ヤマヒデの沖縄便りⅣ 歩き続けて 歩き続ける 再び

「基地の島」沖縄を歩き続け34年、気ままに綴ります。自然観察大好き。琉球諸島を戦場に据える「島嶼防衛」は愚の骨頂。
 

何故神戸に(20240105)

2024年01月05日 | 旅の記録

 昨年、11月頃、つれと正月どこで会うかを決めました。私が提案した神戸で一致。私が、神戸だと提案しましたが、腹案があったわけではありません。昨年は長崎市、その前が広島市、やはり港だろう。港はいくらでもありますが、沖縄から・東京から行きやすい場所、正月でもお店が拓いている場所、ワサワサしていない場所、基地・軍隊が殆どない場所などが条件となります。こうして神戸にきめたわけです。

 私にとって神戸は、あの1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災の経験が大きいです。このとき、2月に現地を観てきました。また半年後にも行きました。今回はこの震災を意識していませんでしたが、思わぬところで、記憶が蘇ってきました。

 今回、自分でプランを考える事を約しましたが、直前まで原稿に追われ、ラスト3日でやりきった。しかし3日のスケジュールが帰路に就く時間の間で、結果的に破綻。2カ所に行く予定を1カ所にして、早めに神戸空港に着くことにしました。1日夕方に起きた地震の影響もあり、早めに行っておくことが重要だと判断。

 神戸は父が学生時代を過ごした街であり、仕事も神戸・阪神地方が多く、私は神戸のお土産などで懐かしい場所でもありました。父は、ある意味私の写真の師匠です。退職後は、陶芸で身を立てていました。神戸の版画の絵はがきを彼が制作し販売していました。この素材のモデルに、私が神戸に行った際に撮った写真をつかいました。私が父に貢献したことは殆どありませんが、この撮影は多少+をもたらしたはずです。1980年代の事でした。そして今回でした。

 そこに大震災と羽田空港での事故が重なり、年始そうそう、たまげた。1995年1月の神戸と、2024年1月の能登半島・石川県等。偶然だけど、記憶が蘇ります。能登半島は、友が居ることもありますが、1970年、1971年の夏に行った経験もあります。輪島が父方の曾おじいさんの居住地だった。町医者だったらしい。今回焼け出された輪島の朝市にも行きました。漆塗りなどの伝統工芸の工房にも足を運んでいます。71年には兄と能登半島一周のバスツァーにも乗った。

 亡くなられた方々に、哀悼の意を表します。また被災された方々に、気を取り直して奮闘していただくよう、遠く沖縄から念じています。冬の日本海側は、雲が寄せてくると、雪が舞い、寒かった記憶もあります。今回の被災状況の詳細はまだ見えてきていませんが、倒壊した建物の下敷きになったり、普段いない方で、帰省中に災害に遭われたり、寒さに震えていることでしょう。また、身元確認も困難が伴うことでしょう。困難があってもマシな世の中にするのは、私たちの努力しかありません。

 能登半島に、被災地に幸あれと願っています。



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