玉川上水の木漏れ日

 ワヤン・トゥンジュク梅田一座のブログ

■浜松のキングコング

2015年01月19日 | 路上観察
  

先日の浜松公演、あまりに寒かったので、楽屋へ行く途中、おもわず天を仰ぐと、ビルの上にこれがいた。
さすがのキングコングも寒そうだ。
キングコングよりはゴジラ派の僕としては、イマイチこのアメリカンなノリがしっくり来ない。

確かキングコングは、世界恐慌時の失業者の暴動や黒人に対する恐怖が投影されているという話だった。あくまで野生の凶暴な存在ながら、ヒロインの女性には優しい、報われない思いの象徴、「美女と野獣」の伝統も入っている。
ゴジラとの最大の違いは、南洋のジャングルから人の手で連れてこられるか、海の彼方から訪れる得体の知れない存在か、という点かもしれない。伊福部昭のテーマ曲が蘇る。

民俗学者の赤坂憲雄によれば、ゴジラは、水爆実験によって生まれた人類の災いの象徴である(ちょうど公開時には第五福竜丸も見え隠れする)が、それは人間が悪事に染まったとき、海の彼方からやってくる神でもあるという。
そこには戦争で命を落とした英霊たちも投影されている。だからゴジラは皇居を破壊しない、という。
それはまた、「天災」としての津波や台風の象徴でもある。ゴジラの冒頭、呉爾羅という畏怖なる存在に、かつて人身御供を捧げていたという島の言い伝えを語り、神楽を踊る場面がある。
だから、人々は、犠牲を払ってでも、ゴジラ様にお帰りいただくということしかできない。その人柱になったのが、芹沢博士である。博士は自身の開発した恐ろしい兵器を抱え、ゴジラと共に海の藻くずとなるのである。
最後に、志村喬が、「ゴジラは最後の一匹とはおもえない」という名台詞で終わる。
ゴジラには、対アメリカ、まだ少しは残っていた民俗風習と神観念、戦争と核という人間の愚行、災いを天災として誰を恨むというわけでもない日本の文化心情、そうしたものが合体した存在なのである。

やっぱ、エンタメにも神観念だね。
ま、それだけですが。(は)