ボルトは強かったね。ぶっちぎりではなかったけど、なんだかんだ勝っちゃうものね。
ダランも昔は陸上選手だったそうだし、いまも昔も世界中にスポーツにかけた人はたくさんいる。
日本にもかつて金栗四三という選手がいた。「日本のマラソンの父」といわれる陸上選手だ。日本初のオリンピック選手にもなったという。
その金栗の記事を1年ほど前に新聞で読んだことがある。「世界で一番遅いマラソン記録を出した人」ということだった。その後、この話を知っている人もいたので、それなりに知られた話なのかもしれない。
その顛末はこうだ。
1912年(明治45年)に開催されたストックホルムオリンピックでのこと。金栗は、マラソンの最中になんと行方不明になったしまったのだ。この大会は、日本が初めて参加したオリンピックでもあった。
実際は、熱中症(当時の日射病)で、近くの民家に担ぎ込まれたのであったが、目を覚ましたのが、翌日だったので、大会関係者の間では行方不明で処理されたらしい。
そういえば、いまは熱中症というけれど、昔は日射病といった。個人的にはいまでも日射病の方がイメージが直接的でわかりやすいとおもうけど、かなり範囲の広い症状を差すようになったから、医学的には熱中症という言い方の方が正しいんだろう、きっと。
ともあれ、北欧とはいえ、当日は稀にみる暑さだったようで、倒れたり棄権した選手も史上最多だったという。それにまあ、100年の前の話だから、当時はきっと馴れない長旅に、馴れない食事、馴れない環境、時差変調や睡眠不足もあったころだろう。誰だって万全な体制ではいられなかったということだとおもう。
それもまあ、終わってみれば笑いぐさというと失礼な話だろうけれど、地元でも「消えた日本人」として一時は話題になった話だそうである。
1912年のストックホルム大会開会式。旗手が金栗。
そこへ、1967年にスウェーデンのオリンピック委員会が、ストックホルム五輪55周年に際し、当時のことを懐古、記念する式典を開催することとなり、急きょ、当時話題だった金栗を招待することになった。
委員会が気が利いているのは、金栗は当時失踪したのであって棄権したわけではない、としたことである。
そこで委員会は、その式典のなかで、金栗を改めてゴールさせることにした。
マラソンはオリンピックの華、最後の競技というニュアンスもあったのであろう、式典と当時のオリンピックを印象づけるファイナルイベントになったという。
果たして招待状を受け取った金栗は、ストックホルムにやってきた。76歳になっていた。
金栗は、満場の観衆を前に、トラックをゆっくりまわり、ゴールのテープを切ったそうである。
このときの会場アナウンスが、こういうものだった。
「日本の金栗、ただいまゴールインしました。タイム、54年8ヶ月と6日と5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します。」
いいセンスしてる。金栗も長年のつかえがとれて救われたことだろう。当時はもちろん日の丸背負っていったわけだし。
それにしても、この第5回は随分長いオリンピックだったんだね。
でも、これで、金栗の記録は、世界最長のマラソン記録になった。もちろん正規の記録ではないが、これを破るのは相当難しい。
金栗は場内でのインタビューにこう答えたという。
「長い道のりでした。その間に5人の孫ができました。」
金栗は、小学生の頃、学校に行くために毎日12kmの道のりを走って通ったという。世界記録を出したときは「マラソン足袋」という本当にいわゆる足袋を履いて走ったそうだ。
東京オリンピックのマラソンで金メダルをとったエチオピアのアベベは、裸足だった。優勝した後もトラックを何周も走りつづけて、観衆の声援と祖国に勇姿を披露した。
ボルトも寒村育ちで、子供の頃はもちろん裸足。走り続けることが唯一の希望だったのだ。ボルトの村の子供たちはいまでも裸足だそうだ。
そういえば、初めてバリに行ったときも、クタで知り合いになった子供が毎日裸足だった記憶がある。古くはパンダワのご兄弟も裸足だね。ともかく、ま、世界中そういう場所はあったのだ。
で、その子たちのためにも、ボルトは走る。そして援助も惜しみない。ボルトは学校にも援助してきたし、昨年だけで数億円の寄付をしたそうだ。
それに、ボルトは背骨が曲がっていて、それを克服する走りを研究した。だからあんなにクネクネした独特な走りなのだ。
だから、単に突出した天才というだけではない。そこには人知れず努力もあったのだ。
「マラソン足袋」の金栗(左)。
最近は、世界陸上やワールドカップバレーや世界柔道など行われていて、みんなすごいね。そういうギリギリで勝負している人たちの中には、恵まれた環境の人もいるだろうし、もっとハングリーな環境で育った人もいるだろう。それぞれがそれぞれの宿命を背負っているのだ。
それに、お金をかけたから勝てる、というものでもない。東京はもう壊してしまったけれど、競技場だって、お金をかければいいというものでもないだろう。ストックホルムではないが、場所の記憶というのもある。
そもかく、競技会というものは、順位とは別に、それぞれの抱える背景をもって、真剣に勝負した人たちを祝福したい。(は/146)
晩年の金栗四三。5人のお孫さんは、Apa kabar?(和水町HPより)
ダランも昔は陸上選手だったそうだし、いまも昔も世界中にスポーツにかけた人はたくさんいる。
日本にもかつて金栗四三という選手がいた。「日本のマラソンの父」といわれる陸上選手だ。日本初のオリンピック選手にもなったという。
その金栗の記事を1年ほど前に新聞で読んだことがある。「世界で一番遅いマラソン記録を出した人」ということだった。その後、この話を知っている人もいたので、それなりに知られた話なのかもしれない。
その顛末はこうだ。
1912年(明治45年)に開催されたストックホルムオリンピックでのこと。金栗は、マラソンの最中になんと行方不明になったしまったのだ。この大会は、日本が初めて参加したオリンピックでもあった。
実際は、熱中症(当時の日射病)で、近くの民家に担ぎ込まれたのであったが、目を覚ましたのが、翌日だったので、大会関係者の間では行方不明で処理されたらしい。
そういえば、いまは熱中症というけれど、昔は日射病といった。個人的にはいまでも日射病の方がイメージが直接的でわかりやすいとおもうけど、かなり範囲の広い症状を差すようになったから、医学的には熱中症という言い方の方が正しいんだろう、きっと。
ともあれ、北欧とはいえ、当日は稀にみる暑さだったようで、倒れたり棄権した選手も史上最多だったという。それにまあ、100年の前の話だから、当時はきっと馴れない長旅に、馴れない食事、馴れない環境、時差変調や睡眠不足もあったころだろう。誰だって万全な体制ではいられなかったということだとおもう。
それもまあ、終わってみれば笑いぐさというと失礼な話だろうけれど、地元でも「消えた日本人」として一時は話題になった話だそうである。
1912年のストックホルム大会開会式。旗手が金栗。
そこへ、1967年にスウェーデンのオリンピック委員会が、ストックホルム五輪55周年に際し、当時のことを懐古、記念する式典を開催することとなり、急きょ、当時話題だった金栗を招待することになった。
委員会が気が利いているのは、金栗は当時失踪したのであって棄権したわけではない、としたことである。
そこで委員会は、その式典のなかで、金栗を改めてゴールさせることにした。
マラソンはオリンピックの華、最後の競技というニュアンスもあったのであろう、式典と当時のオリンピックを印象づけるファイナルイベントになったという。
果たして招待状を受け取った金栗は、ストックホルムにやってきた。76歳になっていた。
金栗は、満場の観衆を前に、トラックをゆっくりまわり、ゴールのテープを切ったそうである。
このときの会場アナウンスが、こういうものだった。
「日本の金栗、ただいまゴールインしました。タイム、54年8ヶ月と6日と5時間32分20秒3。これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します。」
いいセンスしてる。金栗も長年のつかえがとれて救われたことだろう。当時はもちろん日の丸背負っていったわけだし。
それにしても、この第5回は随分長いオリンピックだったんだね。
でも、これで、金栗の記録は、世界最長のマラソン記録になった。もちろん正規の記録ではないが、これを破るのは相当難しい。
金栗は場内でのインタビューにこう答えたという。
「長い道のりでした。その間に5人の孫ができました。」
金栗は、小学生の頃、学校に行くために毎日12kmの道のりを走って通ったという。世界記録を出したときは「マラソン足袋」という本当にいわゆる足袋を履いて走ったそうだ。
東京オリンピックのマラソンで金メダルをとったエチオピアのアベベは、裸足だった。優勝した後もトラックを何周も走りつづけて、観衆の声援と祖国に勇姿を披露した。
ボルトも寒村育ちで、子供の頃はもちろん裸足。走り続けることが唯一の希望だったのだ。ボルトの村の子供たちはいまでも裸足だそうだ。
そういえば、初めてバリに行ったときも、クタで知り合いになった子供が毎日裸足だった記憶がある。古くはパンダワのご兄弟も裸足だね。ともかく、ま、世界中そういう場所はあったのだ。
で、その子たちのためにも、ボルトは走る。そして援助も惜しみない。ボルトは学校にも援助してきたし、昨年だけで数億円の寄付をしたそうだ。
それに、ボルトは背骨が曲がっていて、それを克服する走りを研究した。だからあんなにクネクネした独特な走りなのだ。
だから、単に突出した天才というだけではない。そこには人知れず努力もあったのだ。
「マラソン足袋」の金栗(左)。
最近は、世界陸上やワールドカップバレーや世界柔道など行われていて、みんなすごいね。そういうギリギリで勝負している人たちの中には、恵まれた環境の人もいるだろうし、もっとハングリーな環境で育った人もいるだろう。それぞれがそれぞれの宿命を背負っているのだ。
それに、お金をかけたから勝てる、というものでもない。東京はもう壊してしまったけれど、競技場だって、お金をかければいいというものでもないだろう。ストックホルムではないが、場所の記憶というのもある。
そもかく、競技会というものは、順位とは別に、それぞれの抱える背景をもって、真剣に勝負した人たちを祝福したい。(は/146)
晩年の金栗四三。5人のお孫さんは、Apa kabar?(和水町HPより)