「愛」の反対は、「憎悪」だとうか、「怒り」だろうか、「畏怖」だろうか、それとも、「無関心」だろうか・・・。
ともあれ、そんな新作映画「シン・ゴジラ」を観た。正直にいうなら、実は二回観た。予想を上回る観客動員数らしい。
ま、もともとゴジラ好きというのもあるけれど、今回の「シン・ゴジラ」は、さすが庵野監督、子供向けの作品やハリウッドの怪獣パニック映画ではない、54年の「ゴジラ」を随分踏襲している点がよかったのだ。
「シン・ゴジラ」(公式HPより)。
もちろん、伊福部昭へのリスペクトも入っている。し、第一、総勢328名という出演者や関係者のラインナップもすごい。中でも、あの三人の監督が揃って出ていたのには驚いた。三人とは、原一男(生物学者役)、塚本晋也(古代生物学者役)、犬童一心(海洋生物学者役)である。
要するに、みんな出たいのだ。
そういう気分を反映してか、エンドロールで、役者のヒエラルキーがないのもいい。
また、今回のゴジラの動きは、野村萬斎が振り付けしたらしい。そう、だからゴジラはナンバなのだ。
それと、我が家でご贔屓の広島大学生物学の長沼毅教授も協力者にクレジットされていたのが目を引いた。これは、本を読んだことのある人なら推察できるかもしれない。きっと「あの場面」のアドバイスをしたに違いない。そう、たぶん「あそこ」だ。
う~ん、ま、結局、みんな出たいし、協力したいのだ。いいノリだとおもう。
キャスト一覧(公式HPより)。
切れの悪い生物学者役の原監督。どうもこういう映画にはやっぱり似合わないけど・・・。
日本人の基本は全部ナンバだった。
なぜ、そこまでみんなゴジラが好きなんだろう。
もちろん、演出も迫力あるし、54年のゴジラのすごみをいまに再現しているし、尻尾も長い。
けれど、問題は、その裏というか、背景にあるものである。
今回の「シン・ゴジラ」の「シン」とは、「真」であり、「新」であり、「神」であるそうだが、それも言い得て妙だ。
「シン・ゴジラ」(公式HPより)。
そもそも、54年のゴジラは、南洋からやってくる「英霊(戦争の御魂)」であり、津波や台風や地震などの「天災(自然)」であり、日本の「神(客神)」でもあった。
だから、アメリカに出したときに、Godを入れて、Godzillaになったのだ。
そこが抜けて、怪獣映画になってしまうと、ちょっと違うものになる。
ゴジラとは、敵対の対象ではなく、人間の愚行が反映されている「荒魂」であり、だからこそ、自省の念を込めて、きちんと「鎮魂」をして、お帰りいただくのが正しいやり方だ。少なくとも54年のゴジラはそうなっている。
少女たちの悲壮な「歌(言霊)」に心動かされた芹沢博士は、ゴジラにお帰りいただく「人身御供」となった。
54年のゴジラの上陸シーン。
「呉爾羅」伝説の残る大戸島の神楽。伝承に倣い呉爾羅様にお帰りいただく儀式を行う。
芹沢博士役の平田昭彦。
今回の「シン・ゴジラ」の場合、おそらく「原発」や「津波」の災害の象徴、遠くは71年前のヒロシマ・ナガサキの原爆から物語を因縁づけている。
ゴジラの登場と引き換えに消えた謎の牧博士とは何者か。クルーザーに残された「折り鶴」と賢治の「春と修羅」の意味するものとは。そもそもこの牧博士は、正義の見方なのか、マッドサイエンティストなのか。
それに、今回のゴジラが、幼体から自己進化するのはどういう意味を含んでいるのだろうか。
いくつか、どちらともとれる設定を忍ばせている。オーディエンスに委ねられた暗喩がいくらでも仕込まれているのだ。
原爆直後の広島。
3.11の避難所。
ただし、少なくとも「核」という人間の畏れを知らない行為の象徴であったり、人間の愚かさについての天からの声として登場したものの設定はうかがえる。
かつ、そういう事態に対する人間の対処方法の未熟も描いている。
とくに、欧米の脅威に対する核を使いたがる姿勢や、日本の危機監理体制の低さを事実に基づいて如実に表しているともいえるだろう。
そういう意味では、もしこれが正しいなら、いまの日本は、有事の危機には何の対応もできなさそうだ。
でもしかし、そこをもっとその背後をいうなら、これに協力した政府関係機関をみる限り、実はその裏があるのではないかとも勘ぐられてしまう。
つまり、有事の現場では、その場の判断やリーダーの決断こそ大切であり、超法規的処置や権限がないとなるものもならないではないか、といっているとも取れるわけである。
まさに、いま、所信表明をした某首相がにわかに言い出した改憲論議の行き着く先だ。
だから、「シン・ゴジラ」の描き方は、ゴジラ贔屓で諸手を上げて賛同するばかりではいけない。そういう「刷り込み」にも近い権力側の協力意図はないとはいえない。
ゴジラの啓示を無視してはいけない。
「シン・ゴジラ」(公式HPより)。
ふとおもうが、グンデルで伊福部昭は難しそうだけど、ワヤンで「ゴジラ」はできるだろうか。
いつか、日本の民話や八犬伝や赤穂浪士とかできるといいね。創作という意味ではなく、伝統の延長で。
ともあれ、そうやって、それぞれの時代の「負」を背負わされて、「神殺し」に合うのが「ゴジラ」の役目でもある。ゴジラとは、もともとそういう存在なのだ。だから、懲りない人間たちの「負」が溜まれば、またやってくる。
54年から今年でちょうど60年余の歳月が経ち、またもや「ゴジラ」はやってきた。それが背負っている「負」とは何か。
そして、これで完結するのだろうか。
いや、やっぱり、「ゴジラは最後の一匹とはおもえない。」(は/265)
「ゴジラは最後の一匹とはおもえない。」は志村喬の名セリフだ。隣はヒロイン役の河内桃子。
全然関係ないけど、先日、タワレコでこんなポスターがあった。
いろいろやってるね。
ともあれ、そんな新作映画「シン・ゴジラ」を観た。正直にいうなら、実は二回観た。予想を上回る観客動員数らしい。
ま、もともとゴジラ好きというのもあるけれど、今回の「シン・ゴジラ」は、さすが庵野監督、子供向けの作品やハリウッドの怪獣パニック映画ではない、54年の「ゴジラ」を随分踏襲している点がよかったのだ。
「シン・ゴジラ」(公式HPより)。
もちろん、伊福部昭へのリスペクトも入っている。し、第一、総勢328名という出演者や関係者のラインナップもすごい。中でも、あの三人の監督が揃って出ていたのには驚いた。三人とは、原一男(生物学者役)、塚本晋也(古代生物学者役)、犬童一心(海洋生物学者役)である。
要するに、みんな出たいのだ。
そういう気分を反映してか、エンドロールで、役者のヒエラルキーがないのもいい。
また、今回のゴジラの動きは、野村萬斎が振り付けしたらしい。そう、だからゴジラはナンバなのだ。
それと、我が家でご贔屓の広島大学生物学の長沼毅教授も協力者にクレジットされていたのが目を引いた。これは、本を読んだことのある人なら推察できるかもしれない。きっと「あの場面」のアドバイスをしたに違いない。そう、たぶん「あそこ」だ。
う~ん、ま、結局、みんな出たいし、協力したいのだ。いいノリだとおもう。
キャスト一覧(公式HPより)。
切れの悪い生物学者役の原監督。どうもこういう映画にはやっぱり似合わないけど・・・。
日本人の基本は全部ナンバだった。
なぜ、そこまでみんなゴジラが好きなんだろう。
もちろん、演出も迫力あるし、54年のゴジラのすごみをいまに再現しているし、尻尾も長い。
けれど、問題は、その裏というか、背景にあるものである。
今回の「シン・ゴジラ」の「シン」とは、「真」であり、「新」であり、「神」であるそうだが、それも言い得て妙だ。
「シン・ゴジラ」(公式HPより)。
そもそも、54年のゴジラは、南洋からやってくる「英霊(戦争の御魂)」であり、津波や台風や地震などの「天災(自然)」であり、日本の「神(客神)」でもあった。
だから、アメリカに出したときに、Godを入れて、Godzillaになったのだ。
そこが抜けて、怪獣映画になってしまうと、ちょっと違うものになる。
ゴジラとは、敵対の対象ではなく、人間の愚行が反映されている「荒魂」であり、だからこそ、自省の念を込めて、きちんと「鎮魂」をして、お帰りいただくのが正しいやり方だ。少なくとも54年のゴジラはそうなっている。
少女たちの悲壮な「歌(言霊)」に心動かされた芹沢博士は、ゴジラにお帰りいただく「人身御供」となった。
54年のゴジラの上陸シーン。
「呉爾羅」伝説の残る大戸島の神楽。伝承に倣い呉爾羅様にお帰りいただく儀式を行う。
芹沢博士役の平田昭彦。
今回の「シン・ゴジラ」の場合、おそらく「原発」や「津波」の災害の象徴、遠くは71年前のヒロシマ・ナガサキの原爆から物語を因縁づけている。
ゴジラの登場と引き換えに消えた謎の牧博士とは何者か。クルーザーに残された「折り鶴」と賢治の「春と修羅」の意味するものとは。そもそもこの牧博士は、正義の見方なのか、マッドサイエンティストなのか。
それに、今回のゴジラが、幼体から自己進化するのはどういう意味を含んでいるのだろうか。
いくつか、どちらともとれる設定を忍ばせている。オーディエンスに委ねられた暗喩がいくらでも仕込まれているのだ。
原爆直後の広島。
3.11の避難所。
ただし、少なくとも「核」という人間の畏れを知らない行為の象徴であったり、人間の愚かさについての天からの声として登場したものの設定はうかがえる。
かつ、そういう事態に対する人間の対処方法の未熟も描いている。
とくに、欧米の脅威に対する核を使いたがる姿勢や、日本の危機監理体制の低さを事実に基づいて如実に表しているともいえるだろう。
そういう意味では、もしこれが正しいなら、いまの日本は、有事の危機には何の対応もできなさそうだ。
でもしかし、そこをもっとその背後をいうなら、これに協力した政府関係機関をみる限り、実はその裏があるのではないかとも勘ぐられてしまう。
つまり、有事の現場では、その場の判断やリーダーの決断こそ大切であり、超法規的処置や権限がないとなるものもならないではないか、といっているとも取れるわけである。
まさに、いま、所信表明をした某首相がにわかに言い出した改憲論議の行き着く先だ。
だから、「シン・ゴジラ」の描き方は、ゴジラ贔屓で諸手を上げて賛同するばかりではいけない。そういう「刷り込み」にも近い権力側の協力意図はないとはいえない。
ゴジラの啓示を無視してはいけない。
「シン・ゴジラ」(公式HPより)。
ふとおもうが、グンデルで伊福部昭は難しそうだけど、ワヤンで「ゴジラ」はできるだろうか。
いつか、日本の民話や八犬伝や赤穂浪士とかできるといいね。創作という意味ではなく、伝統の延長で。
ともあれ、そうやって、それぞれの時代の「負」を背負わされて、「神殺し」に合うのが「ゴジラ」の役目でもある。ゴジラとは、もともとそういう存在なのだ。だから、懲りない人間たちの「負」が溜まれば、またやってくる。
54年から今年でちょうど60年余の歳月が経ち、またもや「ゴジラ」はやってきた。それが背負っている「負」とは何か。
そして、これで完結するのだろうか。
いや、やっぱり、「ゴジラは最後の一匹とはおもえない。」(は/265)
「ゴジラは最後の一匹とはおもえない。」は志村喬の名セリフだ。隣はヒロイン役の河内桃子。
全然関係ないけど、先日、タワレコでこんなポスターがあった。
いろいろやってるね。