陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

「太陽と稲穂の或る風景」(壱)

2008-07-24 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女
ある秋の日暮れ方のことだった。
陽のいろの髪の少女が黒髪の少女を連れて、うら寂しい村の田園地帯を散策していた。紅紐でひとつ結びの髪がやや先を歩き、白紐で黒々とした髪を束ねた幼い少女がついていく。

川ほとりにひろがるその神田は、秋の実りの季節を迎えて一面黄金いろに染まっている。身重になった稲穂は、静かな風の流れにまかせて頭をゆるやかに揃えて垂れていた。ここから収穫される米が蒸して飯にされ、神饌として朝夕、豊受大神のおはす御饌殿に供えられる。それは彼女たちの時代からさかのぼること数百年間、神職によって一日も怠ることなく続けられた神事である。

今年は不思議なことにこれまでの疫病や天災などはぱたりと止んで、数年ぶりの豊作が昨年から続き、政情も安穏を迎えていた。その紛れもなき証左たる荘厳な実りのもたらされた眼前の秋の風景に、陽の巫女は今、満面の笑みを湛えている。今年は無事に神嘗祭が行えそうだ。
米は神に祀られるほかに租税として人にも捧げられるものだった。
他の村では凶作であっても、領主の横暴なとりたてがあったと聞く。しかし、少なくとも、ふたりの巫女の暮らすこののどかな村では、社会経済の安定期を確信することができたのである。それが束の間の、必ずしもあくる年も約束された実りの風景とは限らないのに。
姫子は、ふたりでこの黄金の平野の横を通り過ぎた数ヶ月前のことを思い出した。


それは初夏の真昼どきのことだった。
辺りには一面水を張った水田が並んでいる。
几帳面に配されたみずみずしい青い稲を浸して、鈍い光りのかけらを静かに廻しつつ、水面はゆったりと揺れていた。泥底のうえに浮かんでいる夏の青空を重なりあう波紋で乱しながら、アメンボウがすいすいと泳いでゆく。

田植えの百姓女が、照りつける日差しを遮る笠を被って、腰をかかげ苗を一本ずつ丁寧に規則正しく泥土の海へ挿してゆく。土いろの飛沫が跳ねかえり、女の粗末な渋染めの衣に斑点をつけてゆく。
女の額にきらきらとした汗が流れている。泥だらけの腕でそれを拭うから、一層、日に焼けた浅黒いその顔が黒ずんで見える。
向こうにいる男が、女の突き出した臀部や、やや肌蹴たに胸元をみて、にやにや笑っている。下衆な勘ぐりで男が口にした冗談に、眉を吊り上げた女が泥を一掴みして投げつける。にやっ、と笑みのこぼれたその口元から、白い歯の端が覗いて光を弾いていた。
やがて、男と女に加え、そのあたりの子供たちも水田に乱入して、泥玉の投げつけ合いが始まってしまう。文字通りの突然の泥仕合に、さらに向こうの水田で牛に鋤を牽かせていた翁が、しばし手を休めて苦笑している。その曲がり切った腰は、この老人がこの骨折り作業に費やした長年の肉体の変化と労苦を物語る。
決して、優雅でも上品でもない、その夏の真昼の光景。
でも、なぜか姫子にはそれが美しいと思ったのだった。




今、その人っ子ひとり誰もいない秋の田野に、視線と意識を戻す。
あの夏の日に思わず目を細めた陽光の眩しさもなく。
夕暮れ時の黄金の稲穂の原を瞳の大きさの範囲いっぱいに受け入れながら。
太陽の少女は思う。

黄金の光り輝く極楽浄土、そんなものほんとにあるのか分からない。罪深く、仏の信仰心も篤くない自分に、神々しい来迎の使者が来てくれるはずもない。
けれど、今、生きている自分には、この生命の原野こそ素晴らしい天から賜った極上の風景なのだと、そう思える。
生きている限り、自分やちかねも…そして歴史の表舞台に登場せずに生まれては子孫を残して死んでゆく。この百姓たちも。けれど、この稲田の風景は恐らく変わりゆくことはないであろう。
毎年、夏には濁った水面から顔を出す若緑の苗の列、秋には風に凪ぐ純金の稲穂の群れ、そして刈り取られ、積まれた藁の山々。新春に降り積もる雪の白化粧。その上に点けられた大小無数の足跡。田畑の近くの貧しい家屋でこんこんと、脱穀をする昼さがりの男。するすると器用な手並みで草鞋をつく夜なべの女。つくられた草履を履いて嬉しそうにはしゃぐ朝の童子たち。囲炉裏から湧き上がる湯煙に鼻を寄せ、晩飯の粥汁に舌鼓をうつ夕暮れの老婆。
米作りの一年を通して繰り返されてゆく生命の循環に、永遠の繁栄を願うのは何も儀式ばった神事ばかりではないだろう。もしこの国が滅びてもこの原野の風景だけは守られるべきではないか。紛糾渦巻く歴史の表舞台とは別に、二千年もの昔より名も無き人々によって演じられるこの生命の始原的舞台――。
悠久の人間の暮らしと生命の営みとがここにはある。

──この風景がいつまでも、この愛しい人と見られるのなら……。この美しい世界と貴女が永遠につづくなら。わたしはなにもいらない。「わたし」さえいらない。


姫子は傍らの黒髪の少女の手をぎゅっと握り締めた。その手の温かい感覚が伝わってきて忘れたくないように、ちかねも強く優しく握り返す。


【目次】神無月の巫女二次創作小説「太陽と稲穂の或る風景」



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