雑学

前回に続いて雑学を紹介します。

2007-10-19 09:34:46 | Weblog
四宿
四宿の遊里
品川、内藤新宿、板橋、千住を「四宿」と称したが、吉原遊廓以外にはこの四宿だけには飯盛旅館屋の名目で女郎屋を黙許したのである。旅籠屋にまじって飯盛はたご屋があり、それが宿場女郎屋だったのであるが、他の岡場所の私娼と違っていここのは検挙されなかったのだから、ほとんど公然と営業していたのである。明治時代の私娼が集団的になった遊里は、私娼窟として俗に「魔窟」などと呼ばれていた。



四宿と飯盛女:
(1)江戸市外の繁栄
 四宿には旅人を相手にする「宿場女郎」と呼ばれる私娼がいた。吉原の遊女を「花魁」と呼び、それ以外の岡場所の遊女たちは「女郎」と呼ばれた。四宿側は、女郎ではなく宿の飯盛女(めしもりおんな)、つまりやどの雑務を行なう使用人であるという態度を崩さなかった。万治2年(1659)四宿における遊女禁止令を出したものの、宿一軒につき二人の女郎までを黙認した。これが「娼婦としての」飯盛女の起源とする研究もある。
江戸中期には一つの宿で20人の飯盛女を抱えるのも普通のことであった。そのうちそれらの宿が遊女屋に鞍替えするようになり、見世という名称を用いだす。四宿の岡場所には吉原のような決りごともなく、料金さえ払えばすぐにコトにおよべた。しかも宿泊・食事込みで200文(4000円程度)という手軽さだった。

(2)品川宿の繁栄
 女郎の品や美貌、サービスで女郎にもランクがあった。一番品川宿、二番内藤新宿、三番千住、最後が板橋宿だった。品川は交通量も多く、需要も多く、上方(関西)からの情報も多い。江戸湾という海を控え、食べ物もうまい。四宿の中では抜きん出て繁昌した。

(3)内藤新宿の馬糞女郎
 甲州街道は、街道沿いに大名や旗本の家々が立ち並んでいた。ここに内藤家の下屋敷があり、新しい宿場はこの内藤家の屋敷をもらって開かれた。(内藤新宿の名がついた)。青梅街道もあり、色里は次第に大きくなった。「吉原は蝶 新宿は 虻(あぶ)が舞い」(川柳)といわれるほど田舎であった。近郊からの野菜などを運ぶ馬車が多く、通りは馬糞が多かったのでここの女郎を「馬糞女郎」と呼んだ。享保3年廃止されるが明和元年(1772)再び宿場として再興され飯盛女も許可された。幾多の取り締まりもすり抜けて、昭和33年の売春防止法施行まで赤線(公認遊女町)、青線(未公認遊女町)として残った。

(4)格が落ちる千住と板橋
 奥州街道・日光街道の最初の宿場として千住宿は発展した。江戸の市中から遠いこと、近くに大名屋敷もなく、近在の住人たちが客だったので賑わいはなかった。
板橋は、飯盛女が公認されたのは千住と同じ宝暦3年でその数も150人と同数である。女郎の格は四宿中最低で、客の多くは近在の農民だったという。
「板橋と 聞いて迎えは 二人減り」(川柳)板橋の女郎は人気がなかった。

         ♪♪米汁呑忘憂♪♪