた。高くて澄んだ声には、咎めだても、おびき寄せる命令の意図もふくまれていなかった。
こうでもしないと、このひとは振り向いてくれない。そのきれいな声で、いつもとは違う声いろで、名前を呼んでくれない。せいいっぱいの不満を顔に描いて私が立ちどまらないと、このひとは私に歩み寄ってくれない。私だけを瞳に映してくれない。だって、いつだって姫子の顔を眺めるたびに、私は幸せにされてしまうから。嬉しさに塗れてしまうから。幸せの気持ちを全身にまとわなきゃいけないから。

こんなふうに考える自分は、ずるいのだろうと、ちかねは思う。自分のしなびれたこころを拾ってくれるまで、待っているなんて。今日はこころのなかで五回ひめこと叫んだら振り向いてくれたとか、離れた距離が昨日よりも数歩縮まっていたなどと計っているなんて。

踵を返した、優しい気配とあたたかな匂いが近づいてきた。山の端に沈みかける名残の赤光りを背負いながら。傾いた秋の夕陽は、光りを縒った巫女の髪をさらに輝かせていた。その光景はうつくしくて、けれどなんだかそら恐ろしかった。朝はあんなにも白く世界の端々を東から輝かしているのに、西に廻って血いろみたいに朱染めて終わってゆくなんておそろしい。急かされたように沈んでいく秋の太陽は、どこかもの哀しくて。楓みたいに紅いのに、冷たい太陽。そんな鮮やかに陽が没したあとに、くっきりとした銀いろの月が夜空の一点をくり抜いたように浮かんでいるのも、やはりどこか怖かった。あの光りの穴に、吸いこまれそうな気がした。

姫子とふたりの話は夜でもできる。でも、心配かけまいと眠れない夜でもむりやり瞑った瞼に騙されて、先に寝息をたててしまうのは姫子のほうだった。姫子は知らない。瞼におちてくるその吐息に。頬にふれそうになるその唇に。夢にうごかされて腰を抱きよせるしぐさに。私が熱くなって、薄い睡りの朝を迎えていることに。

「ねえ、姫子。稲穂ってどうして、最初からそのかたちで生まれてこないのかな…」

ちかねの真剣な眼差しとその疑問の口調に、姫子は掌に落としていた視線を愛しいものへと、優しく注いだ。瞳の光はいちだんと温かくなっていた。その優しさに縋りつきたくなった、紅い陽におびえてじわじわと膨らんでいる胸のなかの不安の塊を、預けてみたくなった。

「どうして、そんなことを聞くの?」
「私は母さんも父さんの顔も知らないの。気がついたら自分がこの世にいて、勝手に育って、なんとなくお腹が空いたら適当に口にして、喉が渇いたら川の水を飲めばいい。そういうことは、誰かに言われなくても知っていたの。だから、自分はいつでもその体の思うところのままに、動いていればいいんだって思っていた」

野に咲いた花を愛でるように、このお陽様のようなひとは私を見出してくれた。夜の空気のなかに送っていた香りだけをたよりに、一輪の私を探してくれた。影に覆われ、虫に啄まれ、風に蝕まれた儚いいのちの自分を育ててくれた。私のことを好きだといってくれた。けれど、それはどこまで特別なのだろう。このひとが今手にする稲穂と、自分はおなじようなものではないのか。すべての生きとし生けるものに惜しみなく愛情を傾けていくそのおおらかさに、ちかねはときどき不安になる。

──私は貴女のほんとうに望まれているかたちだろうか?



【目次】神無月の巫女二次創作小説「太陽と稲穂の或る風景」






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