雑学

前回に続いて雑学を紹介します。

2007-10-26 08:59:51 | Weblog
未公認の色里・岡場所:
(1)吉原以外の遊女たち
「湯女」という名の遊女もどきの女を置いた風呂屋がある。湯女とは風呂屋で客を世話する女たちの総称であったが、次第にその役割は変わってきて、遊女(娼婦)化した。また宿場町に飯盛女という娼婦が生まれた。四(し)宿(しゅく)(品川宿、板橋宿、千住宿、内藤新宿(新宿))は男たちが遊びに出かけるには絶好の場所だった。料理茶屋料亭の仲居がいつしか娼婦的になったり、娼婦を送り込む稼業が生まれた。いわばもぐりの遊女屋である。また芸者という名をかたった娼婦や「夜鷹」も現れた。

(2)岡場所のいわれ
「岡場所」は、公娼がいた吉原以外の私娼がいる場所の総称である。
この語源は諸説あるが、
①「岡」が岡目八目(第三者のほうが当事者より客観的に物事を判断できる)や岡惚れ(他人の恋人を、わきから勝手に恋焦がれる)の岡と同義語で、=傍(はた)(主でなく、よその意)ですなわち幕府公認の吉原(公娼)でない、傍流の娼婦(私娼)という意味がある。
②「苦海」にいる吉原の遊女を海にたとえ、それ以外の遊女を陸(おか)とした。字が岡に変わった。
③吉原では「外(ほか)の場所」といったのが、「ほか」が「おか」に転訛(てんか)し、岡の字を当てた。
上方(関西地方)にはこの言葉はなく、秀吉から許可された以外は「島場所」と呼ばれていた。

(3)岡場所の取り締まりと繁栄
元和4年(1618)吉原g誕生し、幕府は吉原以外の遊女屋稼業を禁じたものの、巧みに法の目を盗んで風呂屋が男たちの支持を得てきた。寛永期(1624~1643)の半ば頃、湯女が娼婦化した。安直で気安い湯女の人気が高まった。明暦三年(1657)幕府は大掛かりな風呂屋の取締りを行い、強制的に吉原送りとした。風呂屋稼業を取り潰された者は、「茶(ちゃ)立女(たておんな)」(客に茶を点てて女が接待するという娼婦)と名前を変えて営業していた。
(1772~1788)には四宿を含めて190ケ所もあったという。主なものは、深川、本所、浅草、日本橋、京橋、神田、下谷、本郷、小石川、牛込、麹町、四谷、赤坂、麻布。
岡場所の最盛期は田沼意(おき)次(つぐ)の時代である。老中・水野忠邦による「天保の改革」(1841)によって徹底的に弾圧され574軒取り潰され遊女4000人以上が捕まり、正業に就けない女はすべて吉原へ送られたという。その後岡場所は盛り返し、明治維新を迎えることになる。

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