延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

キヲクの彼方。-震災から考える事(5)-

2012-04-08 22:31:25 | インポート

震災から考える事(5)

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震災のような大きな災害は、日常では見えにくくなっている文化資源と社会との関係性を浮き彫りにする事がある。先の土地との関係性は、あたかも遺跡が復興の妨げになっているかのような解釈を生じさせてしまうが、そうではない。よくよく考えてみれば生きるための手段やら科学技術の進歩やらに大きな変革があっても、住環境としてヒトが好んで住む生活空間はそう変わらないものであるという点がはっきりとわかる。たかだが千年程度のヒトの営みよりも、むしろ気候の大きな変動という地球のダイナミズムにはまるっきり及ばないのだ。

そうであるならば、ヒトが何故そこに住むのか、住まなければならないのかを、恐らくその事をすら忘れてしまっている人々自身に納得させる手段として文化資源を使っていくという手がある。

阪神淡路大震災後に、復旧した古い建築を有効に活用していく手段が講じられた。それが兵庫県のヘリテージマネージメントという考え方である。歴史的建造物を保存・活用するためには維持管理が必要だが、その為には一定の知識と技術が必要となる。阪神淡路大震災以後急務となったのはそうした専門家の不足で、なかなか修復が及ばない事から解体せざるを得なくなった建造物も存在した。市井にそうした専門家・専門的知識を持った人々がいれば、状況も少しは好転してくる。そこで建築士を主たる対象として、歴史的建造物の保存管理に関する知識と技術を修得してもらうという制度(ヘリテージマネージャー制度)をつくっている。

この制度の推進は、建造物の管理・維持のみならず、より建物を使っていこうという活用の機運が生じる事を狙ったものであり、実際にこの制度を実施してからの10年で、兵庫県の登録有形文化財数は全国最多となった。

登録文化財は指定文化財に比べて基準・制限が緩やかな制度で、外観がおおもとの状況を保っているならば内装を現代風に改装する事も可、というものである。従ってレトロな外壁に現代風のオシャレなカフェやオフィスをアレンジするのもOKで、しかも文化財であるから、国や地方自治体の補助を受ける事も出来る。元々ファッションやデザインに優れたセンスを持っている神戸という都市を有する兵庫県では、このヘリテージマネージメントを推進して、こうした文化資源を可能な限り現代に活かしていくという選択をより鮮明にしている。耐震強度偽装問題以降、建築物、特に古い建物の耐震性がクローズアップされ、それを理由に解体されてしまう歴史的な遺産が後を絶たない。だが、どうもそれは一部の建築関係者さえにも登録文化財の柔軟さが理解されずに、指定文化財のガチガチな保護のイメージが敬遠されてしまっているからではないだろうか。

阪神淡路大震災から17年経った今日、神戸の街を歩いてみてよくわかるのは、古い建物を壊して全く新しい街並みを形成した三宮駅周辺と、古い建物をなんとか保存して登録有形文化財を増やし、現在に活用している元町駅周辺とで大きな違いがある事ではないだろうか。前者は商業地として栄えているが、まるで東京の品川あたりにでもいる雰囲気になっているのに対して、後者は戦前からの神戸の雰囲気が今だのこされているのだ。


キヲクの彼方。-震災から考える事(4)-

2012-04-08 22:23:29 | インポート

震災から考える事(4)

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埋蔵文化財とは、文化財保護法では「土地に埋蔵されている文化財」を指す。要するに考古学的な調査によって確認された遺跡や、その遺跡から出土した 出土品の事である。ヒトは昔から住みやすい所には多く居を構えたようで、特に狭い日本では選地が限られている。従って時代は移り変わっても同じ土地が何度 も利用されていたという事例はとても多い。現代に至ってもそうした傾向はあるし、さらに大規模な開発は過去の土地利用の痕跡を破壊して新しい都市計画を遂 行せざるを得ない。

現在、日本の発掘調査のほとんどは学術研究を目的とした調査よりも、こうした開発に伴って事前に実施される「記録保存」を目的とした調査である点は 指摘されて久しい。バブル期前後に比べると調査件数は大きく減少しているもののそれでも開発に伴う事前の調査が主である事にはかわりはない。阪神淡路大震 災の際、被災した土地の再開発を行う際にもこの事前の調査が問題となった。該地は地理的な条件に優れた場所であり、特に弥生時代以降に多くを占める埋蔵文 化財包蔵地とされていたので、調査を行わなければならない。しかしながら調査によって再開発が遅れてしまうという結果を招いてしまうので、生活の回復を待 ち望む被災者心理にも影響を与えたのであった。

当時、文化庁は早急な調査を遂行するために兵庫・関西圏のみならず、全国の自治体や埋蔵文化財センターに所属する文化財担当者の応援を仰いだ。彼ら は非常に限られた中で調査を行いながら、尚且つ地域住民に対して出土する数々の歴史的を説明・紹介し、調査によって開発が遅れてしまう点に対しても理解を 仰いでいたのを覚えている。だがそれでも、開発の遅れに対する不満は、被災者の間から出ていたと聞く。

時が流れ、東日本大震災発生後の今日においても同様の問題が生じつつある。東北地方の太平洋沿岸部、特に三陸海岸周辺は現在でも良好な漁場である が、縄文時代にも多くの貝塚をのこしており、ここでは豊富な水産資源を主体とした生業活動が営まれていた事が判る。そしてこれらの遺跡は我々日本人の祖先 の足跡を十分に理解するに足る重要な痕跡であり、研究上からも古くから高く評価されている。従って国指定の史跡も多く、あるいはそこから出土した資料は第 一級の価値を持っている。縄文時代の貝塚遺跡の多くは時期によって多少の違いはあるものの、高台に築かれている場合が多い。

さて、低い土地で津波の被害を受けた被災者は、高台への集落移転を望む声も多いという。

ここで問題となってきているのがこれら埋蔵文化財の存在である。特に重要な国指定史跡の範囲と移転候補予定地とが重なってしまうケースの場合、住民の生活と貴重な歴史遺産の保護のどちらを優先させるのかという議論が起こっている。史跡には指定されていないものの、埋蔵文化財が存在する範囲とされている場所では、阪神淡路大震災の時と同様に手続きを簡略化した緊急の発掘調査が行われている。だが調査によって生活空間の回復が遅れてしまう事に対する住民からの不満が発生するリスクは想像するに難くないだろう。史跡と同じく文化財保護法によって保護されている特別名勝である松島に関しては、その範囲内に一部集落移転が認められた。松尾芭蕉の『奥の細道』をはじめ、日本人の心象風景を形作って来た最も著名な場所の一つであり、国民のみならず、世界中の人々に日本や日本文化というものを知らしめてきた存在である。従って松島の景観保護にはこれまでも力が入れられてきた。


3月31日から4月1日へ。

2012-04-01 23:32:43 | 其れ以外
年度末から新年度へ。

毎年繰り返されるこの通過点は、ここ数年大きくかわらなかった気がする。だが、今年の3月から4月へは少し違うのだという気分がある。

色々あった。特に昨年の3月11日以降は、かつての1月17日の時の自分の無力感を思い出させた。すなわち、何も出来なかった。十数年前の僕は、自分の仕事で一杯一杯で、何も出来なかった。その時と同じように、再び大きな災害が起こった時、動く事が出来なかった。

技術や知識も修得し、そこそこの災害に対して実際にアクションを起こし、周辺とともに活動をはじめるという所までいた。しかしながら、いざ、という時何も出来なかった。様々な条件に拘束され、仕事を投げ出してまで動く事が出来なかったのである。行動する事が可能な立場に自分を持っていけていなかった。

文化財と災害救助のシンポジウムを開催し、3.11に関わる写真展示を行う事で、遠く離れた九州の地においても震災を認識するという事を行ったりした。しかし、自分がやる事はこれだけなのか?

3月31日で、色々区切りがついた。これから、どうアクションしていこうかと思案している。