ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

ウチナースタイル(20220725)

2022年07月25日 | 沖縄暮らし

 おはようございます。昨夜は25時まで起きていた。眠くはないが、目が痛い。懸案の原稿の前半を漸く仕上げられそうだ。持論だけでは、やや心もとなく、参考文献を読みあさっている。「憲法9条と安保法制」(阪田雅裕著 2016年7月有斐閣刊)、「集団的自衛権限定容認とは何かー憲法的、批判的分析」(浦田一郎著 2016年5月 日本評論社刊)、「『安全保障』法制と改憲を問う」山内敏弘著 法律文化社 2015年7月刊)。それぞれの特徴があるが、私にはなじみが深い山内さんのがすらっと入る。

 彼らが批判していることは、同じ政府が出してきた文書類だが、それを批判する論点・視点が違う。私は沖縄という現場にいる立場から、できる限りリアルに読み込みたい。所詮、ご都合主義の解釈は、現場性を消している。実態に基づかない言葉は空虚だ。それにしても「専守防衛」という革袋を脱ぎ捨てながら、あたかもしらっと、集団的自衛権の「限定容認」をいう自公政府。外国での武力行使を正当化して見せながら、海外派兵ではないという。部隊としての攻撃ではない、ミサイルでの防衛だというのだ。嫌でも「目には目を」になっていく。軍事衝突はエスカレートしていく。そうして自国軍が攻撃されたら個別的自衛権で本格戦争に突入していくのだろう。どこに「国民の平和的生存権」などを考えているというのだろうか。

 技術革新の結果、急速に戦争状態に突入していく。日本全国を巻き込んでいく。一挙に人々の幸福追求権をぶち壊していく。沖縄にいたらどこが攻撃されるかわからない。食料の移送も止まる。「国民保護」などありえない。たかがコロナ禍ひとつで、フーとか言っている現在、戦争状態に入れば、私たちは、何千、何万倍もの負荷を受けることだろう。2月の石垣島で船が1回入ってこなかっただけで(悪天候)、コンビニにパン類ゼロとなっていた。再び私たちは「弱者」を殺す側に回らされるかもしれないのだ。

 そう考えると辛くなる。苦しくなり、生きる気力が蹴倒される。こうした精神的負荷(ベール)を剥ぎ取らないと、悪循環に陥る。ぼやっと思うのをやめよう。できる限りリアルに捉えよう。リアルを力に変えるしかない。こう開き直るしかない。いや。見極めるのだ。

 沖縄には、ハードロックの勝ちゃんや、沖縄民謡でも古謝美佐子さんら、命どぅ宝をわきまえている歌者(うたしゃ)がいる。沖縄ジャズもそうだろう。私がまだ見て・聴いていなかっただけだろう。

 考えてみれば、日本におけるジャズは駐留軍ジャズを通している。ジャズはカリブ海ー米国の黒人奴隷・農業文化ー米国都市で、日本ジャズは米軍を経て入ってきた。まして沖縄ジャズはもっと米軍ジャズと緻密な関係だっただろう。だからこそ、それを反転させてきたとすれば、反戦の叫びも強烈かもしれない。

 先日、海勢頭豊作曲/作詞の「月桃」のジャズバージョンを聴いた。すごすぎた。これぞウチナースタイルかと涙が出てきた。私もストレートなウチナースタイルを受容できる身も心になりたいものだ。

 そんな月曜日のあさだ。

 

  

 



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