雑学

前回に続いて雑学を紹介します。

2007-10-29 08:25:45 | Weblog
明治の私娼:
明治維新以後旗本、御家人の奥方、姫、奥女中などで、主を失い或は職をなくして生活に困窮したあげく、やむなく、女達は身を売るに至った。つまり素人女の街娼の出現だった。横浜に外人の洋妾(らしゃめん)や、「洋娼」も存在した。

洋娼と洋妾;
わが国の婦女の貞操防衛策として、外人のための遊女屋を設けることになった(万延元年(1860)。遊廓では妓の「出張制度」を設けた(異人館まで遊女を連れて行く)。
外人に妾(洋妾)を斡旋する者もあったり、素人女が売春婦に転じ洋妾を装って乗り込むものも出て来た。当時の役人には、売春外交の意味から彼女らを利用したい考えもあったため、「洋娼」はともかく「洋妾」まで取締るわけにはいかなかった。

銘酒屋女;
明治20年頃より東京市内の各所に表面は銘酒の一杯売りを看板にして、その実は数名の私娼を抱え置くことが流行した。大正年度に浅草公園裏に多数の銘酒屋と称する私娼窟ができ、官の黙許を得て、公然と営業し、世俗ではこの私娼を「銘酒屋女」と称す。

矢場女;
銘酒屋女は矢場女から転じたものだというが、それだけではなく白首女の類が交じっていた。俗に「矢場」というのは、「揚弓店」のことで、矢取女がいた遊び見世だった。店の弓矢は飾りだけ、客と長火鉢の前に話をしていたかと思うと、たちまち的裏の三畳に隠れ、客だけ裏口から送り出す。この妓が店頭から姿を隠し、1~2時間で妓は店に戻ってくる。

曖昧女;
明治期に現れた娼婦である。「曖昧茶屋」とて小料理身店に芸者と称して客席に出る白首党の私娼の居る店もあった。本業らしき商売を持ちながら、娼婦を出入りさせている怪しげな家との義なのである。曖昧女の出入りする家を曖昧屋または曖昧宿と称す。多くは秘密に売淫婦を抱え置く家をいう。地獄屋、だるまや(よく転ぶの意)。
「素人屋」は、裏街に妓が二階借りをしていたり、あるいは召使の老婆との二人暮しの「安めかけ」の蜜娼などが客をとる。

白首;
明治17年ごろ、東京に「白首」と称する私娼が出現した。「白首」はいわゆる「巣鷹」で、客を家へ連れ込んだり、屋内から呼び込んだりした妓である。白首の名は顔に白粉を厚く塗っていたからで、「白鬼」とも称したのは、昔あった「地獄」の名に因んで地獄の鬼に見立た名だった。
「露淫」(後にいう「引っ張り」)は「野伏せ」のことで現代の「青かん」の街娼の類である。

          ♪♪米汁呑忘憂♪♪