田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

15年前の日記から「いのちは受け継がれるからいのちである

2015年12月26日 23時28分59秒 | 平和
何年かぶりで薩摩焼の里(鹿児島県東市来)を訪ねました。実はMEG・NETのグリーンツーリズムに便乗したのでした。一行は14名、若い人も混じる都会人からなっていました。 最初に訪れたところは、400年以上も前、朝鮮半島から渡来した陶工の一族がこの地に朝鮮村を設営し、薩摩焼を始めた美山というところでした。「渡来した」、「村を設営した」、と簡単に言いましたが、実はこれは拉致でした。当時は秀吉の天下で茶の湯が盛んとなり、陶器、磁器製造はもっとも将来性のある産業でした。日本にはまだ弥生時代以降、須恵器のレベルの技術しかなく、茶椀や茶器はそのようなものとか、ひょうたんとか木をくりぬいたものを使っていました。窯業の先端技術は朝鮮などにあったとされています。そこで、薩摩の王様の島津公が、朝鮮動乱(これも秀吉の起こしたもの)に乗じて朝鮮の陶工たちを「拉致」してきた、そうして産業振興(一儲け)を図った、こういう歴史がありました。この間のことは「故郷亡じがたく候」という短編小説に司馬遼太郎が活写しています。この旅行でこの小説の主人公であり、陶工の中でもっとも輝いてきた沈家(代々沈壽官を名乗る)の15代目、大迫一輝師のお話を聞くことが出来ました。その中で驚いたことは、土をひねるという手作り陶芸が純血の一子相伝の形で15代に亘り続いていること、それが薩摩藩の産業保護政策のもとにおかれてきた(陶工一族は士分という厚遇を得る代わりに、代々朝鮮の姓名を名乗ること、すなわち男は村から出ないことを義務づけられてきた)ということでした。一子相伝という形式は旧い日本文化工芸には沢山あり、むしろ普通の形式ですが、そのことよりも政治権力による永代拉致とも思える産業保護が薩摩焼を作ってきたことでした。しかし、経緯はともあれ、強国薩摩の礎を築いたのは伝統工芸であったということです。   . . . 本文を読む

151226 庭の樹木(1) アメリカフウ

2015年12月26日 17時22分06秒 |  身近な自然(植木、小鳥、川)、ペット
アメリカフウまたはモミジバフウという落葉高木は、私の庭に40年も育ち続けてくれている友である。私はこの木を時々抱き占め、幹に耳をあてる。するとサラサラという音がかすかに耳に届く。これは導管に流れる水の音である。この木はたえず地下水を吸い続け、葉っぱからそれを蒸散させている。植物だって動物のように身体を動かしていることがわかる。 . . . 本文を読む

151226 15年前の日記から「公共事業では地元は暖まらない

2015年12月26日 07時31分01秒 | 時評
地方再生の声が賑やかだが、地方からの人口流出は止まらない。その大本の原因は農業が壊れてきているからである。農業がどう壊れているかは別として、地方経済は農業が土台であるという原則が放置され、「儲からないから止めろ」「でも票 がほいいから補助金をばらまこう」となって農家の誇りをきづ付け、後継者がうまれない状況がずっと続いている。そこで農業という固定観念(呪縛)を観光農村というコンセプトで、景観という資源を活かす道がないだろうか?その条件は水田の美しい姿を保つこと。米作りは農村の景観美しさの元なのだ。米作りを止めるなどという選択は極めて愚かだ。世界と競争するために変な生産性を上げるよりも米を景観として、そしてエネルギー資源として生かせばもっと利益が上がる。政治家はダメ、公共投資はダメ、農業はダメ、地域はずたずたに、構造改革の出来ない日本となり苦しみが続く。「補助金をもらわなければ何もできない」という閉塞感が拡がった。 中央に頼らず、自力で産業を興す。江戸時代の各藩はその意気で地域経営をしていた。 各地域に「自分の哲学」で固有の産業構造をつくる。自分で自分の経営をする、もうすぐ市町村はその存在を問われることになるでしょう。補助金頼りもうだめ、中央直結や大企業下請けではなく、住民が主人公で、住民のエネルギーでまちづくりをする、ここにしか地域復活の活路はない。しかし、世は国際化時代で広い視野と人脈、最新の知識情報の入手が必要です。その上に自分の哲学と、実行力と・・・。15年前の日記にそれらしい発案をしてみた。 . . . 本文を読む