武弘・Takehiroの部屋

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「原発ゼロ」で注目! 小泉純一郎氏のこと

2018年01月12日 10時10分23秒 | 政治・外交・防衛

<「原発ゼロ」法案を提出すると語った小泉元首相。その動向が注目されているので、少し古いですが、2002年2月に書いた以下の記事をほぼ原文のまま復刻します。>

1) 今をときめく内閣総理大臣・小泉純一郎氏について語りたい。一言でいうと、彼は剛直で分かりやすく、親しみやすい人である。 
 私がフジテレビの政治部記者をしていた昭和49年(1974年)2月、自民党の福田派(清和会)を担当することになった。 当時、小泉氏は衆議院当選一回の初々しい代議士であった。名前と顔だけは知っていたが、まったく面識はなかった。 それは当然のことで、我々記者は福田派の会長である福田赳夫氏、派閥の幹部である園田直氏、松野頼三氏ら有力議員を取材するわけで、一年生議員の所には滅多なことでは行かないからだ。
 ある時、福田派の有力議員と我々記者との間で懇親会が催された。料理店で一次会をした後、二次会で都心のクラブへ移ったと思う。 すると、そこに有力議員でもない一年生議員の小泉氏が隅の席に座っていた。どうして彼がいるのだろうかと思いながら、我々は賑やかに酒を酌み交わしていった。 
 すると、年輩の議員や他社のベテラン記者達が、「純ちゃん、純ちゃん」と小泉氏によく声をかけるのだ。小泉氏はとても愛想良くそれに応える。その内に彼は、先輩の議員や記者達にウィスキーの水割りを作ってやったり、酒を注いでまわったりし始めた。 派閥担当の新米記者である私の所にも来て、水割りを作ってくれようとする。相手は国会議員だから、私が恐縮して「いいですよ」と断っても、ニコニコ笑いながらサービスを止めようとはしない。 こうして小泉氏は座談に興じながら、次々に皆にサービスを続けていく。要するに二次会の接待係りなのだ。
 他社の記者に聞くと、彼は議員に当選する前まで、福田赳夫氏の秘書を2年ぐらい務めていたのだそうだ。だから如才なく愛想良くやれるのかと思った。 多くの人から「純ちゃん、純ちゃん」と声をかけられて、小泉氏は本当に良く愛嬌を振りまいていた。誰かが「純ちゃん、早く嫁さんをもらえよ」と冷やかすと、「いやぁ~、そればっかりはどうも・・・」と照れくさそうに笑っている。 
「純ちゃん」はどうやら人気者らしい。若くて、人なつっこくて、先輩議員やベテラン記者から可愛がられているようだ。 彼の素振りを見ていると、まるで福田派の『お稚児さん』か、可愛い『茶坊主』のようだ。というのが、私の第一印象であった。 二次会が終わる頃になると、「純ちゃん」は甲斐甲斐しく皆の車の手配を始めた。さすがに多くの記者達はタクシーで帰ったり、自社の車で帰路についた。

2) その後、私は国会の動きや福田派の取材などで忙しい記者生活を送ったが、小泉氏のような一年生議員の所へはほとんど行く機会がなかった。 行くのはもっぱら、福田赳夫、保利茂、園田直、松野頼三、安部晋太郎ら大幹部の各氏の所である。 そして、議員会館の中をいつも動き回っていたが、小泉氏の部屋には、たまに遊びで立ち寄る程度であった。 
 その時は雑談ばかりで、息抜きになった。「小泉さん、早くお嫁さんをもらわないの?」と聞くと、「いやぁ~、僕のことより、姉(信子さん)の方をなんとかしてよ」と、彼はいつもの屈託のない笑いを振りまいていた。しかし、小泉氏の部屋は秘書(飯島氏)も話が面白く、息抜きには最高であった。 
 お茶を御馳走になりながら、小泉氏や秘書と話をしていると、いつの間にか時間がたってしまう。記者として「忙中閑あり」とはこのことだ。 重要な話は聞けなくても、雑談の中からヒントが得られることがよくある。大抵の記者は、こうした雑談の中からあるヒントを得て、それをその後の取材に生かしていくものだ。
 ところで小泉氏といえば、若い頃ロンドン大学に留学し英語の達人なのだが、総理になるまでは一般にほとんど知られていなかった。 それもその筈で、雑談の中で彼からイギリス留学や英語自慢の話しなどは聞いたこともなかった。 しかも、会話の中で英語をちりばめるという事がまったくない。少しでも英語を知っていると、自慢げに英語を使いたがる人間が多い中で、彼はまったく異色である。 
 面白い話がある。小泉氏がいつの厚生大臣時代だったかは覚えていないが(注・彼は3度も厚生大臣を歴任している)、役人がやたらに英語や変な和製英語を使った文書を作るので、彼はそれを禁止したことがある。それを新聞で知った時、私は実に愉快だった。 とにかく役人は、やたらに英語を使いたがる。格好をつけたがるのだろうが、文書の中身が分かりにくくなる。 それを英語の達人である小泉氏が禁止したのである。正に彼の面目躍如といった所で、私は溜飲が下がる思いがした。
 いろいろな政治家と会って話したことがあるが、小泉氏ほど分かりやすい人は他にほとんどいない。 私の経験では、他に野中広務氏がいるぐらいだろう。 テレビに出た時に、彼の分かりやすさが視聴者の人気を高めたのは間違いない。 ちなみに、イギリスのサッチャー元首相がかつて来日した時に、国会議員を代表して小泉氏が通訳を務めているのをテレビで見たが、記者経験のある私はすぐにピンと来た。

3) 冒頭に小泉氏は剛直であると述べたが、それが最も明瞭に分かったのは、彼が郵政大臣に就任した時である。 平成4年(1992年)12月に宮沢改造内閣が発足した時、小泉氏は郵政大臣に就任した。この時ほど組閣で驚いたことは他にない。 なぜなら、小泉氏はそれまで「郵政省解体論」をぶち上げていたからである。そういう本も出版していた。ある省庁を潰そうという人が、その省庁の大臣になったのである。宮沢内閣も思い切った人事をしたものである。
 ところで私は、福田派の担当記者を終えて以来、15年ぐらい小泉氏とは仕事上の接触がなかった。 ところが、たまたま平成4年の夏の人事異動で、フジテレビの電波企画部という所に移っていた。この部署は会社の電波行政的な面の仕事をするため、足繁く郵政省に通っていた。 
 そこにあろう事か、小泉大臣が天空から舞い降りたのである。郵政省全体が動揺した。 一体なにが起きるのだろうかと、役人達は戦々恐々である。案の定、小泉大臣は郵政事業の民営化を視野に入れて、それまでの郵政省の施策を次々に破壊しようとしていく。 これでは郵政省はたまったものではない。役人達は無言の抵抗を始める。全国に特定郵便局長の会議があるが、役人の誰もが小泉大臣を招こうとはしないのだ。 
「郵政省解体論」をぶち上げている本人だって、そんな会議には出たくもないだろう。代わりに政務次官が出るしかなくなる。 大臣と役所の関係は、極めて険悪なものになっていく。それは今の外務省と田中真紀子前外務大臣の関係の比ではない。 しかし、小泉氏という人は、持説を曲げない人だ。その頑固さ、剛直さは生半可なものではない。 福田赳夫氏も剛直な人だったが、小泉氏は師匠以上に剛直なのではないか。 
 普通の大臣だったら、自分の省庁とある程度妥協していくものだが、小泉氏にはそういう姿勢が見られない。「信なくば立たず」というのが、この人の座右の銘だそうだが、正に「信ずるところ火をも踏む」ような所がある。 若い頃の『お稚児さん』や『茶坊主』といった印象とは、あまりにかけ離れている。「外柔内剛型」の人なのだろう。

4) 小泉大臣の誕生で、私は時たま大臣室に伺うことになった。テレビ局の主管官庁は郵政省だから、テレビ局の一社員などは普通、課長クラスに会うのも恐れ多いものである。 しかし、かつて政治部記者をやっていた図々しさで私は大臣室に赴いた。別に大した話があるわけではない。“孤立している”大臣へのご機嫌伺いみたいなものだ。 政治の話でもして、大臣の気が紛れればという程度の話だ。 
 ところが面白いことに、役所から付けられている事務方の秘書官が、いつも同席しているのだ。 私なんぞのつまらない雑談を聴いていたって、なんの得にもならないのに、どうして事務方の秘書官が同席するのか。私はすぐにピンと来た。 その秘書官は大臣の言動を全て監視して、逐一上司に報告するのだろう。要するに大臣の見張り役ということだ。そんなことは小泉大臣も百も承知の上で、来客と適当に会っているのだろう。 郵政省で小泉大臣は、正に「四面楚歌」の状態にあったと言ってよい。
 そうこうしている内に、翌年の7月、他の官庁と同じように郵政省でも定例の人事異動が行われた。官房長から事務次官に上げられた人事の内示案は、普通はそのまま大臣が決裁して終わりということになる。 しかし、小泉大臣は事務方の内示案を蹴って、私の知る限りでは、局長クラスの3人を自分の意思で変えてしまった。 普段恵まれていないノンキャリアの3人を、局長クラスに抜擢したのである。その話を知った時は、「やったな」と思った。結局、この異例の人事が小泉大臣の郵政省への置き土産となった。 その直後の総選挙で自民党は大敗して野党に転落、非自民の細川連立政権が誕生したのである。

5) 自民党が野党に転落してからも、暇があると時たま議員会館の小泉事務所に立ち寄り、秘書の飯島氏らと雑談をしていると、足早に小泉氏が帰ってくる。 そういう時など小泉氏はびっくりする程ダンディーなことがある。背はあまり高くないが、背広の着こなしは抜群である。 中年のおじさんである私なんぞが、思わず見とれてしまうことがある。特にライトブルー系の背広を着ている時は、殊に格好いいと感じた。
 率直で分かりやすくて、ダンディーな彼のパーソナリティーが、一般国民の高い人気を集めているのは間違いない。 田中真紀子外相の更迭で内閣支持率が低下したが、それまで常時70%を優に超える支持率を確保していたのは、正に驚異である。 かつて昭和47年(1972年)7月に田中角栄内閣が誕生した時、『今太閤』ブームに乗って内閣支持率は急上昇した。9月に懸案の日中国交正常化を果たした頃は、田中内閣支持率は頂点に達した。それでも70%には届かなかったのである。
 その小泉総理が就任早々に、「首相公選制」の問題提起をしたのは、実に意味が深いのではないか。 「首相公選制」を実施するには、憲法改正が必要となろう。議院内閣制を改めなければならないからだ。 その是非をここで論じるのは差し控えるが、憲法改正への突破口と考えられる。 小泉政権がいつまで続くかは分からないが、彼の心中には、憲法改正への思惑がないとは言えない。 仮に小泉内閣が長期政権となった場合、憲法改正が大きな政治課題として浮上してくることも、十分にありえると思う。


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