雑学

前回に続いて雑学を紹介します。

2007-10-31 08:53:00 | Weblog
娼家:

娼家の構造;
建築---江戸の吉原では二階造りまでしか許されなかったし、外観は規定を守って比較的派手にはしなかったが、内部は追々に華美となり、風流な洒落た造りとなっていった。

妓楼の部屋;
娼家の内部の部屋割りなども、種類格式等級で違う。階下には、張見世、髪部屋、女部屋、男部屋、夜具部屋、帳場、内証、縁起棚、料理場、食事場、湯殿、便所、(客室)。階上は、引付座敷、やりて部屋、娼妓の座敷部屋、名代部屋、行燈部屋。
「帳場」---楼主或はその代理人が控えていて、帳簿や計算を司っている。書記と呼ばれる楼主の代理を勤めている。
「内証」---内証と書く理由は判らないが、内所というべきと思われる。ここは楼主とその家族者のいる室の称呼で、一般からは御内証、或は御部屋と唱えられ小間使い以外の雇人は許しなしにその室内に入ることはできない。
「髪部屋」---俗に「かん部屋」または「寄場」といわれ、多くは娼妓の共同室や寝室にあてられ、髪部屋とは有名無実となって昼間などはこの部屋に一同が集まって寝る。
「かん部屋」は雑居室であり、閑部屋の空室といった意にも用いられていた。隠語には寝ることをオカンといい、浮浪者の野宿者をカンタロウというので、「かん部屋」は寝部屋の意ともなる。

廻し部屋;
廻し制度の妓楼には、本部屋、廻し部屋、大部屋などがあり、これは客室ともいえる妓の稼業部屋になる。「本部屋」は妓の自室。「廻し部屋」はまた「割部屋」ともいわれ、殺風景な部屋が隣りあって並んだり、分けられたりしていた。そこへ次々と遊客を通して待たせ、妓が順次廻して床をつけたのである。「大部屋」割部屋以上に広間を屏風などで仕切って、込みで客を入れた。“割床の地震隣へゆり返し”


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2007-10-30 09:29:15 | Weblog
深川芸者、その他の私娼:
(1)八幡宮の門前町
永代島と呼ばれた大きな洲を深川八右衛門が開拓したとされ、以後深川と呼ばれるようになった。深川八幡宮が創建され、小さな門前町が形成する。元禄9年(1969)永代橋が完成すると、深川の色里に出かける者も多くなった。芳(よし)町(ちょう)に菊(きく)弥(や)という踊り子が遊芸の師匠となった。これが深川芸者(辰巳(たつみ)芸者)の始めと言われている。深川の色里は、通称「深川七場所」と呼ばれた。深川仲町、大新地・小新地、裏櫓(やぐら)・表櫓、裾(すそ)継(つぎ),新石場・古石場、向(むかい)土橋(どばし)、土橋の七箇所にあった。吉原に比べて武家が少なく、町人の色里であったから人気が高かった。深川は江戸城の東南の方角、つまり辰巳にあるので「辰巳」と呼んだ。

(2)吉原との違い
吉原は公認の遊郭、深川は未公認の岡場所だった。古くから遊女的な芸者がいて客をとっていた。芸だけを売る芸者も多かった(吉原内の芸者は客を取らなかった)。
客と寝る芸者は「二枚看板」、芸だけの芸者は「一枚看板」といわれた。深川芸者は江戸育ちが多く、意気(粋)と気(き)っ風(ぷ)が身上で、下町の男たちに大いに受けた。
羽織芸者とも呼ばれ「~奴(やっこ)」「~弥」「~次」「~太」などという源氏名も深川が起源とされている。値段は七場所の平均で、二分(4万円)から400文(8000円)でそれほど高くはなかった。

(3)その他の岡場所、私娼たち
門前や境内に参詣者のためのお茶を飲ませる休憩所があった。これを「水茶屋」という。「休み茶屋」「掛け茶屋」とも呼ばれた。そのうち若い娘を「茶汲女(ちゃくみおんな)」として店に出すようになった。娘を揃えて色気で客を集めるようになった。水茶屋の他に「色茶屋」もあった。完全な遊女屋である。「いろは茶屋」(上野谷中)は有名である。主な客は上の近辺の坊主だったという。

場所や風体によって同じ娼婦でも呼び名が異なった。
夜鷹  単独で行動する娼婦。日が暮れて町を流しながら客をとる。ゴザを持っており、河原などの人気のないところで商売をする。年を食った女が多く、最下級の娼婦である。夜になってうろつくことからヨタカの名前になった。24文。
舟饅頭  夜鷹の船上版。川岸で客を引き、舟に乗せて大川へ出る。そこで商売をする。夜鷹より料金は少し高いのは、舟をつかうからである。船頭がいたが、ときには女自ら船を漕ぐ場合もある。饅頭を売るという目的で舟に誘ったからというが、饅頭とはずばり女性そのもののことだった。32文。

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2007-10-29 08:25:45 | Weblog
明治の私娼:
明治維新以後旗本、御家人の奥方、姫、奥女中などで、主を失い或は職をなくして生活に困窮したあげく、やむなく、女達は身を売るに至った。つまり素人女の街娼の出現だった。横浜に外人の洋妾(らしゃめん)や、「洋娼」も存在した。

洋娼と洋妾;
わが国の婦女の貞操防衛策として、外人のための遊女屋を設けることになった(万延元年(1860)。遊廓では妓の「出張制度」を設けた(異人館まで遊女を連れて行く)。
外人に妾(洋妾)を斡旋する者もあったり、素人女が売春婦に転じ洋妾を装って乗り込むものも出て来た。当時の役人には、売春外交の意味から彼女らを利用したい考えもあったため、「洋娼」はともかく「洋妾」まで取締るわけにはいかなかった。

銘酒屋女;
明治20年頃より東京市内の各所に表面は銘酒の一杯売りを看板にして、その実は数名の私娼を抱え置くことが流行した。大正年度に浅草公園裏に多数の銘酒屋と称する私娼窟ができ、官の黙許を得て、公然と営業し、世俗ではこの私娼を「銘酒屋女」と称す。

矢場女;
銘酒屋女は矢場女から転じたものだというが、それだけではなく白首女の類が交じっていた。俗に「矢場」というのは、「揚弓店」のことで、矢取女がいた遊び見世だった。店の弓矢は飾りだけ、客と長火鉢の前に話をしていたかと思うと、たちまち的裏の三畳に隠れ、客だけ裏口から送り出す。この妓が店頭から姿を隠し、1~2時間で妓は店に戻ってくる。

曖昧女;
明治期に現れた娼婦である。「曖昧茶屋」とて小料理身店に芸者と称して客席に出る白首党の私娼の居る店もあった。本業らしき商売を持ちながら、娼婦を出入りさせている怪しげな家との義なのである。曖昧女の出入りする家を曖昧屋または曖昧宿と称す。多くは秘密に売淫婦を抱え置く家をいう。地獄屋、だるまや(よく転ぶの意)。
「素人屋」は、裏街に妓が二階借りをしていたり、あるいは召使の老婆との二人暮しの「安めかけ」の蜜娼などが客をとる。

白首;
明治17年ごろ、東京に「白首」と称する私娼が出現した。「白首」はいわゆる「巣鷹」で、客を家へ連れ込んだり、屋内から呼び込んだりした妓である。白首の名は顔に白粉を厚く塗っていたからで、「白鬼」とも称したのは、昔あった「地獄」の名に因んで地獄の鬼に見立た名だった。
「露淫」(後にいう「引っ張り」)は「野伏せ」のことで現代の「青かん」の街娼の類である。

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2007-10-28 17:07:22 | Weblog
私娼のさまざま:

私娼の種類:
江戸時代には市中の「隠売女」(かくしばいじょ)として一切禁じられていた娼婦である。その集団的に現れるところが、「岡場所」遊里だった。娼婦には公娼、私娼、蜜娼、準娼などがあり、私娼はひそかに売春を常習的に稼業としている女で、蜜娼は私娼の中だが、世間を憚りながらひそかに隠れて売春を行なうものである。準娼は臨機敵な売春婦で売春の行なわれやすい職業とか立場にあるものが、まったく臨機に行なうのである。その他形態的、地域的、系統的な種類としては、街娼、船娼、土娼、駅娼などがある。

湯女;
江戸銭湯の始まりは天正18年に銭湯風呂が出現したとある。公衆浴場であるが、蒸風呂だった。浴客の垢をかくのは「垢かき女」の業だった。慶長年間に現れた「湯女風呂」にも垢かき女がいた。寛永十年ころか湯女は酒席に出て客の相手をする「大湯女」と、垢をかき髪を洗う「小湯女」とが出来たという。湯女を三人以上置くことを許されないとの制限令が出たがさらに正保二年(1645)に女を抱えて宿泊させることを禁じている。風呂屋が姿を代えて茶屋に「茶立女」の名目で、娼家を営もうとしたが、市中の隠売女の大検挙で吉原入りして正式の遊女屋となった。

よたか・引っ張り;
辻君、立君、浜君、芝姫、橋姫、橋傾城、河岸君、惣嫁など多くの異名がある。夕刻近くになると顔に白粉を濃く塗り、手拭をかぶり、莚を小脇に抱え三々五々出かけて行った。妓夫の男が客を誘い、見張り役の用心棒を兼ねて、世話をした。夜鷹の妓夫は「よたか屋」で数人の妓が共同して一人の妓夫を雇っていた。
「よたか」の類を後に「引っ張り」と呼んだ。“客二つ潰して夜鷹三つ食い”(川柳)十八文のそば三杯を食ったので、二十四文の客二人分の稼ぎをフイにしてしまったとの句である。

船饅頭;
江戸の「船娼」であり水上娼婦だった。東京では近代まで川筋や港のどには、食べ物を売る小船が往来し「うろうろ船」などと呼ばれていた。饅頭とは別義の秘語で、駅妓に「米まんじゅう」といっているのがある。この妓には夜鷹にも劣る賎娼があって、梅毒で足腰の立たぬものさえ船に乗せて稼がせたという。「船比丘尼」(まるたともいった)もこの種の船娼だった。大阪の「ぴんしょ」、広島の「ちょろ」、下関の「手たたき」などもみな水上娼婦だった。

踊子;
踊子は阿国歌舞伎などに「女歌舞伎」の影響を受けて発生したが、三味線の流行によって起こったとも看做される。遊女的性格を持ち、やがて江戸中において売女化し、さらに町芸者の前身をなした妓だった。

後家;
東北地方には私娼の異名に「後家」というのがある。夕方後家、蜜柑後家など。

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2007-10-27 09:23:51 | Weblog
私娼は吉原の大敵:
私娼が栄えれば、吉原の運営が脅かされる。そこで町奉行所を督励して、私娼狩りを実行させた。明暦3年の風呂屋者・湯女の弾圧である。私娼禁止の町(まち)触(ぶ)れを布告せざるを得なかった。

隠(かくし)遊女(ゆうじょ); 
踊り子・綿摘(わたつみ)・お目見え奉公人と称して、隠売女が活躍している。これらの隠売女を禁止すると布告した。隠売女屋も吉原の男どもの顔・風体をよく知っている者を招き抱えて、給与を与え、裏店に住まわせ、煙草屋などを営ませながら、ひそかに遊客の面通しをさせる。怪しいとなれば売女を隠してしまう。時には、二重壁や穴蔵の中に隠してしまう。女子幼少の頃から踊り子に出し、頃合をみて遊女に仕立てるのである。それで、吉原には奉公人が来なくなった。以前は、女衒が吉原に連れてきたが、江戸に隠遊女がはびこったので、品川、千住等に買い取られ吉原へは来ない。街道筋の旅(は)籠(たご)屋には食売女(飯盛女)を二人ずつ置くのを許しているので、彼らは売春をさせていた。ご詮議ともなれば、諸方の隠遊女を大勢預かり、宿泊客として隠してしまう。ご詮議の手が緩めば、もとの抱え主のもとへ送り返すという次第である。隠遊女は絶えることがなかった。


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2007-10-26 08:59:51 | Weblog
未公認の色里・岡場所:
(1)吉原以外の遊女たち
「湯女」という名の遊女もどきの女を置いた風呂屋がある。湯女とは風呂屋で客を世話する女たちの総称であったが、次第にその役割は変わってきて、遊女(娼婦)化した。また宿場町に飯盛女という娼婦が生まれた。四(し)宿(しゅく)(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿(新宿))は男たちが遊びに出かけるには絶好の場所だった。料理茶屋料亭の仲居がいつしか娼婦的になったり、娼婦を送り込む稼業が生まれた。いわばもぐりの遊女屋である。また芸者という名をかたった娼婦や「夜鷹」も現れた。

(2)岡場所のいわれ
「岡場所」は、公娼がいた吉原以外の私娼がいる場所の総称である。
この語源は諸説あるが、
①「岡」が岡目八目(第三者のほうが当事者より客観的に物事を判断できる)や岡惚れ(他人の恋人を、わきから勝手に恋焦がれる)の岡と同義語で、=傍(はた)(主でなく、よその意)ですなわち幕府公認の吉原(公娼)でない、傍流の娼婦(私娼)という意味がある。
②「苦海」にいる吉原の遊女を海にたとえ、それ以外の遊女を陸(おか)とした。字が岡に変わった。
③吉原では「外(ほか)の場所」といったのが、「ほか」が「おか」に転訛(てんか)し、岡の字を当てた。
上方(関西地方)にはこの言葉はなく、秀吉から許可された以外は「島場所」と呼ばれていた。

(3)岡場所の取り締まりと繁栄
元和4年(1618)吉原g誕生し、幕府は吉原以外の遊女屋稼業を禁じたものの、巧みに法の目を盗んで風呂屋が男たちの支持を得てきた。寛永期(1624~1643)の半ば頃、湯女が娼婦化した。安直で気安い湯女の人気が高まった。明暦三年(1657)幕府は大掛かりな風呂屋の取締りを行い、強制的に吉原送りとした。風呂屋稼業を取り潰された者は、「茶(ちゃ)立女(たておんな)」(客に茶を点てて女が接待するという娼婦)と名前を変えて営業していた。
(1772~1788)には四宿を含めて190ケ所もあったという。主なものは、深川、本所、浅草、日本橋、京橋、神田、下谷、本郷、小石川、牛込、麹町、四谷、赤坂、麻布。
岡場所の最盛期は田沼意(おき)次(つぐ)の時代である。老中・水野忠邦による「天保の改革」(1841)によって徹底的に弾圧され574軒取り潰され遊女4000人以上が捕まり、正業に就けない女はすべて吉原へ送られたという。その後岡場所は盛り返し、明治維新を迎えることになる。

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2007-10-25 09:37:03 | Weblog
岡場所の強味:
岡場所  江戸で吉原遊郭以外の遊里・隠れ里。
官許のわれわれの商売よりも、ご法度の茶屋商売の方が、通うのに近間で便利、繁昌している。一方で羨み、他方では、それが家庭争議を起こす原因にもなっているとして、私娼出現を非難している。
われわれは召し使う者に年月かけて仕込むので、その労力と費用は莫大なもの。ご法度商売の連中は、手間をかけずにすぐ商売をし、荒稼ぎをしている。

岡場所あの手この手:
役人が派遣されると、番人が町の中を金棒を引いて通る。それを合図に家々では遊女を隠してしまう。役人が行き過ぎると金棒の輪の音をさせないように通っていく。
遊女商売をする者は、表向きは見当たらないが、宿下り女・浪人の娘・綿摘芸者などと名づけて、先先(出向先)、または手前(自宅)でも商売をしている。



岡場所:
官許遊郭以外に散在している私娼の巣窟が岡場所である。公娼の苦海に対して陸(おか・岡)場所の義だという事である。品川、新宿、板橋、千住の四宿以外、深川の他10ヶ所以上も岡場所があった。
猫(金猫・銀猫・山猫)----岡場所における卑娼の異称で、客と同寝するのが商売であったので、寝子(ねこ)だという処から来た名である。


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2007-10-24 09:02:14 | Weblog
岡場所 深川:
深川の遊里は江戸の町から東南に当たるので、辰巳(巽)といわれ、江戸の岡場所(私娼街)の中で最も栄えた。深川七場所(仲町、土橋、大新地、小新地、新石場、古石場、表櫓、裏櫓、裾継、佃新町をさす)は繁昌であった。
深川では、芸者を「羽織」、女郎を「子供」といった。子供には、伏(ふせ)玉(だま)と呼出の二種があった。伏玉は女郎屋で客を取る女郎で、伏玉だけを抱えて置く家を女郎屋といった。呼出は呼び出されて茶屋へ行き客に会う女郎で、呼出だけを抱えて置く家を子供屋といった。
辰巳芸者は、羽織を着る定めでり、羽織芸者という呼称を自ら誇りとしていた。言葉使いも鉄火肌で、張りと意気地に生き、遊女と違って芸で立つという誇りを持っていた。
深川の言葉として:ばからしい うそはねえ ようあてなさった どうしょうの けしか
らねえ ほんにか あらっちもねえ きいてあきれる よくいうものだ 
よしか ついぞねえなど。


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2007-10-23 09:15:17 | Weblog
岡場所遊里:
岡場所遊里というのは「外場所」の意である。幕府は遊女たちの「町売り」を禁じ、また廓外での遊女稼業は一切許さないことにしたから、市中に起こった私娼遊里を「岡場所」といったわけである。岡場所とは俗称で、公式には単に市中遊女町などといっている。江戸時代には私娼を「隠売女」(かくしばいじょ)と称した。そこで岡場所遊里のことは通称で「かくれ里」「かくし町」「わけ里」などとも呼んだ。苦海十年などといわれる苦海の廓に対して、廓外の私娼遊里を岡場所といった説もあるが、俗に局外者とか第三者の意味でいう岡目八目とか、岡惚れ、岡釣りなどの遊里語にある岡と同様外の意である。「女の好くもの、芝居、こんにゃく、いも、かぼちゃ。」と云われるように女は芝居、男は遊里が当時の唯一最大の娯楽機関でもあった。岡場所で代表的なのは深川だった。


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2007-10-20 16:15:35 | Weblog
岡場所と四宿:
吉原は不便な所にあるので、私娼の巣窟である岡場所や四宿(千住、板橋、新橋、品川)の宿場が盛んになると、さびれるという現象を呈した。新吉原の名主から奉行所に三か条の訴状が出された。成徳二年には五カ条の訴状が出された。
岡場所のほか、夜鷹、比丘尼、提(さげ)重(じゅう)などという下等の売春婦が各地に散在した。岡場所として代表的なものは、深川である。深川の芸者は羽織芸者として有名であるが、吉原の芸者と違って容易に客の需(もとめ)に応じたという。
幕府は宿場には、食売女(めしうりおんな)として宿屋一軒に二人の私娼をおくことを黙認した。これを一般に飯盛(めしもり)と称した。実際には制限を越えて、飯盛の数は増加した。

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