十数年前に初めてお会いした時から、いつも僕に刺激的な言葉を与え続けてくれるアーティストの沖啓介さんが、ご自身のブログの中でデザインについて書かれている。
デザインとは通常、総合的な造形計画の事を指す。すなわちそれは、機能や流行、コストや素材、さらにはクライアントの意向といったものを包括し、一つのカタチにするまでの間に加除修正を行った上で完成されるものであり、言うなればお決まりの"仕事"として作業ルーチンが行われる事が多い。
ところが沖さんは、デザインからはそれ以上に社会の本質的な構造が見えてくるのだと言う。ここで言う社会とは、さまざまな状況において歯車の動きのように制約されてしまった閉塞的な状況を表しているのではない。むしろ人間がその中でなんとかもがき、別の何かを生み出そうとする力を生み出すダイナミックな仕組みを指している。
沖さんはそうした社会の本質であり、典型でもあるデザインに期待する。デザインは限られた条件の中で固定された、出来上がった結果などではなく、そこから頭を柔軟にひねって新しい力を生み出す事の方がはるかに多い。そしてそれが社会をダイナミックに突き動かす力なのだと。
今、社会は停滞しそうな状況にあり、そのような時ほどデザインによる解決が求められていると言う。
沖さんが最後に締めくくった言葉は、刺激に満ち溢れている。
"閉塞した時代には、それを突破するデザインがある。"
山下新店街の今山八幡神社石段脇にある、サンコー農園さんの旧店舗を見せて頂いた。
古い地図をみると、サンコー農園さんはかつては"興農園"という名称で記載されており、ご主人にその事を尋ねると、その通りの名称だったという。昭和47年にお客様・問屋・興農園さんの三者の利益となるように"三光"の意味から、サンコー農園にされたそうだ。
店舗の看板に、まだ痕跡として"こうのうえん"という文字が残っている。
奥行きのある鰻の寝床状の店舗で、伝統的な日本の商店の短冊型の地割であるが、店舗そのものは昭和20年代にアメリカの"マーケット建築"と言われる建築手法を採用たらしいという。
これは併行する2棟が対になって建てられたもので、サンコー農園さんも、当初の店舗である今山神社石段から北に向って3店舗目の店舗とその北側の旧八百屋さんが対であり、さらに後から店舗として借り増しした石段から北に向って最初と2番目の店舗も対であるとの事。山下新店街のこの時期に建てられた店舗には、この建築手法のものが多いという。
このマーケット建築というのは初耳で、詳しい情報が欲しいところだが、現在もアーケードとして独特な雰囲気を出している宮崎市の青空マーケットなんかにもあるのではないか?
サンコー農園さんも元々は柳沢町で店舗を構えていたが、空襲で焼け出されてこちらに移ったとの事。同じく柳沢町で焼け出されて川北に移った事例を、祇園町のバー、ブロンズのマスターからも聞いており、中心市街地が戦災によって川中地区から川北地区へと移った状況がよく理解出来る。
終戦直後の連合軍によって撮影された空撮を詳細に観ると、山下町は道路の東側に店舗があるが、どちらかと言うと、西側には店舗が観られない。この事を店主に伺ってみると、かつて西側の斜面に畑が多く形成されていたという。確かに現在でもその名残がある。
店舗内に入ってみると、昔の棚や木の机がそのまま残っている。ひびの入ったコンクリートの床も非常にいい雰囲気だ。部屋が縦に3つつながっていて、斜面に形成されているらしく階段の段差がある。これもまた、面白い。
ところでこの店舗をどうするかだが、何らかのかたちで活用出来ないかを考えている。今回は写真倶楽部の代表と見に行ったのだが、周知の通り、ここ以外にも山下新店街には多くの空き店舗がある。
このサンコー農園の若旦那、通称ウツタカさんも深~く関わっているコミュニティーラジオや、DJブースを持ったカフェなんかが、少し見えてきたカタチでもある。高千穂町にこれを実践している所があって、幸町商店街の若手達が注目していたりもする。
今後の展開に乞うご期待。
先週金曜日に、打ち合わせのため西都原考古博物館に出張した帰り。打ち合わせが昼前に終わったので、ちょっとだけ寄って行こうとコンビニ弁当を買って新田原基地の南側へ。13時からの定期的な訓練のため、12時台後半に離陸する機体を目当てに、車を基地フェンスの近くに寄せる。
高校生の時、スネ夫のように金持ちだった写真部の友人(現、舞台照明機材会社の社長)に、使っていないNikonFEと長玉のレンズを借りて出かけた、埼玉県の入間基地で撮影して以来の300mmでの航空機撮影。自分では過去、大学院生の頃に買ったシグマの200mmまでしか持っていた事がなかったので、是非とも使ってみたかった。
曇り空にロービジリティー(低視認性)な戦闘機の機体はピントが合いにくかったりするもんなのだが、ひさしぶりに流し撮りしてみた(写真左がT-4練習機、右がF-15J~866号機~とF-15DJ~072号機~戦闘機)。遠くから近くに、さらに近くから遠くへと高速で移動する機体に対して行わなければならない手早いズーム操作がすっかり出来なくなってしまっている。水平線が傾いてしまうし、遅めのシャッタースピードでは上手くいかなかったりして、技術の低下を感じた。スウィングしなけりゃ意味がないじゃなくって、カメラ構えて素振りの練習しようかな。しっかし、新田原はランウェイ(滑走路)が近い。
次に、川南駅の近くへ。車窓から見つけた、前から気になっていた古い倉庫を観にいく。お~っ、いい雰囲気。
最後にリニアモーターカーの実験施設の最末端部へ。すでに地球上からは絶滅しているオオナマケモノを思い出した。やっぱり青空の時に狙ったほうがいいみたい...。カーナビによると、東都農駅って最近までリニアの見学施設があったんだって!!まったく知らなかった.....。情報不足が悪いのだが、そういうコアな施設ほど、残してほしかった。
どうもJRQの日豊本線南線に対する扱いがむごい。このままではリニアモータカーの実験施設もどうなる事やら...。
この後ひまゆいに写真展の様子を見に行った。
思うところがあって、朝、西延岡駅と行縢駅の様子をみてきた。西延岡駅に行くと、駅前の敷地に解体された木材が積まれている。なんとなくいやな予感。
ホームが杭とトラロープで囲われている。そして待合になっていた簡易駅舎が既に壊されていた。
なんでこう、すぐになんでも壊してしまうんだろうかと、悲しくなった。壊してしまった後、一体どうするのだろうか?何か次に計画があるというのだろうか?
小規模な古い駅や周辺の軌道の有効活用を考えるのならば、遊歩道みたいな方法が妥当な使い方であろう。
少し考えてみる。横浜のみなとみらいの旧横浜港駅プラットホームなんかで行われているように、軌道の表面を残して舗装した遊歩道を歩く。田園が広がり、石蔵のある西延岡駅。美しい桜が咲き、花見客が楽しんでいる行縢駅。駅のホームに、昔の姿を残したままの休憩所がある。そこに腰掛けて持ってきたポットからお茶を注ぐ。この駅にはどんなドラマがあったんだろうと考えてみる...。
想像力を働かせて、そんなストーリーを考えてみるべきではないのか。
西延岡駅や行縢駅の景観を考慮した場合、島式ホームと簡易駅舎、そして軌道は地域社会におけるコアな資源として活用されなければならない。戦前からこの場所にあり空間を形成してきた蓄積されるべき延岡の記憶を、無計画に壊してしまうような愚の骨頂は、いい加減に考え直さないといけない時代ではないのか。
聞くと、すでにトンネルは塞がれてしまっていると言う。今後どうするんだろか?何もアイデアも出さないまま、朽ちるのを待つのみであろうか?
と、いう事で、今、ゼミの学生達と"高千穂線跡を歩こう!!"という計画をたてている。現在管轄している市役所の企画課に聞いたら歩くのは問題ないとの事。もちろん、勝手に歩いて何かあったらいやなんで、行動計画を市役所に提示するつもり。
かつての車窓からの景観や、歩いてみてはじめて発見する事もあるだろう。
3月に実施予定。
霧島まで上司と出張した。ブリーダーのところへイヌを入手しにいったのだ。このイヌは動物を使ったセラピー(動物介在療法:Animal Assisted Therapy)のトレーニング用のイヌだ。
#移動用のボックスの中で寝ているところを携帯で撮影。
動物介在療法は、動物を使って人間の心理的・肉体的な癒しの効果をはかるもので、この意味では回想法なんかとも共通するところがある。
キャバリアという犬種のオスで、まだ生後100日経っていない。子供の時から訓練を受けさせるという訳だ。色は違うが、ちょっとだけ表情が奈良美智の描くイヌに似ていて愛嬌がある。はじめて外に出て、車での移動で、途中で食べたものをもどしてしまったりしていたが、いずれ慣れて落ち着いていく事だろう。
これから彼は延岡という地域社会の一員として、学生とともにがんばっていく事になる。
本日、1月19日(月)より、1月25日(日)まで、延岡市土々呂5丁目ギャラリー"ひまゆい"さんにて、"延岡土々呂再発見物語"という写真展を開催します。「nobeokatotoro03.pdf」をダウンロード
#1月21日(水)はお休み。
この写真展は、延岡景観倶楽部によって実施した、土々呂周辺地区のまちあるきにおいて、メンバーによって撮影された特徴的な景観をあらわす写真を展示したものです。
じっくり歩いてみて、はじめて気付いた延岡のまちなみの面白さを、是非ごらんになって下さい。
場所は、土々呂5丁目の雑貨屋"ペタンパタン"と"コニファー"さんがある路地の並びにあります。
先日、今年最初の機関車清掃を行った。
蒸気機関車保存会は高齢者が多いので、基本的に寒くて風が吹く1月はやらないんだけれども、
他のメンバーのように毎月ちゃんと行ってる訳ではないので、個人的な課題として行った。もちろん僕1人。
一人だと水洗出来ないから、運転席の中のゴミ拾いと機関車周辺を竹箒と熊手で掃く。
運転席に入って愕然。
ファーストフードを食べ散らかした跡、避妊具の入ってた袋なんかもある...。
さらに、南側の柵のワイヤーが一部切断されてる...。
機関車周辺の植え込みからは、犬のフンが入ったビニール袋が出てきた。
テンダ(機関車後部の炭水車)の右後ろに落書きが。この色の塗料、高いんだよ...。
器物破損で警察に届けておいたほうがいいかなと考えたが、前に被害届を出した窓のアクリルもちゃんと直していない。アクリル板は用意したんだが、加工がまだ。文字通り割れ窓でそのまんまにしておいたこちらにも責任があるかもな、と思う。ちょっと仕事が詰まってて余裕がなかったので、明日にでも市役所のK木さんの方へ連絡しないといけない...。
写真は全て携帯にて撮影。
市内博労町にある三共食堂へ、昼食を食べに行った。
博労町は、東京にある"馬喰町"と同じで、江戸時代の馬の飼育・管理に関わる場所だ。
店の前にある片側アーケードは、昭和27年に隣接する祇園町でできたものとほぼ同時期と考えられ、日本でも最古級の金属製アーケード(シルバーアーケード)だ。
店内に入ると、昭和中期っぽい雰囲気の漂う空間。テーブル座席と窓側に申し訳程度の畳を直線に敷いた座敷がある。狭い敷地内にそれでも座敷を残したという感じ。ラーメン屋なんかにこういった座敷が残っているが、食堂におけるこういった和洋折衷っていつ頃生まれたのだろうか?日本人の住環境や食文化の変化と深い関係があるのだろうか...。
店の真ん中に2本の丸い柱がある。一緒に行った建築家のS田さんによると、1本が支柱で1本が配管ではないかとの事。また、この柱の上、天井にあたる部分(梁)が面白いと言う。直線ではなく、途中で太さが段状に変化している。
狭いトイレやトイレのドア、鏡、壁の装飾といったさまざまな部位が、このお店の創建当時を思い起こさせる。あまりトイレを撮影するのも変なので、ここらでやめた...。
チャンポンを食してみた。実にあっさりした、細い麺。恐らく本格的な長崎ちゃんぽんが延岡に入ってくる以前に、地元の人々がつくりあげた"延岡チャンポン"な味。
延岡のB級グルメといったら、このチャンポンや豆腐の入ったおでんを挙げてみたい。
ところで昭和34年の地図をみると、この三共食堂は以前は"再来軒"という名前であったのがわかる。この再来軒は、昭和30年にこの場所で開店し、35年に春日町へ、さらに現在の旭町に移転している。webの記述によると、当時はカウンターだけの小さな店舗だったと書いているが、客室の東壁面に窓があるのは(一番左上の写真)この当時の名残なのだろうか?
さらに翌日、羽田から帰る前に電車に乗って横浜の根岸へ。今度は京浜工業地帯の方である。京浜工業地帯は川崎の方が結構近く撮影出来るらしいが、以前電車からみて、ここには一度行ってみたかった。
まずホームからすばらしい眺めが...、のはずが、貨物列車が影になっていてみえない....。それで、改札を出てとにかく工場側が見渡せないか、歩く。
途中、渋いビートルがあった。
一箇所いいところを見つけた。300mm位のレンズはやっぱりほしい。しかも昨日の千葉とは逆で、東京湾の西側は午前中だと思いっきり逆光になるのを忘れてた...。
帰りに、横浜駅に行って相鉄ジョイナスにあるタイ料理屋"沌 thong"でクイティッアォという汁そばを食べチャーンビールを飲む。なかなか美味かった。
思い立ってレンタカーを借りて、千葉県長南町にある笠森観音(笠森寺)へ行った。
かつて茂原市と、この長南町がある長生郡の文化財を管理していた3セクの総南文化財センター(現在は解散)の仕事を請け負っていた事があり、その時にこのお堂の話を聞き、前々から一度訪れてみたかった所である。
行ってみてその姿に圧倒された。堂が岩の上に完全に屹立しているのだ。清水寺の舞台とも似ているが、あちらは1面だけであり、あとは崖に背もたれている。それでも独特なものだが、こちらは完全に岩の上に独立して建てられており(四方懸造-しほうかけづくり-)、全て長さが異なる61本の柱が、堂を水平に保っている。
清水の舞台がM7.5の地震にも耐えられる構造であるという研究があるみたいだが、こちらはどうなのだろうか。
その後、富津市にある富津公園へ。東京湾に突き出た半島のようなかたちをしている。ここは戦時中、要塞でもあった。展望台がまた、面白い。
後で調べると五葉松をモチーフにしたものらしい。そういえば確かにそんなイメージ。高さ30mの頂上からは、東京湾を一望出来る。
国道16号線を北に走る。ここは京葉工業地帯である。道路の西側(海岸側)にずーっと工場が立ち並んでいる。すばらしい。どこか写真が撮れるところがないか、ポイントを探す。うろうろしてみるが車を止められるところがなかなか見つからず、今回はあきらめる。途中、京葉臨海鉄道が走るのを横目で見る。
千葉市内に入ってから、また探す。今度はいいところがあった!!時間的に夕方になってしまったが、美しいシルエットを観る事が出来た。さらに千葉ポートタワーへ。ここならば工業地帯を一望出来るはず。
すばらしい。今度は時間をかけて戦略を立て直してきてみたい。
若い命が失われるのはとても悲しい。
君も予想もしない一瞬の出来事で、まだ二十歳過ぎの短い人生を終える事となってしまったのには、死への覚悟も、先立つ準備すらもなかったのではないだろうか。
ただ一瞬の出来事は、君に苦痛を味わわせはしなかったのではないだろうかと、我々残された者達は考えている。そうあってほしい。
その悲報は突然であった。
真夜中に君の仲間からもらった電話は、少し酔いが回っていた僕をすぐさま覚醒させた。つい数日前、正月明けの研究室へ入ってきた君の姿はいつもと変わらず、生真面目だが、他人とのやり取りがちょっと苦手なシャイな所が、相変わらずだった。
だけど君は、僕のイメージした作業をもっとも忠実にクリアーしてくれる人物の一人であった。だからこそ、君には1年生の頃から、上級生がやるような少々難しい仕事を任せる事が出来た。
岡山から招いた僕の友人を講師として、現代社会において最も必要な知識である知的財産権のセミナーを開催した事があった。君は本学の通常の講義にはほとんどない新鮮な内容に眼を輝かせ、講師にしつこく質問する姿が印象的であった。
友人も君の姿勢に感心し、後からわざわざ君のために読ませてくれと、本を贈ってきたのであった。
延岡市の大きなイベントである"のぼりさるフェスタ"にボランティアとして活動してみる事を君に勧めたのは、君が少し違う視点で地域社会を見つめられたらいいなと思ったからであった。君は立派にコンピュータ担当のスタッフとして活動したと聞いている。紹介した身としては、嬉しかった。
コンピュータや情報に関する事をもう少し勉強したい。そして、いずれ情報化の進んでいない社会福祉の分野にその知識を持ち込んでみたい。一度だけ、そう話してくれた事があったのを覚えている。
将来君は、その真摯な態度を持って、必ずや新しい分野を切り開いていたに違いなかった。
君は全くの親不孝である。不慮の事故で子息を亡くされた親御さんの御気持ちは、いかばかりのものであろうか。そして君の兄弟や、友人達、君のゼミの指導教授をはじめ、我々関わった教員達に、その早い死は大きな風穴となってしまったのだよ。
君は高鍋藩士の系譜に連なり、藩校の精神を受け継ぐ学舎で薫陶を受けた。そしてまた、高祖父が切り開いた理想郷、茶臼原の大地に還って行くのだろう。
K君。
君の意志は、君の兄弟や君の仲間達が受け継ぐだろう。
安らかに。