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憂生’s/白蛇

あれやこれやと・・・

―伊勢の姫君― 7  白蛇抄第13話

2022-09-05 09:33:59 | ―伊勢の姫君―   白蛇抄第13話

海老名の胸中いかばかりであるか?

どんなにか、主人を御守りいたそうという思いにおいては

伊三郎に引けを取らぬものがあるのが海老名である。

見も知らぬ、寄る辺のないものばかりの土地に、

とついで来たかなえである。

ほんのわずかでも、かなえを軽んじられたくない。

海老名の想いの裏には、かなえが光来童子に攫われた痛みがある。

主膳様とても知る由もないことではあるが、そのことが引け目である。

主膳様に乞われて、かなえ様はきてやったのである。

引け目がそのような虚勢を張らせてしまうのである。

誰一人にも明かせぬ海老名の心根であるが、

ゆえに、かなえ様を毛先一つでも軽んじるような挙動を、

海老名は見逃しに出来なかった。

蟻の穴一つからでも楼閣は崩れる。

海老名が主を思うばかりに、

同じ立場の伊三郎の心情を思い量れる事は出来なかった。

無論。

伊三郎とて海老名の心底の不安なぞ判る由もなく、

さりとて判って貰っては困るのであるが、

海老名と言う乳母への評価はきつい物になったのである。

その海老名の昨日である。

産土神の前での寿ぎの儀式を終えると、宴は夜を徹する。

頃合を見て、寿老人は花嫁と花婿を場から下がるように告げる。

控えの間に下がるかなえに海老名は付き添った。

かなえが迎える初夜の仕度を整える為である。

綿烏帽子を担ぎはずさせ、白絹の緞子の内掛けを羽織取り、

胸元の懐剣を改めて白のうち合わせの胸元に差し込みなおした。

そして、海老名は二の腕を捲り上げると、

肘の一寸下を自らの小束でさした。

かなえは呆然とした面持ちで海老名の不審な行動をみつめていた。

「海老名?なにをしやる?」

深く刺したわけではないが海老名の腕に血が滴り、伝い落ちてゆく。

指の先に流れ落ちる血を海老名は小さな肝袋に受け始めていた。

「破瓜の印が・・・・いりましょう?」

「あ・・・」

その為に海老名は己に傷をつけたのである。

人に見咎められる場所に傷を残すわけにはいかない。

物事に聡い人間に見咎められた何を悟られるか判ったものでない。

袖の中に隠れる傷場所を選ぶと、

海老名はかねてから用意してきた肝袋の中に

滴り落ちる血をあつめたのである。

「これを・・・」

差し出された肝袋をかなえは受取った。

隠滅のすべなど考え及びもしなかったかなえである。

(そんなことをせぬでもよかったものを・・・)

主膳という男がかなえにとって初手でないことを主膳に咎められたら、それはそれでよかったのである。

主膳を、

己を、

欺いて生きるよりは、出来るなら、咎められた勢いに乗じて

「かなえには、命を懸けた人がおりました」

と、いいのけて、せめて己の心に殉じることができるなら。

だが、海老名はかなえの心をみぬいたのか

「主膳様が苦しみましょうから」

と、付け加えた。

かなえがかなえの心のままに何をどう暴こうが、

かなえがおのずから望む事である。

だが、事の事実を知れば苦しむのは主膳であろう?

だが、それを知って心が変わる主膳であれば

よほどかなえにとってその方がよい。

が、そんな主膳ではない。

それならば、よほど何もかもさらけ出した上で、共にいきるほうが・・。

と、かなえも考えてみたことである。

が、海老名が己を傷付けてまで、護ろうとするかなえであるならば。

明かしてはならないことなのである。

「わかりました」

かなえは頷くしかなかった。

破瓜の印という、醜い虚実を身体の中に仕込むと

やがてかなえは上臈の声に呼ばわれ、主膳の待つ、

部屋に付き添われていった。

暗い廊下を手燭の明かりで歩み続けると、上臈は歩を止めた。

「この先は・・かなえ様お一人で」

上臈はもう、動こうとしなかった。

かなえが歩みだし、主膳の居室の戸を開くのを見届けるために、

じっと立ち尽くしていた。

「主膳様がおまちしております」

かなえにとって寄る辺の人である主膳が

すぐそこにいるのですからと、

上臈はかなえを促した。

 

戸を開けはなったかなえがゆくりと部屋の中に入ると、

身体の向きを変え、ひざを曲げ戸を閉めなおした。

もう一度、ゆっくりと立ち上がると、明かりの漏れてくる奥に歩み寄り、開かれたふすまの向こうにいる主膳の姿に再び、

ひざをおりかなえは深々とぬかずいた。

「主膳さま。かなえでございます」

かなえが頭を上げるより先に

「こちらへおいでなさい」

主膳に呼ばれた。

主膳を前にかなえは三度ひざを着いた。

指を付き、頭を下げると

「一旦、偕老同穴の契りを奉れば、

御心の変わらせることのなきように

末永くかなえが事をおたのみもうしあげます」

夫婦の事始の心緒をいう。

返す言葉は主膳も同じで

「一旦、偕老同穴の契りを奉れば其の心、

終生かなえ様に灌ぎまつりますれば、

信女になりても、かばねになりても、主膳がものと思し召されよ」

交わす言葉は定まっており、一種の祝詞のようなものである。

かなえが顔を上げたのは主膳の手に引き寄せられたせいである。

かなえは懐の刀をぬきだすと主膳にささげた。

何か事があれば、その刀で己の胸を刺し貫くことになる。

落城の憂き目にあい、主膳の後をおうこともありえる。

其の刀には、かなえの運命と命が載せられている。

懐剣を主膳に預けるという事は、

かなえが命を主膳の手に預けるという事である。

かなえから差し出された懐剣を主膳はしかりと掴むと

「かなえとわしは、これからは両刃であるぞ」

と、告げた。

かなえが苦しむ事があれば主膳も苦しむ。

返す刃で主膳が苦しむ事があればかなえも苦しむ事になる。

同じ運命を歩む事になるのである。

まだ、一心同体といえるほどの重なり合いが出来た夫婦ではない。

が、それでも、一旦、夫婦になったその時から、

夫婦という運命の流れにのまれてしまうのである。



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