武弘・Takehiroの部屋

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バブルに踊る

2024年05月28日 15時50分47秒 | エッセイ・私事など

<2011年2月に書いた一文を復刻します。>

(前編)

恥ずかしくてあまり話したくないことだが、バブルの頃の思い出を書いておこう。これも人生の一つの“通過点”だったと思えば許してもらえるだろう。
 20数年前だったが、日本はバブル経済の絶頂期にあった。地価も株価も給料もどんどん上がっていた。今では想像も出来ないほどである。以下にまず、妻とのやり取りを紹介しよう。
 
私「おい、NTTの株がもの凄く上がったぞ。そろそろ売ってもいいじゃないのか」
 妻「そうね。2株のうち1株を売ったら?」
 私「うん? いま2株売れば、300万円以上は儲かるぞ!」
 妻「2株も売ったら勿体ないじゃないの。1株は“家宝”として持っておくべきよ」
 私「家宝だって? ふん、たかが株じゃないか・・・まあ、いいや。とりあえず1株を売ろう」
 
これは1987年(昭和62年)4月頃の会話だったと思う。NTT・日本電信電話の株はその年の2月9日に東証に上場されたのだが、私は株にはまったく素人なのに妻は非常に関心があって、抽選の結果2株が当たった。1株120万円弱で買ったのだ。
 当時は民営化したNTTに大変な関心が寄せられ、株式市場の“目玉”になっていた。このため、120万円弱の株価はわずか10日余りで200万円の大台に乗ってしまう。
 その後も株価は急伸を続け、4月には280万円を超えたので私は1株を売ったということだ。とにかく、NTT株は物凄い熱気に包まれていた。株の所有者は皆ホクホクしていただろう。私もすっかり良い気分になり、“不労所得”の160万円を元手に新車を買ったり、部下や後輩10数人を引き連れて都内の料理店でご馳走したりした。今のしょぼくれた年金生活の私からは、想像も出来ないことである。
 
さて、その頃だったが、私が住んでいる埼玉・所沢市内の金山町(かなやまちょう)付近が、地価上昇率で日本一になったことを記憶している。「へえ~、こんな田舎の土地が日本一の上昇率だって!」と驚いたものだ。(その頃、日本一の上昇率とは、たぶん世界一の上昇率だっただろう。)
 子供が3人に増えて、もう少し広い家に住みたいと思っていた私は、これ幸いと元の家を売ることにした。地元の不動産屋が「高く売れますよ~」と言ったのはもちろんである。すると、何人かの方が物色にやって来たが、やがてAさんが購入してくれることになった。その価格が5年前に買った時の3200万円より2000万円も高かった!
こんなに高く売れるのかとびっくりしたが、当時はそれが当たり前だったのである。元の家を売却して、私たち一家は所沢のもっと田舎の新築家屋に引っ越したが、その時、不動産屋が“思いもよらない”ことを切り出した。
 「ご主人、ついでにアパートを持ちませんか」と言うのだ。え~っ?、俺がアパートを持つ?? そんなことが出来るのか。
 よく覚えていないが、それから不動産屋や妻と相談しているうちに、銀行から借金すればアパートの所有者になれるというのだ。一介のサラリーマンである自分がアパートの大家(おおや)になる!? 世の中、一体どうなっているのだと思った。(2011年2月9日。後編に続く)

(後編)

その後、紆余曲折があったが、銀行から借金して私は狭山市内(所沢市に隣接)に1K・6部屋の小さなアパートを造った。「とうとう、大家になったか~」と思ったが、たとえ小さな物件でも、日本のGNPに少しでも貢献できたのだぞと自慢したい気持だった。もちろん、私自身の財テク・利殖にもプラスになるのだ。
 アパート経営は最初のうち上手くいっていた。地元の不動産仲介業者にお願いして、入居者を募集してもらったところ直ぐに満杯になった。家賃はたしか3万8000円ぐらいだったと思うが、そのうち、入居希望者が増えたので仲介業者は家賃を上げていくと言う。結局、4万8千円ぐらいまで上昇しただろうか。
 一方、不動産屋は、空き家があるから更に借金して“貸し家”を持ったらどうかと勧めてきたが、それはローン返済が大変だからと断った。その頃、新築の自宅とアパートで毎月、40万円近くも返済していたのだ(アパート収入があったから出来たことである)。
 
株もアパートも順調に行っていたが、やがてバブルが崩壊する兆しが見えてきた。NTT株は見る見るうちに急落し、1株100万円を割った後さらに下落していく。妻が言っていた“家宝”どころか、塩漬け株もいいところだ。300万円の時に売っておけばと悔やんだが、後悔先に立たずである。
 他方、アパートもやがて苦戦を強いられるようになった。近くにあった自動車メーカー・ホンダの工場が他の地域に移転したため、ホンダや関連企業の従業員らが姿を消し、入居者が減っていったのだ。これには参った。
 仲介業者が入居希望者を募るのだが、わずか6部屋のアパートも空き室が目立つようになり、それに伴って家賃も自然に低下していく。4万8千円ぐらいだった家賃は見る見るうちに4万円ほどに下がっていった。それでも入居者は増えるどころか減っていく。そのくせ、外装のペンキ代やエアコンを始め機具の修繕費などで出費が重なる。
 私はだんだんアパート経営が重荷になり売却しようかと考えた。しかし、上物(建物)にはほとんど価値が無くなり、さらにバブル崩壊で地価が急落してしまった。売っても何の利益にもならない。むしろ損失になってしまう。思い切ってアパートを潰し駐車場にしようかと考えたが、それも手間がかかる。仕方がないので、なるようになれと思いながら我慢することにした。
 
結果的に、アパートはまだ残っている。しかし、6部屋のうち入居は3部屋という状態がずっと続いている(注・現在は2部屋に減る)。ただ救われるのは、もうすぐ“借金”から解放されるということだ。あれから20数年、銀行ローンから間もなく解放されるのだ。それだけが嬉しい。
 思えば、バブル絶頂期の浮き浮きした気分で、株を買ったりアパートを造ったりと色々してきたが、決してマイナスになったとは思わない。欲に駆られて失敗した人は大勢いる。バブル崩壊で自殺したり行方をくらました人もかなりいるのだ。
 その点、私は失敗はしていないが、ただ反省すべきことはある。今さら反省しても仕方がないが、私はバブルで踊っていた時(経済には敏感になったが)、自分は「ジャーナリスト」ではないように思えた。
 テレビ局報道の同僚達には、そんな思いはおくびにも出さなかったが、内心で“後ろめたい”気持になったのだ。「金儲け」が悪いとは言わない。しかし、それはジャーナリズムの精神とは違うだろう。自分がアパートの大家さんになったことは、なにかジャーナリストと相容れないように感じたのだ。
 色々な理由があるが、数年後に私は自ら報道局を離れ、正真正銘の「サラリーマン」に転身した。 ジャーナリストを卒業したのだ(50歳の頃)。それで良かったと思う。そうすることによって、私は“後ろめたい”気持から解放されたのだから。(2011年2月10日)


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2 コメント

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バブルの頃 (矢嶋武弘)
2020-05-16 11:46:24
いま振り返ると、バブルの頃の日本は現在とまったく違っていましたね。もうああいう時代は来ないと思います。いや、来ない方が健全でしょう。
正直に言うと、アパート建設に熱心だったのは女房の方です。私はそれに釣られたのか(笑)。
今でもアパートは残っています。私が死んだら家族がなんとか考えるでしょうが、その時はどうなっても構いません。もう私はあの世に行っていますから(笑)
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Unknown (おキヨ)
2020-05-15 13:27:30
一時は黙って座っていてもお金が飛び込んでくる”大家さん”になられたのですね^^
結果的には失敗なさったかもしれませんが、畑違いの仕事で大きな経験をされました。
経験は人生の”宝”だと思います。
経験、「あるいは冒険」を積まない人間はつまりません!
我が家の爺のことですが・・・。

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