吉原の客:
大名旗本が遊客となって盛んに吉原通いをしたのは天和(1681~84)のことで、当時は太夫という最高級の遊女がいたが、大名道具といわれ、町人には手の届かない高嶺の花だった。
大名の出入りのなくなった元禄(1688~1704)以降の吉原は、町人の世界となった。御用商人が台頭してきたからである。お大尽遊びの紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門がよく知られている。
参勤交代で江戸へ出てきた侍が着物の裏に浅黄木綿を用いていたので吉原では浅黄裏と蔑称していた。本来なら上得意なのだが田舎者として遊女にもてない代表であった。
そのた嫌われ者として吉原のことなら何事も承知しており、洒落をいって通ぶるものの通人で半可通(はんかつう)とよばれる者がいた。
♪♪米汁呑忘憂♪♪
大名旗本が遊客となって盛んに吉原通いをしたのは天和(1681~84)のことで、当時は太夫という最高級の遊女がいたが、大名道具といわれ、町人には手の届かない高嶺の花だった。
大名の出入りのなくなった元禄(1688~1704)以降の吉原は、町人の世界となった。御用商人が台頭してきたからである。お大尽遊びの紀伊国屋文左衛門、奈良屋茂左衛門がよく知られている。
参勤交代で江戸へ出てきた侍が着物の裏に浅黄木綿を用いていたので吉原では浅黄裏と蔑称していた。本来なら上得意なのだが田舎者として遊女にもてない代表であった。
そのた嫌われ者として吉原のことなら何事も承知しており、洒落をいって通ぶるものの通人で半可通(はんかつう)とよばれる者がいた。
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