今日も素晴らしいお天気、自宅で大型プール作り孫達を泳がせます。
佐々木監督「小さな娘たちがやってくれた」
サッカーの女子ワールドカップで念願の初優勝を果たした日本・佐々木監督は「日本のみなさんの応援が通じた。PKはどっちになるか分からなかったが、ここまでくれば十分だ。僕もびっくりした。小さな娘たちが本当に粘り強くやってくれた」と語った。
日曜日です。一日中暑くて参る。全国的に猛暑日が多く日本列島はうだっているかも。我が家は皆お休みでのんびりですが我等夫婦には休みがない。ご飯の支度と掃除・洗濯に別れて朝の業務は毎日変わりがない。7人分の選択の量は半端でない。この陽気ですので毎日風呂は入るようにお願いしている。チビ家族11時頃までのんびり家の中でディズニーチャンネルを楽しんでいた。11時半過ぎ母親が「出かけるよ」で皆一緒に出かけた。31日にチビのバレー教室が発表会の予定で午後より隣町の公民館で相対的な練習があるとのことで出かけた。帰りは7時を過ぎておりチビもたいへんでしたがぼうず・わんぱく君もお付き合いご苦労さま。
2000回目のブログです。自分で思うこと。
このブログを始めたのはチビが生まれた翌年の2月、母親の17回忌の法要が菩提寺で執り行われた食事会での雑談中、皆さんよりこれから何をするのかとの質問。デジカメに夢中になっておったが娘がこのブログを紹介してくれたのがきっかけで毎日の出来事を記すことにして2000回目。早いもので5年6ヶ月となり思い出がいっぱい綴られた。これからも出来る限り継続して我が家の歴史を記録して行きたい。
「成せば為る」で走ってきた私の人生。人それぞれには歴史があり外部から見ると何それと思うことが本人にはとても大切なことであり大事なのです。今の自分の姿をいつ想像できたか分らないがどうやらここまで来られたのは周囲の方々のお陰です。今年3月11日14時46分にあの巨大地震に遭遇したが震源地より200キロ以上離れた我等の地域、震度4強であった。家は大きく揺れて家族は驚いていたが直接の被害は無しでほっとした。被災された方々(地震・津波・原発事故)には見舞いの言葉も無いくらいの大災害発生で心が痛みます。何時・誰が・何処で何にあうのか分らないがその場所におったことがその人の運命、運命は個々で変えることは出来ないが今回は気丈な精神で立ち上がって欲しいです。「成せば為る」であります。
私は太平洋戦争の終戦2年前に横浜に生まれ終戦後、母の生まれ育った田舎に疎開し始まった人生。今と違い衣食住がたいへんな時代で子供の頃はひもじかったが楽しさだけが残ったように感じる。確かに物やお金は無かったが人の情は肌で感じた生活でした。疎開者の我等であったが地元の方は暖かく迎えてくださった。私は4人兄弟の3番目であったので特をしたのかも。兄は今でのあの時期はとても苦しく良い思いでは一つも無いと突き放す言い方である。食べ物に関しては亡き母が地元の人間でとても明るく積極的な人であり地元の方々と仲良くさせていただき農家の手伝いをしての見返りで野菜や米等をいただいての生活と記憶している。小学生の高学年になり母親よりこの時のことを聞いたことがあった。疎開時は父親が横浜より鍋・釜や着物等をリヤカーにて運び疎開先の方々に着物と米を交換して飢えを凌いだとの話しも聞かされた。小学・中学の入学・卒業式も余り記憶にない、生活に追われていたかも。お金が無くて何かを買ってもらうとか特別の言葉があったということがない小学生時代でした。毎日が生きるには如何したらよいかの真剣勝負が思い出される。食べる物は何かを実践で習い実行する生活。山や川での食べられる物は今でも良し悪しはわかります。
戦後義務教育制度が出き我等の地域では高校に行くのは半数以下であった。当然私も就職組であり東京の下町の機械工場に仲間3人での就職。母親が力が無く申し訳ないと言って当時としては大金である¥3000円を渡してくれ「体には充分気をつけてね」の言葉が今でも母親の顔と一緒に脳裏を横切る。15歳のぼうず頭が住み込みの丁稚奉公のような形で人生をスタートしました。朝5時半起きで就寝は22時の規則正しい生活の始まりで考える暇も無く3ヶ月が過ぎた。夜になるとどうして私はこの歯車の中にいるのかと言う疑問が出てきた。
疑問だらけの人生、私だけでもあるまい。もう一度勉強したいと言う気持ちが強くこの生活は1年で終わりにして夜学を8年間貫き通す。自分の目標であった設計技術者への道が順調になってきた矢先、会社の帰りに交通事故に遭遇する。たいへんな事故であり私自身が気がついたと言うか意識が回復したのが事故発生より4日目であった。以後手術等があり闘病生活半年。親からいただいた大事な体を損傷して私の次の人生が始まった。仕事探しから始まり辛い生活。母親と嫁さんの支援のもとどうにか世の中に飛び出した。黙々と前を見ながらの道のりであったがどうにかぶれずにここまで来たのは全ての方々の支えがあったからであると思っております。いつかは世の中にお返しと考えて仕事をして参りましたがまだ不十分であります。世の中は人と人が寄り添って構成されており一人で飛びだしても周りの人達に迷惑をかけるので人の話しを聞けと昔からよく言われている。私は「成せば為る」と言う言葉が大好きです。自分が行動開始で道が開けると信じての生活、何時までもこのブログは継続して我が家と私の在りようを孫達に残したい思いです。
平成23年7月18日 海の日(祭日)
佐々木監督「小さな娘たちがやってくれた」
サッカーの女子ワールドカップで念願の初優勝を果たした日本・佐々木監督は「日本のみなさんの応援が通じた。PKはどっちになるか分からなかったが、ここまでくれば十分だ。僕もびっくりした。小さな娘たちが本当に粘り強くやってくれた」と語った。
日曜日です。一日中暑くて参る。全国的に猛暑日が多く日本列島はうだっているかも。我が家は皆お休みでのんびりですが我等夫婦には休みがない。ご飯の支度と掃除・洗濯に別れて朝の業務は毎日変わりがない。7人分の選択の量は半端でない。この陽気ですので毎日風呂は入るようにお願いしている。チビ家族11時頃までのんびり家の中でディズニーチャンネルを楽しんでいた。11時半過ぎ母親が「出かけるよ」で皆一緒に出かけた。31日にチビのバレー教室が発表会の予定で午後より隣町の公民館で相対的な練習があるとのことで出かけた。帰りは7時を過ぎておりチビもたいへんでしたがぼうず・わんぱく君もお付き合いご苦労さま。
2000回目のブログです。自分で思うこと。
このブログを始めたのはチビが生まれた翌年の2月、母親の17回忌の法要が菩提寺で執り行われた食事会での雑談中、皆さんよりこれから何をするのかとの質問。デジカメに夢中になっておったが娘がこのブログを紹介してくれたのがきっかけで毎日の出来事を記すことにして2000回目。早いもので5年6ヶ月となり思い出がいっぱい綴られた。これからも出来る限り継続して我が家の歴史を記録して行きたい。
「成せば為る」で走ってきた私の人生。人それぞれには歴史があり外部から見ると何それと思うことが本人にはとても大切なことであり大事なのです。今の自分の姿をいつ想像できたか分らないがどうやらここまで来られたのは周囲の方々のお陰です。今年3月11日14時46分にあの巨大地震に遭遇したが震源地より200キロ以上離れた我等の地域、震度4強であった。家は大きく揺れて家族は驚いていたが直接の被害は無しでほっとした。被災された方々(地震・津波・原発事故)には見舞いの言葉も無いくらいの大災害発生で心が痛みます。何時・誰が・何処で何にあうのか分らないがその場所におったことがその人の運命、運命は個々で変えることは出来ないが今回は気丈な精神で立ち上がって欲しいです。「成せば為る」であります。
私は太平洋戦争の終戦2年前に横浜に生まれ終戦後、母の生まれ育った田舎に疎開し始まった人生。今と違い衣食住がたいへんな時代で子供の頃はひもじかったが楽しさだけが残ったように感じる。確かに物やお金は無かったが人の情は肌で感じた生活でした。疎開者の我等であったが地元の方は暖かく迎えてくださった。私は4人兄弟の3番目であったので特をしたのかも。兄は今でのあの時期はとても苦しく良い思いでは一つも無いと突き放す言い方である。食べ物に関しては亡き母が地元の人間でとても明るく積極的な人であり地元の方々と仲良くさせていただき農家の手伝いをしての見返りで野菜や米等をいただいての生活と記憶している。小学生の高学年になり母親よりこの時のことを聞いたことがあった。疎開時は父親が横浜より鍋・釜や着物等をリヤカーにて運び疎開先の方々に着物と米を交換して飢えを凌いだとの話しも聞かされた。小学・中学の入学・卒業式も余り記憶にない、生活に追われていたかも。お金が無くて何かを買ってもらうとか特別の言葉があったということがない小学生時代でした。毎日が生きるには如何したらよいかの真剣勝負が思い出される。食べる物は何かを実践で習い実行する生活。山や川での食べられる物は今でも良し悪しはわかります。
戦後義務教育制度が出き我等の地域では高校に行くのは半数以下であった。当然私も就職組であり東京の下町の機械工場に仲間3人での就職。母親が力が無く申し訳ないと言って当時としては大金である¥3000円を渡してくれ「体には充分気をつけてね」の言葉が今でも母親の顔と一緒に脳裏を横切る。15歳のぼうず頭が住み込みの丁稚奉公のような形で人生をスタートしました。朝5時半起きで就寝は22時の規則正しい生活の始まりで考える暇も無く3ヶ月が過ぎた。夜になるとどうして私はこの歯車の中にいるのかと言う疑問が出てきた。
疑問だらけの人生、私だけでもあるまい。もう一度勉強したいと言う気持ちが強くこの生活は1年で終わりにして夜学を8年間貫き通す。自分の目標であった設計技術者への道が順調になってきた矢先、会社の帰りに交通事故に遭遇する。たいへんな事故であり私自身が気がついたと言うか意識が回復したのが事故発生より4日目であった。以後手術等があり闘病生活半年。親からいただいた大事な体を損傷して私の次の人生が始まった。仕事探しから始まり辛い生活。母親と嫁さんの支援のもとどうにか世の中に飛び出した。黙々と前を見ながらの道のりであったがどうにかぶれずにここまで来たのは全ての方々の支えがあったからであると思っております。いつかは世の中にお返しと考えて仕事をして参りましたがまだ不十分であります。世の中は人と人が寄り添って構成されており一人で飛びだしても周りの人達に迷惑をかけるので人の話しを聞けと昔からよく言われている。私は「成せば為る」と言う言葉が大好きです。自分が行動開始で道が開けると信じての生活、何時までもこのブログは継続して我が家と私の在りようを孫達に残したい思いです。
平成23年7月18日 海の日(祭日)