宿に居続けている比佐乃も途方に暮れている。
次の朝にもう一度、森羅山の社に行こうと思って宿の者に尋ねると
「森羅山には社は無い」
足下に返事が返って来るだけでなく、
うろのある椎の木の事は確かに聞いた事があるが
そんな事より森羅山に入る事自体がとんでもない事だ。お止めなさいと
宿の亭主からおかみ、はてには番頭、手代まで顔を並べて言うのである。
「なんともありませなんだ」
比佐乃が昨日、夕刻遅くに森羅山の中に入っている事を告げると、
「まあまあ、良く、ご無事で」
おかみが言うのに続けて亭主が
「命拾いをしたと思って、もう、行っちゃあいけませんよ」
宥めるのである。
「そうですよ、。あそこは山童もおるに・・まあ、よう、無事に・・・」
命さえ危うかった場所と知らずに立ち入った己であると
おかみに二度まで言われると
比佐乃も、今更ながらにぞおおとしてきたのである。
「ああ、それでも、他にも女の人が一人で入っておりましたのですよ」
思い出したたことを口に出すと
「ああん!?そりゃ・・・澄明さんじゃねえのかい?」
亭主がおかみと顔を見合わせていう。
「澄明さん?」
尋ね返す比佐乃に
「なーに。えれえ陰陽師様でな、男じゃ男じゃと思うておったら・・・
これが、女子の方でなあ・・・。
その澄明さんが森羅山の見廻りにいっておったのでないか?」
「澄明さんという方は、年の頃で言えば四十くらいの?」
比佐乃の言葉に再び亭主はおかみの顔を見た。
「いんやあ、澄明さんというは・・娘さんあんたと、同じくらいの年恰好の人だよ」
「四十くらいの女ならば尚の事、
この辺りの者なら、益してや日が暮れてから森羅山に入る馬鹿はしやしないよねえ。
おまえさん?」
おかみも一層不安気な顔になっていた。
「娘さん。それもなんだったか判ったもんじゃないよ」
案じる亭主に比佐乃が
「で、でも、その人は社の事も知っておったのですよ」
比佐乃は女が言っていた
「社は向こうの神様の用事のある者の前にしか現われない」と
いう事はどうやら本当の事だと合点がいったのであるが
「・・・・・」
夫婦は言葉を失って顔を見合わせていたが、
やがて、亭主が口を開いて、
「社があるなんて、話しは聞いた事がないぞ。
長い事ここで商売をしておるが、いっさい聞いた事がない」
重ねて言うと
「娘さんはなんでまた、その社があるって、思い込んでらっしゃる?」
社の存在を頭から否定する物言いであった。
はなから、ないと言ってしまったら、
この娘が何も言えなくなると思ったおかみの方が尋ね変えた。
「娘さん、その、社になんぞ用事があっての事なのでしょう?」
狐かなんぞに化かされておるのであろうが、娘の顔色がひどく真剣に見えたのである。
「社の中に良人がおるのです」
比佐乃が答えるとおかみがえっと声を上げた。
客商売も長いとおかみも亭主も色々な事情を抱えた人間をみる事が多くなり、
その長い経験からおかみも亭主も
一つの良くありがちな、男の気まぐれと言う考えに行き当たっていた。
「娘さん。あんた・・・気の毒だがな。変な男に誑かされたんだよ」
あからさまに亭主はそう言う。
おかみも同じ意見らしく
気の毒ではあるが早い内に目を覚ましたほうが良いとうなづき顔で
亭主の娘への辛い讒言を聞いていた。
「なあ、御家の方も心配なさってられよう?
そんなとんでもねえ嘘をついて、あんたを捨てちまおうって男だ。
追いかけ廻して挙句、上手言に乗せられて、
親さまに二度と逢えないような苦界にでも叩き売られなかっただけでも、
もうけものだと思って家にけえんな」
渋い顔を見せた亭主に比佐乃は
「良人はそんな人ではありません。小さな頃からよく知っております。
そんな心根の人ではありません。
それに、社があると言うた女がいるのですよ。それはどうなります?」
頑強に否定する比佐乃を憐れではあるが、亭主は更に
「それこそ、その女とつるんでいたんじゃねえか?
え!?のこのこ追いかけて来た馬鹿な女の顔を拝んでやろう
って、思ったんじゃねえか?」
余りの語気の鋭さとその内容におかみも亭主の袖を引いていた。
「そ、そんな事はありません」
あからさまに「なぜならば、兄である」とは口にも出来ず比佐乃は唇をかんだ。
「騙されたって判るまではどんな女でも同じ事を言うよ」
「御前さん。そりゃ、言い過ぎだよ。もうちっと・・・」
おかみは亭主の口の聞きように、俯いた比佐乃が哀れになっていた。
「まあ、気がすむまで探してみりゃいいよ。
でも、森羅山なぞに一人では入らない事ですよ」
「はい」
か細い返事をすると比佐乃はもう一度自分の部屋に戻って行った。
比佐乃が奥まで入りこんだのを見届けると亭主の方が
「ええ!?なんてこった!?
森羅山に一人で行かせるなんて。
詰る所、その男はあの娘を山童にでも食わせてぶち殺しちまおうって料簡じゃねえか」
「御前さん。めったな事を言いなさんな。
そんな事があの娘の耳にでも入って、儚んで首でも括ったらどうすんだよ」
「ああ。そうだな」
「でも、妙な話しだよね。森羅山に入った女が居るってのはどういう事だろう」
「さっき俺が言った通りだろうよ」
「だったら、娘さんをぶち殺しちまおうって危ない所に自分の女を行かせるかい?」
「知らなかったのかもしれねえじゃねえか。
嘲笑ってやりたかっただけって事もあるだろうよ」
「だったら、女と逃げた所に娘さんが来るような馬鹿をやらかすぐらいなら
堂々とその土地で二人でいちゃついてればいいじゃないか?」
おかみの言う事に一理あると亭主は頷いていた。
「だなあ・・・」
「だろう?わたしゃ、やっぱ、おまえさんが言ったように・・・」
しっかり亭主を持上げておいて
「その、女はなんだか判んない者に思えてさ」
「ええ?」
「社の話しも作り話じゃなくてさ」
「え、ええ?なんだよ。御前まで」
「だって、あの娘、真剣だったよ。なんかあるんだよ!
本当に社があってさあ。それこそ、その女も社から出て来たんじゃないかえ?」
「おいおい。よせよ。冗談じゃ・・・・」
言いながらも亭主はぞっとした思いを抱えていた。
「と、澄明さんを呼んでこようか?」
「あ、俺がいってくらあ」
おかみの出した案に亭主も頷いていた。
「おい。こんなまやかし事はさっさと片をつけねえといけねえ」
言うが、早く亭主は外に飛出していた。
「はーん。なんだね、澄明さんに会いに行くってなったら
えらく勢がいいじゃないかあ?」
その背に半分悋気の言葉をかけながら、
亭主の言う通りだとも思っていたおかみだった。
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