3ヶ月前の14:46、突然、轟音とともに揺れが始まった。
狭い実験プラントから何とか這い出し社内の道路に避難、道路の中央に集まり揺れが収まるのを待ったが、なかなか収まらずますますひどい揺れになってきた。5分間の激しい揺れは徐々に被害を広げていった。突然蒸気配管が割れ激しく噴出す。水配管が破裂し水しぶきが飛び出す。窓枠が外れガラスが割れていく。何もかもが今まで経験したことがない激しさでした。
「これはただ事ではない」自宅が心配なので早く帰れるように設備を緊急停止する。
15:30頃設備停止終了、帰宅の準備をするために全て倒れてしまったロッカーを10名程度で起こす作業を開始した。
そして、15:40頃突然津波が襲ってきた。コンクリート建屋の中にいたので轟音だけで何が起きたのかわからなかった。入口から水が浸入してきたので津波と気づき2階へ避難する。
2階から見た光景は忘れることは出来ない。
駐車場の車はほとんどが道路に押し出され重なりあっている。自分の車は会社のフェンスを倒し電柱にぶつかっている。あちこちからクラクションの鳴る悲しい音が聞こえてきた。松並木が全て無くなり流された松の木が駐車場を埋めている。
まさか20mの高台にあるこの場所まで津波が来るとは誰も想像さえしていなかっただろう。2階の窓から海を見ると海底が見え、沖の海面がますます上昇していく。その光景を見て、もっと高いところへと避難した。
寒い雪の吹き付ける中を震えながら耐えていた。海岸付近に自宅がある人たちの悲壮感は見ていて耐えられないくらいだった。励まそうにも励ます言葉が無い。本当に耐えられなくつらい時間だった。
津波が収まり、帰ることが出来るようになったが車が使い物にならない。道路が瓦礫で通行できないので、重機で瓦礫を撤去し帰宅できたのは薄暗くなっていた。でも津波で途中の道路が寸断されているので山越えを決断。薄暗い山道を徒歩で国道6号まで向かった。途中は全て停電しているので真っ暗な中を歩いた。
自宅の明かりが見えたときには本当にうれしかったっけ。自宅は、断水以外はあまり被害が見当たらなくて安心。
その日は倒れた家具を起こしもしないで疲れて寝てしまったっような気がする。
翌日早く会社が心配なので会社に向かうが、そこから見た残酷な光景は、何も言葉が出ずただ呆然と眺めているしかなかった。近くの友人、知人の家もなくなっていた。瓦礫の中を歩いたが何も無い。こんなことってありえるのかと誰もいない海岸線に立ち尽くしていたっけな。
3.11 あの時から 何気ない日常生活が、あの時を境に一変してしまった。最愛の家族や家、かけがえの無いものを一瞬にして奪われてしまった方も多くいる。そして、原発事故は住み慣れた安住の地やふるさとをも奪おうとしている。
つらく先の見えない避難生活も経験した。やる気を失っていた気持ちを、多くのボランティアや行政、仲間達に励まされました。本当に感謝、感謝の連続でした。
あれから3ヶ月過ぎた今でもまだまだ復旧や復興にはスタートラインにも付けません。
バラバラになってしまった家族や地域の人々。
がんばろう!!と思っても立ちふさがっている原発と国の壁。
この苦しみから立ち上がるにはやはりバラバラになってしまった家族や地域や仲間の絆ではないでしょうか。
どんな壁にふさがれようと、追い払われようと、みんなの絆を支えに「ふくしまは負けません」
何気ない平凡な日常が営まれる日が来るまで頑張って生きましょう!!