歌舞伎見物のお供

歌舞伎、文楽の諸作品の解説です。これ読んで見に行けば、どなたでも混乱なく見られる、はず、です。

「廓文章」くるわぶんしょう (吉田屋)

2013年04月27日 | 歌舞伎
典型的な上方の「初春狂言」です。
元禄期に上方に実在した、「夕霧(ゆうぎり)」という美しい遊女を題材にしたお芝居です。

当時の「遊郭」「遊女」というのは、いまの風俗店とはかなり違います。
客は遊女を呼ぶと、まずお座敷で宴会デートをします。お仕事のメインはこちらなのです。
なので「銀座の高級クラブ」に近いです。
そこにいる高級ホステスさんを、さらに高級にしたのが当時の遊女たちです。
彼女らは和歌や俳句が詠めねばならず、気の利いた文章で恋文(営業用)が書けねばならず、
客たちがお芝居や古典の話をするのについていかなくてはなりませんでした。とても教養があったのです。

また、テレビがない時代ですので、遊女たちはいまのタレントさんのように有名でした。
遊郭の店やお座敷の豪華で華やかな様子も、実際に行ってみるお金がない庶民にとってはあこがれの対象だったのです。

「夕霧」はそのなかでもとても有名で人気もあった遊女でした。
「夕霧」を題材にしたお芝居は多く、「夕霧もの」というジャンルが存在します。

この「廓文章」は近松門左衛門(ちかまつ もんざえもん)の作品が原型ですが、
同種のお芝居は江戸時代に何本も書かれました。
これはその代表作ということです。
最近は元禄期の舞台を可能な限り再現したという、「夕霧名残の正月(ゆうぎり なごりのしょうがつ)」が復活上演されました。


では内容説明にはいります。

主人公の「藤屋伊左衛門(ふじや いざえもん)」は、大阪の豪商の若旦那なのですが、
遊女の「夕霧(ゆうぎり)」に恋をして廓(くるわ、遊郭ですよ)に通ってはお金を使いまくり、
ついに勘当されて一文無しになります。

大晦日ももうすぐな、冬のある日の話です。
あ、でも大晦日じゃありません。舞台の奥のほうで餅つきをしているからです。

見る影もないみすぼらしい姿の伊左衛門が、なじみの女郎のいる遊女屋、「吉田屋」にこっそりやってきます。

昔はおかいこぐるみ(表も裏地も絹の着物、下着も襦袢も全部絹)というかんじで贅沢だった伊左衛門ですが、
今は着るものがないので紙を貼りあわせて着物にしたものを着ています。「紙衣(かみこ)」といいます。
この「紙衣」の材料が、夕霧がくれた艶文(つやぶみ、ラブレターですよ)なのです。
全てを失っても夕霧への愛はある、というか他には何もないという状況を象徴的にあらわしています。

「紙衣」は紙なのでガサガサしています。。
ふだんは絹のすべすべした着物を着ている伊左衛門ですから肌触りの悪さがつらいです。
「紙衣(かみこ)ざわりが、荒い荒い」というセリフは、
伊左衛門のおぼっちゃんらしい雰囲気がよく出るフレーズとして有名です。

さて、
「夕霧」は、勘当された若旦那が心配で、しかも全然会えなくてさびしいので、最近病気になってしまいました。
伊左衛門は夕霧が心配で、お金がないのですががまんできずに様子を見に来たのです。

廓の主人とおかみさんが出てきます。
一文無しになった伊左衛門を追い返したりせず、「以前はずいぶんお世話になったのだから」と言って親切にもてなします。
夕霧のこともわが子のように心配しています。

商売の街である大阪は「金の切れ目が縁の切れ目」的な印象のある街だと思うのですが、
宿屋商売について言うと、客に対する義理堅さは、他の土地よりも強いように思います。
「一度客として受け入れた相手はとことん面倒をみる」というようなかんじです。当時の作品にいろいろなエピソードが残っています。
今は知らないですが。
京都は昔からそのへんシビアな印象です。
余談でした。
とにかく親切なご主人のおかげで伊左衛門は夕霧に会えることになりました。

ところが夕霧は、少し調子がいいので今日はお座敷に出ているのです。
伊左衛門は夕霧を探して広い廓の中をあちこち歩きます。ここはセットの工夫が楽しく、当時の高級遊郭のご広さや豪華さが伝わってきます。
伊左衛門が後ろ向きに歩くときの形のよさも大切な見どころです。

夕霧がいないのでがっかりしてお座敷に戻り、こたつでふて寝をしはじめる伊左衛門です。

やっと夕霧がやってきます。頭には「病人」を表現する、紫色の「病鉢巻(やまいはちまき)」をしています。

「夕霧」は最高ランクの立女形の役です。
実在した夕霧も、井原西鶴もベタ褒めしているような、美しく、頭も性格もよく、品も教養もあったすばらしい女性です。
その伝説の遊女の美しさ、貫禄と共に、ふれなば落ちんという風情と、そして恋にやつれた女のものさびしい様子、
全てを、襖を開けて数歩歩く間に見せなければならない役です。

夕霧は、「わしゃ わずろうてなあ」と言います。
このセリフは、ほぼ全ての「夕霧狂言」に共通して出てくるので覚えておくといいと思います。
昔ですので若い女性ですが、一人称は「わし」です。
「わたしは、病気をしてしまったの…」みたいなかんじです。

自分が来ているのに(夕霧は知らなかったってば)夕霧が他の客のお座敷に出ていたので伊左衛門はかなりすねています。
夕霧につめたい態度を取ります。困る夕霧。

あとはまあ、
けんかをしたり、すねたり泣いたり仲直りをしたり、
見せ場はそのへんです。
役者さんにもよりますが基本的にコメディータッチです。

最後は若旦那の勘当が許されて、夕霧も身受けしてもらえてハッピーエンドです。
みんなでもうすぐ来る新しい年を祝います。
終わりです。

とくに複雑なストーリーはなく、遊女と若旦那の恋模様、そして元禄期の大阪の廓の、独特の優雅でゆったりした、「廓気分(くるわきぶん)」と呼ばれる雰囲気を楽しむお芝居です。

実際の「夕霧」は若くして病死したのです。
それが残念なので、「夕霧もの」は、このように夕霧が死なずに身受けされて幸せになる話が多いです。

以下、
古いお芝居ですし、ぱっと見てもイメージがつかみにくい部分があるかもしれませんので書きます。
細かい動きに関する関連マメ知識をいろいろと書きます。

・くどきのシーンで、夕霧が「懐紙(かいし)」を取り出して数枚抜き、口にくわえます。色っぽいです。
「懐紙」というのは、「鼻紙」とも呼びます。
鼻をかんだりこぼれたお茶を拭いたりという一般的な用途の他に、メモ帳や便箋にしたり、茶席でお菓子を置くとき下に敷いたり、
いろいろ使える万能グッズなのですが、
もちろん「ティッシュ」としてエッチのときにも使います。枕元に常備。

なので、「遊女が懐紙を口にくわえている」状態は、かなり臨戦態勢なのです。
今でいうとコンドームを持ってるくらいきわどい状態です。

もちろん、お芝居の中でのこのシーンは、エッチしようとしているわけではないですが、
そういう場面を連想させるための色っぽい動作だと思っていいと思います。
せりふ的には、伊左衛門への愛情を訴えて泣く場面です。エッチっぽいと楽しいですよね。

・他にもこのお芝居は、くるくる巻いた長~い艶文(つやぶみ ラブレターです)を使ってケンカをしたりと、
遊郭のお芝居の定番の小道具がうまく使われていると思います。
チナミに、遊女が客に送る「艶文」は、紙の上のほうにピンク色が付けてあります。ピンクというか、薄紅色ですが。
お芝居の小道具にもよく出てきます。
長く巻かれた手紙の、上のほうが細くピンク色だったら、それは「遊女からのラブレター」です。ドキドキ。

・一緒に見たお友達が「伊左衛門はわがままで思いやりがないダメ男だ。夕霧は結婚しても幸せになれそうにないし、
そもそもこんな男に商売なんてできるのか」と言っていました。

たしかに、一般的な感覚で見ると、伊左衛門はちょっとアレな性格にみえると思います。

元禄のころの大阪というのは、想像もできないくらい豊かだったようです。
まだまだ上方は文化の中心でしたし、経済的にも最盛期でした。
大阪の豪商の豊かさと生活レベルの高さというのはケタ違いだったのです。
こういう世間知らずなぼんぼんのバカっぷりを許容する余裕が、当時の社会にはあったのです。
彼らぼんぼんも、ただワガママなだけではなくて、それなりに教養があり、優雅で魅力的な人たちだったのです。
京にいた貴族たちとはまた少し違いますが、「一般常識通用しない(しなくていい)場所」で生きていた人たちです。
「王子様」の一種と思っていいです。

井原西鶴の「好色一代男」の世之介も、こういうタイプの「ぼんぼん」のひとりです。

で、戦前くらいまでの上方の役者さんの世界というのは、そんな昔の大阪の優雅と豪気さを、
まだまだ体現している部分がありました。
先代の雁次郎さんの伊左衛門などは、今の藤十郎さんのとずいぶん雰囲気が違いました。
「バカで、どうしようもない男だけど、なんだかいい味出してて魅力的」なのです。

これは、今の雁次郎(藤十郎)さんの役者としてのよしあしという問題ではなく、
もう、そういう豪勢な雰囲気を出せる生活土壌が大阪というか、上方という土地にないのだと思います。
仕方がありません。今は祇園でちょっとバカやってただけで芸者さんが週刊誌にリークするという無粋な時代です。

もちろん、東京もとくに優雅な土壌が残っているわけではないのですが、
江戸の歌舞伎は「型」を重視するタイプの舞台が多いので、「型」から逆に江戸時代の雰囲気を学ぶことができるのだと思います。
だから勉強熱心な若い役者さんのほうが、あまり勉強なさっていない(と思われる)一部の年輩の役者さんよりも
浮き世離れした雰囲気だったりするのだと思います。

上方の歌舞伎は、きまった「型」を作らず、代が変わるたびにその役者さんが自分の感性で役を作ってきました。
もちろん前の代役者さんの芸を踏襲する部分もあるのですが、
基本的には「自分の芸」を新しく作るのです。

時代が変わりすぎて、その「型」のなさが、上方世話物を危機に陥れつつあると思います。
昔の雰囲気やキャラクターをそれっぽく表現するのが今後どんどん難しくなっていくと思います。どうすんだ。

江戸歌舞伎では、「南北もの」が、同じ問題を抱えていると思いますが、ここでは関係ないので今度どこかに書きます。

・ふたりが言い争いながらコタツをあちこち振り回すシーンがありますよ。楽しいです。
今のコタツは「暖房付きの机」ですが、昔の炬燵は、むしろ「立体骨組入りおふとん」と思ったほうがいいかもしれません。だから気軽にふりまわすんでしょうね。
例えば、男が女の人に言い寄るのに、部屋の反対側にいる女性のところまで炬燵ごと移動、横に座ってムリクリおふとんを体にかける、というシーンがあります。
こたつは、「おふとん」ですから「同じ布団に入っている」状態になってしまうのです。エッチっぽい雰囲気になります。
まあ、今もコタツってビミョウにデンジャラスですよね。

・紙衣(かみこ)について。
紙衣(かみこ)は、もう、完全にデザイン化されているので、絶対「紙」には見えません。というかお金かかりすぎです。
まあキレイでいいってことで。本当はすごくみずぼらしい衣装なのだと思ってご覧ください。

坂田籐十郎さんの襲名のときに南座のロビーに、藤十郎さんがが舞台で実際に着ている「紙衣」が飾ってありました。
ほんとに紙でした。
ただし、絹の裏地が着いてました。強度の問題もあるので裏は必要なのでしょう。
紙だけで作ったらあっというまにやぶれてしまいそうです。

・「病鉢巻(やまいはちまき)」について。
当時の紫の色は「紫草」の根で染めますが、この「紫根(しこん)」は染料であるとともに薬用です。
染料に薬効や毒性があるのはめずらしいことではありません。
で、「紫根」の、今伝わっている効用は「皮膚病薬」ですので、殺菌作用があったと思います。
昔の人は「殺菌のために」とはっきり思ってはいなかったでしょうが、経験的に「使ったほうが症状がよくなる」ということで紫の布を頭に巻いたのでしょう。
昔から伝わる「魔除け」グッズは香りが強く、殺菌効果が強いものが多いと思います。門松も注連縄もひいらぎもそうですし、お葬式の塩やお線香も殺菌効果が期待できます。
古代からの経験則をバカにしてはいけないですよね。

さらにお友達が調べてくださいました。

「紫草」は昔は武蔵野一体や京都などにもたくさん自生していて、根元への日光を嫌うので、ススキなどと混生。
紫草は、天然痘の毒消しと言われ、また紫で染めた肌着は腫れ物を生じさせないとして、病人の布団生地も細菌を防ぐために紫に染めた。と、ありました。
今は紫根は日本では採れないので、中国からの輸入だそうです。

だそうですー。ありがとうございます。

紫の ひともとゆえに 武蔵野の
草みなながら あわれとぞ 見ゆ

伊勢物語にも出ている古い恋歌です。

武蔵野にはいろいろな草が生えている。そこにまざって美しい紫色の葉の「紫草」も生えている。
そのただ一本の「紫草」があるので、武蔵野に生えている多くの草、それが全て、自分にはいとおしく思えることだ。
なのでわたくしが大事に思う美しいあなた、あなたの家族が困っているのだったら、私はよろこんで手助けいたしますよ。

そんなかんじの歌ですが、
ああ、野原にいろんな草とまざって生えていたんですねー紫草。そういう様子を詠んだ歌なんですね。
って完全に余談ですが楽しいです。


・「病鉢巻は、結び目が左側」という約束事の理由についてですが
昔の人は箱枕を使って横向きに寝たからだと思います。
病人は寝たままいろいろな動作をしますから、利き腕が使いやすいように右側を上に寝ることが多いはずです。
舞台の上でならなおさらです、病人役とはいえいろいろ動きますから(笑)
そのとき「結び目」が右にあると、顔にかかってジャマなのではないかと思います。


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