延岡というまちをアーカイブ化していくには。

延岡というまちについての記憶を考えていく。

社会の課題解決にむかうという選択。

2015-06-16 17:33:12 | 保存
地域性の強い文化資源が、かろうじてつながっている地方のコミュニティを維持させるのに強く関係していて、それが自然災害や盗難という外部からの力によって、コミュニティ内部に不信感まで生じさせてしまうという事を、ある所のお話を聴いてよく理解出来た。

また、少なくとも九州各県では、特に後者の問題に対して何も対策がとられていないという事を承知した。極めて重大な課題を突きつけられたと感じている。

3.11以前、「地域コミュニティとの関係に文化財に関わる我々も関わるべきであり、我々の仕事自体も変化していくべきではないか」という話を県内で話しても反応は薄いなと思った。3.11以後も、九州地区の文化財保存の研究会で同じような話をしても、京都から来られた人以外には「ポカ~ン」とされてしまった経験がある。それが最近になって大きく変わりつつあるのではないか、と感じている。

一昨日の九州国立博物館でのシンポジウム『地域と共に考える文化財の防災減災』にパネラーとして参加し、さらに翌日の専門家向けの会議にも参加して、そうした考えが専門家の間でも明らかに強くなっていると理解したし、大きな課題を突きつけられたと感じている。

今後我々の仕事は社会の課題解決に対峙するという方向に舵を切ったのだ、とも言えるだろう。

安政南海地震に関する資料。

2014-04-10 06:01:13 | 保存
大変興味深い資料を確認した。
安政南海地震に関するもので、当時の人々の様子が記載されている。
文献ではない文字資料としては、少なくとも宮崎県では確認された唯一のものではないだろうか。

何よりも地区の人々が守ってきたという点が重要である。
文字等が確認しにくくなっているので、ちかじか詳細な調査分析を経て公表したいと思う。


臼太鼓踊りの記録化を目指して。

2011-09-25 12:15:53 | 保存

九州に多い臼太鼓は豊饒祈願や雨乞いなど色々な意味合いをもっているが、中には戦国期の合戦の遺風を伝えているものもある。延岡市行縢(むかばき)地区の臼太鼓踊りも、島津氏と大友氏の争いにおいて、島津側が自陣を鼓舞するために行われたのを起源としているという。

無形文化財、特に民俗芸能は伝統的とされながらその時その時の条件で少しづつ変化している。

今生きている我々は、「昔は一体どういう形だったのだろうか?果たして今は失われているモノゴトを、もう一度復元してみるにはどうしたらいいのか?」と考える事がある。それは自分達自身を見つめ直す行為であるのだが、いざ振り返った時、遺されているものがあるかないかで、考える事は大きく異なってくる。その後の人生すら変えてしまう事もあるかもしれない。無形文化財の記録化の意義は、大きくはそこにある。

行縢の臼太鼓踊りを記録化する事になった。今日はその前に打ち合わせ。練習をされている公民館にて、広さを確認したりした。
Dsc_9927 Dsc_9929








Dsc_9937 衣装の収蔵庫。ここで衣装だけでなく、関連する資料の保存を出来ないかと思った。実際、地域社会に関わる資料は個人単位でキープされているので、散逸してしまうケースが多いのだ。











Dsc_9932 昭和32年、バスが開通した時に踊った際の記念写真。





Dsc_9939 背中に背負うのぼりの下部に描かれた文様。これが何を意味しているのかすでにわからなくなっている。興味深い。




伝承用の記録化は10/19の夜からはじめる予定。あと行縢神社での奉納はその後。


未指定物件をどう扱うのか。

2011-04-19 06:42:36 | 保存

東日本大震災において文化庁が中心となって組織している文化財レスキュー事業では、対象物が指定・未指定に関わらず救出が行われるとされている。実際、所蔵施設では指定・未指定に関わらず混在している状況も多く、現場で取捨選択の判断は難しい訳なのでこの判断は正しい。

一方、災害時での自治体の対応マニュアルでは、災害後の罹災状況確認が行われるのは指定・登録等を受けている文化財、ないしは博物館等で所蔵している資料に限定されているケースが多い。

かつて阪神淡路大震災での文化財レスキュー等においては、当時は有形文化財の悉皆調査が行われてこなかった事もあり、特に個人所有の未指定物件の所在の多くの棄損状況が確認出来なかった事があった。実際には現在でも多くの自治体でそのような未確認状態が続いている。

より正確に言うならば、特に近代以降のモノが市民から文化資源として認識・価値付けられ、極めて広範囲の分野に及んでいる現在、"未指定"という資料群は増加の一途を辿っている訳である。従ってこれらを自治体担当者が全て災害時の被害確認の対象としたり、あるいは実際に災害救助の対象にしたりする事は難しい。

未指定の対象をどう考えるか。写真はその中でも代表的な資料として考えられるだろう。特に東日本大震災においても、個人所蔵の写真をなんとかしてのこしていきたいという話が数々のメディアを通じて流布している。フジフィルムやコダック等大手写真メーカーも、災害時の写真資料の取り扱いについて、この震災を受けて公開している。

平成17年の台風14号による大規模な水害、通称延岡水害において個人所蔵の写真資料を救助し、それを修復・複製したが("宮崎県における文化資源災害救助対策の現状と課題")その後これらをどのように活用していくか、何のために保存していくのか、という文化資源保存の根本的とも言える問題点に対峙する事となった。

地方自治体における文化財保護担当者や博物館等関係者数は自治体によって差があるものの、物理的に文化資源を守っていくには、人員が少ないケースが圧倒的である。さらに自治体の義務あるいは私有財産に対する権限という観点から考えても、例えば宮崎県を事例としても、災害時における文化資源の被災状況確認は、指定物件や博物館等施設での所蔵資料に限られているのは止むを得ないだろう。

さらには市町村合併以降の文化財保護条例の見直しによって市町村クラスの文化財指定の見直しが進み、指定から外れるケースも生じている。

だが、これら指定を受けていないものを含めて、文化資源が地域コミュニティーの紐帯としての性格を持っている事例も多く、これらをどう守っていくかがこれからの課題としてある。

国土交通省九州地方整備局が、水害をもたらした河川(五ヶ瀬川)を激甚災害対策特別緊急事業によって整備する際に挙げたスローガン(プロジェクト名)が"みずからまもる"であった。すなわち水害から身を守るには、工事を行う側だけでなく、地域住民が自分自身で守るという意識が必要という考え方である。これは文化財を守る上でも極めて重要であると認識出来る。現代的認識にたった新たなコミュニティーレベルでの活動の必要性を強調したい。

一つには地域社会において、文化資源を守るための活動を徹底して行っていく事である。文化財防火デーでは全国自治体の半数超で防災訓練が実施されておらず、形骸化しつつある。今後は小回りの効くコミュニティー単位での災害救助の一環として計画していく必要性がある。

もう一つには、"何故守っていかなければいけないのか?"という疑問に答えるために、文化資源を積極的に活用していく事である。それがし易い対象こそが未指定物件である。この辺りは建造物保存の分野において多くの事例が蓄積されているが、博物館のみならず、個々人が誰でも所蔵している地域社会に関わる写真は、極めて有用に活用出来る。

実際に都市景観形成や、高齢者の介護予防として行った回想法、さらにはそこから展開した中心市街地の活性化といった、現代的な認識における都市計画に反映させている。

このように資料が有用であるという認識を市民にも持ってもらった上で、改めて防災への取り組み、特に"みずからまもる"という意識にたった非常時の対応を、より実際的・現実的に行っていかなければならない。

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#上記は平成23年4月17日、"第15回 中・四国九州保存修復研究会"(至九州歴史資料館)において行った発表の内容。一部省略。


写真を救い出すために。(ver.1)

2011-04-08 10:29:53 | 保存

写真保存の必要性が、これほどまで重要視された事があっただろうか、今はそう思います。

前にベータ版として出したものの改定版です。

pdf版もつくっておきました。

「photoresc.pdf」をダウンロード

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写真を救い出すために。

特に水害にあった写真の緊急の処置について、過去我々宮崎県歴史資料ネットワークが行ってきた経験から簡単にまとめてみました。

1: 写真を救い出すことの意味。
・災害から助かった方々は、亡くなった方々の分まで強く生きていかないとなりません。これから悲しみや不安を乗り越えていかなねればならない場面が出てくるかと思います。今後心やすらいで生活をおくる上で、写真のような思い出、自分や家族の人生の軌跡をたどれる品々がのこされていると、以後の心の持ち様にも影響を与え、これから強く生きていく事にもつながります。

・難しい中で災害現場からなんとか写真を持ち帰る事ができたとしても、水に濡れてしまっていたり、泥で汚れてしまったりしていると結局写真がだめになる事もあります。完全とはいきませんが、これをなんとか綺麗にしていきたいと思います。

2: 早い時間ならば、洗って乾燥。
・部分的にしか水に浸かっておらず早めに救出出来た場合、もしくは一度浸かっても乾燥している場合には一度さっと綺麗な水で洗い、クリップや洗濯ばさみで乾燥させるという手があり
ます。

・写真の表面同士、あるいは表面と裏面が重なって貼り付いてしまっている場合があります。写真をアルバムに貼り付けていない場合、あるいは三角コーナーなどで固定されているけれどもアルバムから剥がしやすい写真の場合、写真同士が貼り付いてしまっている事があります。人肌よりややぬるい程度の水につけてゆっくり剥がしていくと、少し画像表面が曇ったり、場合によっては一部壊れる事もありますが、そこそこ上手くいきます。

・問題なのはそれ以上の時間水に浸かりっぱなしで、画像がふやけたり溶け出しているケースです。長時間水に浸かっていながらも、部分的に画像が残っていた写真を救出出来た場合、写真をとにかく乾燥させる事が先決です。写真を1 枚1 枚広げて触らないように自然乾燥させれば、ある程度もとの状態に回復します。


3: カビが生えます。

Dsc_0003b2 ・写真は濡れてしまうとカビが生えやすいです。冷蔵庫・冷凍庫などに入れて低い温度にしておくと繁殖が遅くなりますが、それでもカビは生えてきます。特に写真は画像にカビが生えてしまうと、取り除くのが難しいです。可能ならば水分を除去できる状況にする事が必要です。

・余裕があるならばキッチンペーパーや、なければとりあえず新聞紙などを押し付けて水分を吸収します。

・表面にシートを貼るタイプのアルバムは、中に水がたまっています。この場合、アルバムを剥がさないと水分を吸収する事が難しいです。枚数が多い場合にはとにかくどうしても必要な写真を優先的に剥がしてしまう事をお勧めします。

・さらに専用のフィルムクリーナー( 通常のエタノールでは強すぎる場合があります) があればこれで可能な限りふき取って下さい。写真屋さんで売っています。ただし、紙の繊維の中に入り込んだカビはなかなか完全にはとれません。

Dsc_0073b2 4: 画像が壊れます。
・カラー写真の場合、写真に使われている色素が水を含むと溶けてしまい、画像が流れてしまいます。また、アルバムの表面シートに画像が貼り付いてしまう場合があります。古いモノクロ写真では、画像がひび割れてしまいます。この場合、画像があまり壊れていなければ写真を剥がす事が先ですが、難しい場合は、台紙ごと切り抜いてしまった方が手っ取り早く、カビから救う事が出来ます。シートに貼りついていたら、シートごと切り取って下さい。

#ひび割れたモノクロ写真の画像を定着させるには、バインダー( 樹脂) を使います。富士フィルムのアートエマルジョンバインダー( 黒白写真乳剤用下塗り剤) を水で溶きます( バインダー:水= 1:2)。ただしいささか専門的になってくるのと、写真関連の薬品が入手しにくくなっていますので、専門家に任せた方がいいかもしれません。

5: ニオイがします。
・水害などであふれてきた水は色々な菌を含んでおり、ニオイの発生源となります。アルバムのように紙が重なったようなものは特にストレスの原因になります。ニオイを取り除くには相当の時間がかかります。これが処理のストレスにつながるので、必要な写真を台紙から剥がしてアルコールで拭く等の処置を行った方が早いです。

Dsc_0041b2 6: 複写する事。
・写真の枚数が多い場合、一枚一枚保存のための処置を行っていたら間に合わなかったりします。こういう時はデジタルカメラで複写したり、スキャナーで取り込んだりして写っている画像をのこす方が早いです。

7: 余裕があれば現状記録。
・写真が現状でどういう状況にあるか
を記録しておく事は、後々同じような状況があった場合に非常に参考になります。ただしこれは余裕がある場合です。写真の劣化はとても早く進行しますから。

8: その他
・写真にはプリント以外にも、ネガフィルムがあります。ネガはプラスチック樹脂なので丈夫ですが、表面は劣化します。フィルムクリーナーで拭き取ればきれいになります。

・フィルム以前のネガは、ガラス製の乾板でした。割れやすく、修復が難しいので、これが見つかった場合は専門家に相談しましょう。


平成23 年4 月8 日 文責:宮崎歴史資料ネットワーク 山内利秋


写真を救い出すために。(ベータ版)

2011-03-28 11:31:35 | 保存

特に水害にあった写真の緊急の処置について、過去我々が行ってきた経験から簡単にまとめてみました。

#ベータ版です。キチンとしたものを書いたらそちらをアップします。

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1:写真を救い出すことの意味。
・災害から助かった方々は、亡くなった方々の分まで強く生きていかないとなりません。これから悲しみや不安を乗り越えていかなねればならない場面が出てくるかと思います。今後心やすらいで生活をおくる上で、写真のような思い出、自分や家族の人生の軌跡をたどれる品々がのこされていると、以後の心の持ち様にも影響を与え、これから強く生きていく事にもつながります。

・難しい中で災害現場からなんとか写真を持ち帰る事ができたとしても、水に濡れてしまっていたり、泥で汚れてしまったりしていると結局写真がだめになる事もあります。完全とはいきませんが、これをなんとか綺麗にしていきたいと思います。

2:早い時間ならば、とにかく乾燥。
・写真を水害から比較的早い時間に救出出来た場合、写真をとにかく乾燥させる事が先決です。写真を1枚1枚広げて触らないように自然乾燥させれば、ある程度もとの状態に回復します。

##水害から48時間以内ならば、一度綺麗な水で洗うという手もあります。ただし現場の状況を考えると難しいかもしれません。

・写真をアルバムに貼り付けていない場合、あるいは三角コーナーなどで固定されているアルバムに貼られている写真の場合、写真同士が貼り付いてしまっている事があります。人肌よりややぬるい程度の水につけてゆっくり剥がしていくと、少し画像は壊れますが上手くいく事があります。

3:カビが生えます。
・写真は濡れてしまうとカビが生えやすいです。冷蔵庫・冷凍庫などに入れて低い温度にしておくと繁殖が遅くなりますが、それでもカビは生きています。特に写真は画像にカビが生えてしまうと、取り除くのが難しいです。可能ならば水分を除去できる状況にする事が必要です。

・余裕があるならばキッチンペーパーや、なければとりあえず新聞紙などを押し付けて水分を吸収します。

・表面にシートを貼るタイプのアルバムは、中に水がたまっています。この場合、アルバムを剥がさないと水分を吸収する事が難しいです。枚数が多い場合にはとにかくどうしても必要な写真を優先的に剥がしてしまう事をお勧めします。

・さらにエタノールがあればこれで可能な限りふき取って下さい。ただし、紙の繊維の中に入り込んだカビはなかなか完全にはとれません。

4:画像が壊れます。
・カラー写真の場合、写真に使われている色素が水を含むと溶けてしまい、画像が流れてしまいます。また、アルバムの表面シートに画像が貼り付いてしまう場合があります。古いモノクロ写真では、画像がひび割れてしまいます。この場合、画像があまり壊れてなければ写真を剥がす事が先ですが、難しい場合は、台紙ごと切り抜いてしまった方が手っ取り早く、カビから救う事が出来ます。シートに貼りついていたら、シートごと切り取って下さい。

###ひび割れたモノクロ写真の画像を定着させるには、バインダー(樹脂)を使います。富士フィルムのアートエマルジョンバインダー(黒白写真乳剤用下塗り剤)を水で溶きます(バインダー:水=1:2)。ただしいささか専門的になってくるのと、写真関連の薬品が入手しにくくなっています。

5:ニオイがします。
・水害などであふれてきた水は色々な菌を含んでおり、ニオイの発生源となります。アルバムのように紙が重なったようなものは特にストレスの原因になります。ニオイを取り除くには相当の時間がかかります。これが処理のストレスにつながるので、必要な写真を台紙から剥がしてアルコールで拭く等の処置を行った方が早いです。

6:複写する事。
・写真の枚数が多い場合、一枚一枚保存のための処置を行っていたら間に合わなかったりします。こういう時はデジタルカメラで複写したり、スキャナーで取り込んだりして写っている画像をのこす方が早いです。

・余裕があれば現状記録。
写真が現状でどういう状況にあるかを記録しておく事は、後々同じような状況があった場合に非常に参考になります。ただしこれは余裕がある場合です。写真の劣化はとても早く進行しますから。

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####上記は平成17年の台風14号による延岡水害の際に、宮崎歴史資料ネットワークが行った作業をもとに記載しています。


宮崎県を中心とした南九州の歴史資料の保存にかかわる方々へ。

2011-03-21 13:47:23 | 保存

宮崎県内、ならびに広く南九州の博物館・図書館等機関及び文化財保護関連各機関・担当者の方々へ

去る3月11日、東北地方太平洋沖地震(東北関東大震災)とそれに伴った津波によって、東日本各地で大きな被害がもたらされました。被害者の救命・ライフライン確保が今まさに行われている段階ではありますが、そう遠くはないうちに精神面のサポートや、地域社会での様々な復興を考えていく段階に入っていくものと予想されます。

多岐にわたる歴史資料は、地域社会のアイデンティティーに関わる文化や人々の記憶を繋ぎ、コミュニティーを維持形成していく上で極めて重要なものです。まだ全容はつかめませんが、今回の災害ではこれら資料が失われたり、大きな被害にあっている事は間違いありません。

阪神淡路大震災以降、こうした資料救助を行う事を目的とした歴史資料ネットワーク(本部、神戸大学)が専門家を中心に組織されており、今後被災地に入ってこれら資料の救出にあたると思われます。

しかしながら、今回の地震の被災の規模は甚大かつ広範囲にわたるものであり、今後、長期にわたる活動が必要とされることが予想されます。

我々宮崎歴史資料ネットワークは、災害救助法が適用された平成17年の延岡水害の際、小規模ながら文化資源の災害救助活動を実施し、以後県内で危機が起こった際にも備えております。

今回の東北地方太平洋沖地震には、宮崎からは地理的にも物理的にも遠く、直接的な援助は難しいと思いますが、東北・新潟等各県の歴史資料ネットワークの活動を支援していきたいと<wbr></wbr>思います。

つきましては、下記、及び添付 の通り、歴史資料保存にかかる救済活動を支えていくための募金活動を実施しております(募金活動主体は歴史資料ネットワーク本部)。なにとぞご協力の程、よろしくお願いいたします。

宮崎歴史資料ネットワーク
山内 利秋 e-mail:yamatosh@phoenix.ac.jp

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東北地方太平洋沖地震(東北・関東大震災)による被災歴史資料保全活動支援募金
(郵便振替)口座番号:00930-1-53945
加入者名:歴史資料ネットワーク

WEB上からのお振り込み
銀行名:ゆうちょ銀行(コード9900)、店番:099 預金種目:当座、店名:〇九九店(ゼロキュウキュウテン) 口座番号:0053945

「s-net_tohokujishin_bokin.pdf」をダウンロード


文化財の価値と信仰のはじまり。

2010-12-28 14:16:57 | 保存

職場のすぐ近くに南方古墳群(みなみかたこふんぐん)という所がある。5世紀を主体に無数の古墳が点在しており、周辺を道路が走る。国指定の標識を見ながら通勤する毎日でもある。

この古墳は、大正2(1913)年から昭和初期にかけて鳥居龍蔵が発掘調査を実施し、WW2中の昭和18(1943)年には国指定史跡になっている。この鳥居による調査、あるいは鳥居にこの遺跡を知らしめる事となった在野の研究者による調査が、地域のアイデンティフィカルな存在としてこの古墳を表象化していく重要な役割を果たす事となった点が大変興味深い。

20101123dsc_3829 例年11月末に、この古墳群のある南方地区では"古墳まつり"が催されている。史跡公園の活用という事からイベントとしてのまつりが開催される事例は全国でも多く、例えば県内の西都原古墳群でも例年、市民のまつりとして同じ11月に古墳まつりが開催されている。

20101123dsc_3837 20101123dsc_3836 だが、南方の古墳まつりはこうしたイベントではなく、祭神を祀った本来の祭の形態を今でも保っているのだ。保っているという言い方をしたが、それは新嘗祭でもなく、伝承された伝統民俗芸能が繰り広げられている訳でもない、決して古くはない祭りである。

20101123dsc_3835 大正2年、前方後円墳の後円部を削平した上に建てられた神社(天下-あもり-神社)の社殿改修時、平坦面を拡張しようと墳丘を削っていった際に石室が検出された。これを切っ掛けに鳥居らによって実施された発掘調査の結果から古墳の概要が明らかになり、この祭が始まったのだと言う。

社殿改修時の逸話が残る。石棺の覆土を剥ぎ取る際にカラスの大群が押し寄せて、作業を妨害したという話だ。このカラスがキーワードである。すなわちそれはヤタガラスに繫がり、天皇家との関係をイメージさせる。ニニギノミ コトを祀るこの神社において、キリスト教の「奇跡」のような現象が発生したというのだ。

当初は地権者が祠にお供えをしたような小さなものだったが、次第に規模が大きくなり最盛期の昭和40年代後半から50年頃には福岡あたりから客が来たり、神楽を別の地区から呼んで舞ってもらったりしていたという。古墳顕彰会は昭和50年に発足しているが、この年は文化財保護法の第2次改正が行われ、埋蔵文化財と民俗文化財の保護に大きな変化があった。詳しく調査はしていないが、もしかしたら保護法・保護条例の改正の動きを受けながら補助事業の受け皿となるべき団体を組織した可能性がある。

この時期には既に、祭りが古墳のある南方(みなみかた)地 区におけるシンボリックな存在として機能してそこそこの年月が経過しているのだ。現在、祭りの規模は以前に比べて小規模化しているが、それでも地域住民が多数参加している。

すなわちこの様相は、考古学的調査によって見出だされた文化資源が、地域社会の象徴的秩序として機能しているのではないだろうか。

実は先にはイベントと化したと書いたが、西都市の西都原古墳群のまつりは、本来はとても古い。元々は近くの三宅神社に応永年間から伝わった山稜祭であった。ところが祭りが衰退した事でこれを観光イベント化し、どちらかと言うと地域コミュニティにおける象徴性は失われてしまった状況にある。この意味で西都原古墳群の古墳祭りは、南方神社の古墳まつりとは対極にある。

20101123dsc_3857 近代の文化財保護にかかる伝説の誕生が祭りの発生を促し、地域社会における紐帯たる存在として機能してきた。一つはこのプロセスを明らかにし、もう一つは今後の文化資源を活用した地域社会の活性化とどう関連付けていくかという点で、南方古墳群の例は極めて興味深い対象であろう。

さらに面白いのは、この南方地区が、「ヤマ」と「マチ」との接点に存在するという点だ。伝統的な祭祀が現在も色濃く残る宮崎県北部山岳部における伝統的社会と、城下町以来地方都市として発展してきた延岡市街地との丁度中間に位置するムラ、旧南方村という行政区分に存在するこの古墳-神社において、近代化が進行していった過去のある時点において都市化と伝統的な地域コミュニティーの維持との間で揺れ動いた結果が、この祭りを誕生させたのではないだろうか。

そんな事を、想い巡らせている。


文化財ではなく、文化資源。

2009-12-17 23:53:19 | 保存

"文化財"という用語は文化財保護法あるいは文化財保護条例に則って指定を受けた対象の事を指す。従って指定を受けていない対象を文化財と呼ぶのは正しくない用法である。

文化遺産というともっと包括的な意味になるのだが、"世界遺産"のようにスケールが大きいものがこれの対象になるイメージがあって、極めて狭い地域性の中で育まれてきた小さな対象をこの言い方で呼ぶのは、これまた似合わない気がする。

英文ならば"material culture"、中文ならば"文物"などという優れた言葉があるのだが、日本語にこの言葉を外来語として持って来ようとしてもいまひとつ使いにくい。では、"物質文化"とか"人工物"などというのはどうかというと、これまたしっくりこない。さらにはピエール・ブルデューが言う"文化資本"ではどうかというと、これもまた違う対象を含んでいるので、意味が異なってしまう。

東京大学が大学院に文化資源学研究専攻というのをつくった時、うまいネーミングだなあと思った。"社会資源"にも対比出来るような、地域に眠るポテンシャルをもった対象を掘り出していくのにもぴったりだと。

現在、こうした文化資源をどう保存・活用していくかという事に取り組んでいるのが、まさしく僕の現状でもある。そこにあるのは文化財保護法や文化財保護条例の対象には未だなり得ない(なってもおかしくないものもある)、モノ・コト達である。蒸気機関車にはじまり、写真・中心市街地の商店街・山間部の集落・伝統的漁撈・まちなみや工場の景観....。

そこには文化財というくくりになってしまったものには既に失われた場合も多い、社会やコミュニティー、生活の場というものが確固として存在しているのだ。文化財の保存というのは、究極にはモノそのものを保存する事ではなく、モノの中に記憶された先人の知識や知恵を引き出し、今を生きる我々がそれを解釈して未来につなげるという役割を持っている。

だから、モノが実際に使われ、人々やその社会が実際に存在するというのは喜ばしい事なのである。もちろん、だからこそそこで生きる人々と対峙し、融和し、共に生きていかなければならないのだという事を、最近つくづく感じる。

そしてそれは、"文化財保存"というくくりのみでは単独で為せる性質のものではない事が極めてよく見えてきた。時に体をあちこちから引っ張られて拡げられ、さらには中心部を打ちのめされてしまうような、また、時には同じ汗をかき、喜怒哀楽を共にする事でしか共感し合えないような、そんな状況にいないとモノ・コトを理解し、そして将来へ継承する事は難しい。

このような中、一人の研究者・教員として大学に身を置いている僕には-多くの方々からはそうは見えないかもしれないが-、極めてストイックな精神状態が要求されている。要するに、ある状況の推移を見守るには、一定の客観性を保たなければならない、常に一歩引いた姿勢でいなければならないからだ。

物事の法則・規則性を確かめて理論にまで昇華させていくには、事例がどのように変化を遂げ、どのようなカタチになっていくかを反復的に確認していかなければならない。そのためには、物事の推移を注意深く見守るという役割がある。

だが、時には物理的な現象、すなわち、ここでは何らかの方法で直接的に関与する事で、実際に変化を促進出来るかどうかを実証するのも必要な場合がある。

しかしながら自分や、自分の周辺による関与・非関与を見誤ってしまっている時も恐らくあるだろう。社会というものは化学物質とは訳が違うし、関与する側・される側も主体は人間であるからだ。従って予測の付かない方向に行ってしまったりもする。時々にはそれが思ってもみなかった良い方向に行く場合もあれば、そうではない時もある。後者の場合、これ以上関与するべきなのか、それとも反作用を警戒して何もしない方がいいのか、という判断に戸惑う事も多い。

例えば自分以外の人間を自分のかわりに関与させる事は、その人間を成長させる上で重要な経験になるが、また一方でリスクを生じさせてしまう結果もあるだろう。

何かをすると、結果的に泥沼化してしまう事もある。しかし、自分から入っていった事-必ずしもすべてが、自分が望んだ事ではないにせよ-に関しては自ら責任を果たさなければならないというのが僕の立場であり、役割なのだろうと考えている。


日豊本線の線路一覧略図から。

2009-12-13 14:48:24 | 保存

Dsc_5814 蒸気機関車保存会関連で、"線路一覧略図"を頂いた。これは線路の配線や断面・区間を一つの図面にまとめたもので、蛇腹状の冊子になっている。

頂いたものは昭和32年に大分鉄道管理局が発行したもので、行橋駅から広瀬駅(現在の佐土原駅)までの区間が掲載されている。どうして宮崎駅までないかと言うと、広瀬駅までが大分管理局の南延岡保線区が管理した区間だからである。

実際に使用されていたものであるが、みると大変機能的につくられているものである事がわかる。地図としての縮尺は、横の長さが1/50,000、縦の長さが1/1,000という大変変形した縮図だが、冊子としてみる時これが丁度良い。

隧道(トンネル)や橋梁・踏切等の細かな名称や幅員、橋梁のスパン、基点である門司港の最低潮位を基準とした基準高からの高さ等が一目で理解出来る。

蒸気機関車にとって、勾配を把握する事は燃料消費量を的確に知る上で極めて重要であるが、これなんかは最も視覚的に把握しやすいようになっている。

Dsc_5815 例えば延岡駅-南延岡駅間をみてみると比較的フラットな勾配であるが、川中地区の須崎町の先端、五ヶ瀬川橋梁の部分が高くなっている。これは延岡駅を過ぎて幸町から五ヶ瀬川橋梁にかけてグランドレベル(GL:基盤となる地面の高さ)がぐぐっと下がって(要するに本来の地面と線路の高さが離れるようになる様子)部分的な高架になり、さらに川南地区の中島町で再びGLと線路が近づいている様子を表している。

さらによくみると、川北地区と川南地区とを比べた場合、後者の方がGLが若干高い位置にあるのがよくわかる。水害に対して線路が水を被らないようにする事が保線にとって大きい問題だが、土地の高さが高い方から川中→川南→川北という順になっている事実は、我々が日常生活をおくる上でもよく認識しておかなければならない問題だろう。

#川中地区のGLが高いのは、高橋元種あたりが城下町として整備した時代とかに盛り土した事実なんかがあるのだろうか?掘割の土とかで。そういえば確認した事なかったけど...。

Dsc_5816 ちなみに重岡-宗太郎-市棚駅間の勾配はものすごい。"なんだ、これ?"という感じ。

##あー、学生時代に測量士補の資格とっておけばよかった...(当時は今よりとりやすかったんです)。


災害時の文化財救助処置の課題。

2009-06-24 15:21:14 | 保存

空港から乗合タクシーで山形市街地へ入ると、何故だかプジョーが目についた。もちろん、日本車に比べると圧倒的に少ないのだが、他の外車と比べると不思議と多い。

東北芸術工科大学の文化財保存修復研究センターで、文化財の災害救助措置を検討する会があった。僕も平成17年の台風14号時での災害救助と救助組織化、さらに今後の課題について発表した。

あの時僕は、職場に社会福祉協議会から来た災害救助要請(特に、高齢者宅の片付け)に応じて古城と北方の数軒の個人宅に伺った。浸水してしまった家屋を片付けている際に水に濡れたアルバムを見つけ、これを保存処理・電子化するという事を行った。

電子化した写真をどう活用していくか、というのが今僕の研究活動においては大きなテーマの一つであって、資料の必要性を認識してもらい、写真を含めて個々人宅に眠っている文化資源について"みずからまもる"という意識を高めていこうと考えている。

個々人や家族・地域とのつながりを象徴する写真という存在は、高齢者ならずとも自己のアイデンティティーや社会とつながる重要な役割を果たす事がままあるのだ。

特にこの事は、災害後において"命だけ助かったが自分の存在を示すものが全て失われてしまった"という、精神的にも不安定な状況を生じさせないために、なんとかしていきたい課題なのである。

翌日はワークショップが行われた。

神戸大学に事務局をおく、歴史資料ネットワーク事務局による浸水した文書の救出法と、東北芸術工科大学文化財保存センターによる焼失文書の修復作業についての実演であった。

なるべく身近にあるものを使って浸水文書を救出する、という応急処置的な考え方は、専門家ではなくとも、一般の人でも行う事が出来る。

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現在のところ、最も有効なのは吸水性のいいキッチンペーパーと新聞を使って押し出し、自然乾燥を行うという方法だ。これによって、大半の文書は救われる。写真は実演している歴史資料ネットワークのKさん。

さらに、真空凍結乾燥機というフリーズドライ食品をつくる時に使う機械を使う方法がある。僕は以前、佐土原にある県食品開発センターの機械をお借りして対処した。だがこの機械はそうあるもんじゃない。なかなか確保出来ないというのが現状だ。ましてや汚水に濡れたモノを食品関連の機械に入れるというのは結構問題もある。

また、機械に入れるまでの間に冷凍庫で資料を凍結させ、カビの発生を抑えるという事も必要なのだが、大量の資料を保管する冷蔵施設の確保も考えなくてはならない。延岡だとどこが可能だろうか?当然、ボランティアだから使用料の保持も難しい。

火災にあい、消火時の水に濡れた文書なんていうのはもっと厄介で、こうなると修復専門家の手にゆだねないとどうしようもない。

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一枚一枚、ヘラを使ったり水蒸気を当てたりして丁寧に剥がしていく。紙が加水分解(水を含んで分解してしまっている状況)して繊維に戻ってしまい、藁のようにフワフワしてしまっているところなどは、容易ではない。右の写真は学生さんにヘラを持ってもらっているところ。奥で作業しているのは文化庁のU君。

根気強く時間をかけて剥がし、さらにこれを裏打ちしていくのだ。

僕が被災した高齢者宅でアルバムをみつけた際、正直、これを修復するのは難しいと思った。だが持ち主の悲しそうな表情をみて、つい"なんとかします!!"と安請け合いをしてしまったのだ。

画像としての情報の救出は電子化する事でなんとかなったが、写真・アルバムそのものについては難しかったというのが本当のところである。

今年はなんとなく台風がきそうな予感がする。我々専門家で対策をたてなければならない。


山形にて。

2009-06-21 06:25:51 | 保存

始発のドリームにちりんに乗り、宮崎空港から伊丹空港へ。
さらにそこで乗り換えた飛行機はボンバルディアだった。途中、雪のかかったアルプスと富士山が美しく見えた。
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今、山形にいる。天気は雨。
詳細は後日書くが、東北芸術工科大学というところで昨日は30分程話をした。

懇親会の際、学生さんが話しかけてきた。聞くと、写真の保存を卒論のテーマにしたいので、僕と話をしたかったらしく、わざわざ以前書いた論文を国会図書館にまで探しにいったという。ちょっとうれしいかも。

大学そのものは芸術系なんで、学生さんは色んな事をやっているけれども、彼女は文化財保存が専門だから、教員の指導だけで動いているという。ちなみに三年生。

地域性の強い写真の事やるんだったら、地域にはいらないと。サークルとかつくったら?と、アドバイスしておいた。

眼が輝いていた。

今日はうちの若い集が絡んだ企画が、地元で行われるという。空梅雨だが今日は彼女の努力に報いて晴れてほしいな。


スクラップという情報。

2009-06-10 17:28:29 | 保存

高千穂線の廃止と地域社会との関係を卒論で書いているうちの若い衆から、"県立図書館で鉄道関連の新聞記事を集めた沢山のスクラップブックを発見しました!!"という重要な情報が入った。

仕事で宮崎に行ったついで、30分程時間を作って県立図書館の郷土資料室へ寄った。すると、前はこんなの置いてあったっけ?と思ったが、分野ごとに分けられた数百冊の紙ファイルに綴じられた新聞のスクラップ記事を発見した!!

ざっと、探してみるとあるわあるわ県内の鉄道関係はおろか、昭和20年の延岡空襲関連の日向日日新聞(宮日の前身)記事なんていうのもある。終戦直後、20年の10月には宮崎県を中心に空襲を受けた延岡など県内の都市計画が勘案されており、中央通りをメインストリートとした開発はおろか、まちの修景の問題まで議論されていた。

#戦後の都市景観形成の問題の一つとして、やはり復興都市計画をきちんと押さえておかなければならないという事がよくわかる。

高千穂線関連の記事に目を通したが、昭和37年頃に出てくる日乃影駅から高森駅までの延長計画の本格化、地元の期待とともに、次々と着工・建設が進む様子が書かれている。

ところが、昭和42年頃から様子が一変する。国鉄赤字路線の廃止問題が浮かび、ついに建設中の路線は高千穂駅までとなる。

地元の落胆とともに、旧田原村あたりの未成線区間には、まだ施設が残っている事を知った。これは探しにいかなくては!!!

##神楽酒造や高森の湧水トンネルだけしか残っていないのかと思ってました。

新聞記事は、それだけでは検索に大変な、脈絡のない資料でとどまってしまったりするのだけれど、ある目的的な集め方をされたスクラップブックというものの価値を改めて理解したとともに、劣化が進行しやすい新聞記事の情報もなんとか保存を考えるべきだよなあと思った次第である。

Files

郷土資料室内は通常は写真撮影出来ないが、許可を頂いて迷惑にならない所で背表紙だけ撮影させて頂いた。ただし、携帯カメラ。


活用する事で保存をはかる。

2009-05-14 14:51:05 | 保存

"過去に創出されてきた文化資源を遺す"、ための研究が僕の専門分野なわけだが、"遺す"すなわちまず"保存する"事が、色々なアクションをおこす際には大前提となっている。

これは対象が一回性、ようするに唯一無ニの存在である点に起因している。同じモノ・同じ価値があるモノは二つとないケースが多いからだ。

文化資源を活用する際にも、保存する事がまず先にたつ。

ところが、これとは反対の考え方にありながらも、目的を同じくする考え方に出合った。

動物介在療法(アニマル・アシステッド・セラピー)は、ヒトが動物を鑑賞したり接触したりする事によって生ずる心理的効果(言ってみれば心の癒し)や、動物と直接的なコンタクトをとったり操ったりする事で四肢を不自由とするヒトが身体のバランスを上手くとれるようになったりするという効果を狙った手法である。

ウマは現代の日常生活では身近ではないものの、この動物介在療法においては古くから用いられてきた動物で、高い効果を蓄積してきた。

この療法に用いられる馬種には、長時間の負荷に耐えられたり、あまり馬高が高くない種類が望ましいとされている。サラブレッドは馬高が高く、反対にポニーはすぐ疲れてしまう。そこで思案された馬種が日本の在来種である。

近代軍制は、移動手段であり、"兵器"としてのウマの近代化をも招いた。従って走るのに適した大型化が図られていったし、さらには競走馬としての役割を持つようになり、アラブ種・サラ種といった馬種が主体となっていった。在来種は駆逐され、以前は農耕馬として活躍する機会もあったものの、現在では各地に点在する程度となってしまった訳だ。

しかしながら、体格では劣るものの、在来種は持久力があり、長時間の労働にも耐え得るという特性を持っている。近年、動物介在療法を研究しているいくつかの獣医畜産系の大学においては、この在来種を活用する方法が研究されている。

ただし、在来種は数が少なすぎるのではないか、と個人的には考えた。また、希少種を保護・育成するのに、あまり酷使出来るのだろうか?と保存を優先に考えてしまう僕は、恐らく僕自身の分野の価値判断で考えてしまうのだ。

だがよくよく考えてみると、一回性の文化財とは異なり、種の保存においては、繁殖という行為によって同じ種を増やす事が可能なのだ。同じ種どころか、現在の技術ならばクローンだってつくり出せる訳だ。

動物介在療法において頭数を揃えるのには繁殖が必要となる。要するに"活用しなければいけないので、種を保存する(さらに増やす)"必要性を考えていく、という事が重要となってくる。これは"遺すために保存する、保存の必要性をアピールために活用を促していく"、という目的と結果に転倒がみられる文化財の分野とはまるで反対の発想であり、個人的にはかなり大きなヒントとなりそうな考え方であった。当たり前なのかもしれないが。

写真は宮崎市清武の"蹄跡の森"でビデオ撮影した、動物介在療法の様子。この時は花粉症がひどく、鼻水をすする音が何度も入っていた...。

Animalth


アメリカにのこされた延岡新聞。

2009-05-01 04:39:35 | 保存

地方紙、特に地域を著しく限定している新聞というのは細かいコミュニティーの情報を記録しているという意味で価値が高い。特にメディアが限られていた過去の時代の情報は極めて貴重でもある。

延岡新聞はまさにこれにあたるものの、延岡市立図書館には昭和23年からのものしか存在しておらず、終戦直後や、さらには吉田初三郎の来延が書かれた大正時代の記事を確認する事は難しい。

#同記事は初三郎本人によるスクラップがのこっており、確認出来る。

特に終戦直後の延岡の状況について、記事にはどう書かれていたのかを知りたいのだが、このままでは知る由もない。

そんな時、情報が残っている可能性があるのがプランゲ文庫だ。終戦直後、占領下の日本で情報管制を行っていたのはGHQ/SCAP、通称GHQだ。GHQの民間検閲局(CCD)は全国各地の新聞紙・雑誌、時にはパンフレットや今で言うミニコミ誌まで、発禁処分となったものも含めて当時刊行された出版物を検閲していた。

そのCCDで収集された資料は、マッカーサー戦史室にいたゴードンプランゲ博士によってメリーランド大学に移管され、さらに資料の劣化に応じて日本の国立国会図書館と共同でマイクロフィルム化が行われた。

国会図書館のopacを検索すると、この中に、どうやら終戦直後の延岡新聞も存在しているらしい。

http://sinbun.ndl.go.jp/cgi-bin/outeturan/E_N_id_hyo.cgi?ID=040231

現在メリーランド大学は日本に代理店をもって、このマイクロのデュープ(複製)を販売している。さらにそこのカタログからうかがうと1946年3月31日(9号)から1949年10月16日の466号までが存在しているのがわかる。

http://www.bunsei.co.jp/prange/ →検索はご自由に。

刊号からすると大正時代に刊行していた事を考えるとまったく合わないので、推測するに戦時中の統制下で一度休刊なり廃刊となって、戦後再出発したものだろう。

さらにここからは延岡新聞以外の情報、旭化成やさまざまな業種の組合関連の機関紙-そういえば本日はメーデーだった-、高校で出していた冊子なんかもある。一部は県内の図書館にのこされているものもあるが、存在すら忘れ去られていた冊子等が多くあるようだ。これは是非読んでみたい。

#マイクロをどこか図書館で購入してくれないだろうか。

##帯状疱疹、よくなってきたけれども、どうも夜中に痛くなってしまい、眠れなくなった。

###ついに新型インフルエンザの感染者が日本でも出たけど、うちの職場はどうなんだろうか。感染症研究の専門家が何人もいるから、大丈夫だろうけど。