ふしょうなブログ

ご不要になった詩は粗大ゴミでお出しください

書き続けられる詩とは

2006年01月26日 20時52分51秒 | 詩に関わる話
 丸善で注文した新詩集がまだ届かないので、つなぎって訳じゃないけど、今BOOK-OFFの100円均一コーナーで購入した現代詩文庫「八木忠栄詩集」を読んでいます。(しかも電車の中と仕事サボりの喫茶店で(^_^;))2段組が気に食わないけど、値段につられて買ってしまいました。となりには、あの吉増が(汗)たぶん、この手の詩が好きな人が手放したのかな?
 八木忠栄、まとめて読むのは初めてですが、う~ん、ビート詩です。後期はわりかし古典への回帰も垣間見えますが初期作品はまんまビートで、ギンズバーグへ捧げた感じの「美しい兇状」って詩も収録されています。
 で、本題に入ると、ビート詩のような怒りと焦燥感にかられた詩を書きつづけられるのかなと最近思いはじめました(飽きっぽいというか、気分屋だし、怒りを四十六時中持続できなさそう)。それから現代詩フォーラムに綴られた多くの詩を読むにつけ、結構好きなスタイルの詩とはどんな詩なのかがだんだんと見えてきたようです。でも、そのスタイルでYock自身が書き続けられるのかなという疑問も生じてきました

 つまり、好きな詩、書ける詩と書き続けられる詩は異なるようです。1作ぐらいだったら、好きなスタイルを真似し、なんちゃってで書けるにしても、そのスタイルを持続することは難しいのかな。それは自らの性格、キャラ、生い立ちなどに左右されるようです。逆説的に言えば、自分なりに書き続けられる詩の輪郭のようなものがおぼろげながら見えてきたってことかも知れません。でも、まだ本当にもやもやした感じなのでで、たぶん、ああこんな詩が自分のスタイルだったんだなと後になって気付くって感じなのかも。




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