不倒翁(ふとうおう)

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2013-03-31 10:13:11 | 書道教室
1. できた順番に並べなさい。

 古隷、八分、楷書、甲骨文、小篆
甲骨文→小篆→古隷→八分→楷書

2. 後漢の有名な碑を二つ挙げて、それぞれの特徴を述べよ。

後漢の刻石でいえば、篆書風の結構が、散見できる 「三老諱字忌日記」さんろうきじきじつき や篆意を内在し、異趣の風格を漂わせている 「祀三公山碑」しさんこうざんぴ や 「延光残碑」えんこうざんぴなどが、各々、独自の世界を見せています。
また、摩崖の代表格として名高い 「開通褒斜道刻石」かいつうほうやどうこくせき も摩崖特有の風趣があり、「大吉買山地記」だいきつばいざんちき や 「侍延里父老買田約束石券」 、「裴岑紀功碑」はいしんきこうひ などは碑石ではあるが、
この書風と類似しており、その同系統にあるものと考えられます。
その一方で同時代に 「陽嘉残碑」ようかざんひ や 「北海相景君碑」ほっかいしょうけいぐんひ のように完成された八分様式をそなえた隷書刻石が存在しており、このことより、
古隷や八分は当時の一様式であったことがわかります

3. 章草とは何か。それをよくした人物は誰か。

章草(しょうそう)は、史游が隷書を略して創始したという(中国の書論#章草の創始者 (書断)を参照)。
章草は八分を速書きして、その点画を省略し、八分の方形なのに比べて円形に近いものになっている。
波磔は残っているので今日の草書(今草とも)よりも古意があり、主として尺牘などに用いられた。
今草は章草を略したもので、後漢の張芝が創始者という(中国の書論#草書の創始者を参照)。
しかし、章草も今草も決して一人の力で生まれたものではない。漢簡によると、
章草は八分と前後して興っているので、八分の自然の変化と見るべきである。
章草の書き手として、史游、張芝の他に、後漢の章帝、魏の鍾?などが有名

4. 行押書とは何か。それをよくした人物は誰か。

行書 [編集]唐の張懐?の『書断』上巻に、「行書なる者は、後漢の劉徳昇の作る所なり。
即ち正書の小偽、務めて簡易に従い相聞流行す。故にこれを行書という。」
とある。
正書とは楷書のことであるから、楷書から行書が生まれたとしているが、
今日の出土文字資料の分析によれば、行書は楷書が行われる以前に
草書と隷書の長所をとってこの時代に発生したとされている。
ただし、これは後の行書と区別して、行狎書(ぎょうこうしょ、行押書(ぎょうおうしょ)とも)と称され、
西域出土の残紙類に見られる。また行書は劉徳昇の作というが、その書は残存しないので不明である

5. 初唐の碑名と著者を3つ挙げよ。

欧陽詢 557年 - 641年
宗聖観記(隷書、626年)
房彦謙碑(隷書、631年)
化度寺?禅師塔銘(楷書、631年)
九成宮醴泉銘(楷書、632年)
温彦博碑(楷書、637年)
皇甫誕碑(楷書、627年から641年頃)

虞世南 558年 - 638年
孔子廟堂碑(楷書、627年頃)

?遂良 596年 - 658年
伊闕仏龕碑(楷書、641年)
孟法師碑(楷書、642年)
房玄齢碑(楷書、649年から652年頃)
雁塔聖教序(楷書、653年)

6. 王羲之の残した書蹟、碑名を2つ以上挙げよ。

『楽毅論』・『十七帖』・『集王聖教序』・『黄庭経』・『喪乱帖』・『孔侍中帖』・『興福寺断碑』

7. 書体を述べよ。

石門頌、石門銘、石鼓文、泰山刻石、晋祠銘、書譜

石門頌(せきもんしょう)
『楊孟文石門頌』(ようもうぶん-)、『楊孟文頌』ともいう。
『開通褒斜道刻石』と同じ崖壁に刻された摩崖碑である。
石門を開き、道を開通させた司隷校尉の楊孟文の功績を記したもので、
『開通褒斜道刻石』の時代に開通した道路が再び壊れ、
不通になっていたのを再開したときの碑である。
古隷に近い文字も多いが、古来、隷書の傑作とも称せられ、学ぶ者が少なくない。字大は9cm

石門銘
碑文は楷書で1行22字、全28行である。
峻厳な山道の途中にもかかわらず、極めてきれいな状態で残されている。
内容は石門洞の歴史、今回の改修工事に至る経緯、竣工後の道への讃辞と続き、最後に四字句の讃をもって終わる。
書風はいわゆる「六朝楷書」である。
ただし険しい環境下で刻したためか、
他の「方筆」を用いた角ばって緊密にしまった書風とは異なっており、
やや「円筆」(角を丸める筆法)に近い書法をとり、横長で自由奔放、飄々とした印象を受けるものとなっている。
北魏の書の多様性を知るよい史料である。

石鼓文(せっこぶん)
とは、唐初期に陝西省鳳翔府天興県で出土した10基の花崗岩の石碑、
またはそれに刻まれた文字をいう。現存する中国の石刻文字資料としては最古のもので、
出土した当時から珍重され、現在は北京故宮博物院に展示されている。
通称の「石鼓文」は、詩人の韋応物や韓愈がこの石碑を称えて「石鼓歌」を編んで広まった。
狩猟を描写した詩が刻まれており、
当時の狩猟をはじめとする王の暮らしがわかる文献資料の一つに位置づけられる。
字体は始皇帝の文字統一以前に用いられた「大篆」の例として書家に愛好され、呉昌碩の臨書など作品のモデルとなっている

泰山刻石
秦の公式書体である篆書体で刻まれ、篆書体の数少ない書蹟として知られる。
泰山刻石 [編集]紀元前219年の巡幸の際、
「霊山」として中国歴代王朝の皇帝に崇敬された泰山に建てたもの。
現存する刻石の一つであるが、極めて保存状態が悪く、
記録によれば北宋代の時点で既に始皇帝のことについて書かれた部分は剥げ落ち、
二世皇帝の部分のみが残っている状態であったという。
この当時はそれでも判読可能な文字が146字あり、
判読不可のものも含めれば計222文字が確認出来たが、
その後摩滅が著しく進み、明末には29字まで減少。
さらに清代に入った乾隆5(1740)年、火災に遭って行方不明となり、
後に発見された時にはわずかに10字を残すのみとなってしまった。
現在、原石は泰山の麓にある泰安博物館において厳重に保存されている。
拓本としては十字本、二十九字本、五十三字本、百六十五字本の4つが伝わっている。

晋祠銘
晋祠銘 [編集]貞観20年(646年)の書である。
晋祠は晋王祠ともいい、春秋時代の晋国の祖、唐叔虞を祀った祠廟で、山西省太原市にある。
碑額は飛白で、「貞観廿年正月廿六日」の9文字、銘文は行書で書いている。
その内容は、父の高祖とともに隋末の混乱時に兵を起こすにあたり、晋祠に武運を祈願し、
それから30年後、高祖のあとを受けて帝位についた太宗が神の徳に感謝したものである。
太宗が高句麗征伐の帰途、太原に滞在したときに作った文で、
自ら書して碑に刻させた。筆意は自由自在でわだかまりがなく、
筆勢雄渾なその書は、行書で書かれた最古の碑でもある。
本文28行、各行44?50字であるが、石質が悪いため破損が多く、よい拓本がない。

書譜
書譜 [編集]『書譜』(しょふ)は垂拱3年(687年)、孫過庭自ら著した書論(運筆論)で、
著者自身が書いた真跡が台北故宮博物院に所蔵されている。
最初の行に「書譜巻上 呉郡孫過庭撰」、最後の行に「垂拱三年写記」とあり、
全文369行で3727字ある。巻の前後には「政和」・「宣和」・「双龍」の印があるが、
これは徽宗の鑑蔵印である。
『書譜』は王羲之の『十七帖』とともに草書の代表的な古典である。
孫過庭は王羲之の書法を継承し、さらにその書法を発展させた。
いまもなお『書譜』が重要とされるのは、王法の忠実な継承作であるとともに、
書論としての内容の見識の高さにある。その内容は、王羲之をはじめとする書人の比較、
過去の書論の批判、書の本質、書の表現方法など多岐にわたるが、すべて書家としての経験からの論である。
最後に「体得したことを秘することはしない。」と記し論を終えている。

8. 刻石と石碑の違いを述べよ。

石に画像や文字を彫刻したもの。
特にいまだ 碑の形式をなしていないものをいうことが多い。
代表例として始皇帝刻石,前漢の魯 孝王刻石などがある

石碑とは、各種の石材に銘文などを刻んで建立したもの。
厳密に言えば、建立することそのものに第一義的な意味がある
墓石など

9. 宋の四大家は?

宋の四大家

蘇軾は、中国第一流の文豪であるが、書にも一見識を備えた。
書は二王からはじめ、のち顔真卿・李?を学んだ。楷行草をよくし、特に大字に筆力を見る。
書の中に人間性を確立し、他人の書を模倣することを排し、技巧よりも独創性を尊んだ。
この説は師の欧陽脩から出て、さらにこれを徹底している。
蘇軾は黄庭堅や米?より少し先輩であったため指導的な地位にあり、
特に思想的に彼らに与えた影響は大きい。蘇軾は顔真卿の革新的な立場を理想とし、
黄庭堅と米?はこの考えを発展させた。

黄庭堅は、蘇軾の人物を尊敬し、その門で書を学び、晩年には張旭・懐素・高閑の草書を学んだ。
黄庭堅は、「書に最も大切なものは、魏・晋の人の逸気、つまり法則にとらわれず自由に心のままに表現することであり、
唐の諸大家は法則にとらわれてこれを失ってしまった。
張旭・顔真卿に至ってこの逸気を再現した。」と言っている。
黄庭堅の代表作の『黄州寒食詩巻跋』は、蘇軾の『黄州寒食詩巻』の跋であるが、
跋というよりも蘇軾の書と妙を競っているような感があり、傑作とされている。

米?は、書画がうまかった上に鑑識に優れたため、
第8代皇帝徽宗の書画の研究およびコレクションの顧問となり、非常に重く用いられた。
その鑑識眼は中国史上最高といわれる。
また、自らも収蔵し、臨模に巧みで、晋唐の名跡をよく臨模した。
彼の作った?本は原本と区別することができなかったという逸話がある。
顔真卿・欧陽詢・柳公権・?遂良を学び、後に二王らの晋人を深く研究したが、
彼ほど古典を徹底的に研究した者は稀である。
書画についての著書も残し、今日でも王羲之や唐人の真跡を研究する上で最も重要な参考資料となる。
三大家の中で彼の書は実力の点で最も優れている。

蘇軾・黄庭堅・米?の三家の共通点は、唐以来の技術本位の伝統的書道を退けて、
創作を主とする書芸術を打ち立てたことにあり、これは明・清以後の近代書道の方向を示すものとなった

蔡襄は、仁宗の頃、宋朝第一の書家と称せられ、その書は楷行草の各体をよくし、行書が最も優れ、小楷がこれに次いだ。
概して伝統派の本格的な書を書いているが、大字は顔真卿の書風であり、
宋の顔真卿とも称された。
また、その中に宋代の豪放縦逸な書風の先駆をなすものを含んでおり、
蔡襄の出現が後の革新的な宋の三大家を生む素地となった。
なお、本来の四大家は蔡襄ではなく蔡京との説もある。

10.明の著名な書家を知っているだけ挙げよ

沈周・文徴明・祝允明・董其昌 張瑞図・黄道周・倪元?・傅山・王鐸 張旭 懐素

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