敗戦を知った時の国民のショックは多種多様であったに違いない。それまで戦況は軍部統制下の「大本営発表」でしか知らされず、それは戦意高揚を目的としたもので必ずしも正しい情報を伝えられてはいなかった。度重なる本土への空襲、神風特攻隊をはじめとする必死攻撃、日増しに厳しくなる物資の不足、あるいは戦線から帰国した兵隊による情報などから、実は戦況が不利であることは人々も感じていたが、やはり突然の「降伏」はすぐには信じられず、目標を失った茫然自失の状態であっただろう。大人も子供も悔しさをかみしめていた。また、一方で安堵があったとすれば、それは、もう空襲が来ない、空襲警報の度に防空壕に逃げ込むこともない、夜も灯りを点けてすごせる、といったわずかな解放感であっただろう。しかし、それよりも人々は、アメリカに占領されるという大きな恐怖と不安の中にいたのである。
また、当時日本の領土であった外地と呼ばれる満州や朝鮮などで終戦を迎えた日本人にとっては、引き揚げまでの長い戦いの始まりでもあった。
例えば当時満州・延吉国民学校四年生だった女性のこのような手記がある。
「終戦の日から、日本人と中国人、韓国人の立場が一日にして逆転しました。
連日、日本人家庭への暴動と略奪に見まわれました。南下したソ連兵の宿舎として日本人官舎は立ち退き命令。
日本兵のほりょ姿は悲惨で筆舌につくしがたい気の毒な光景。あの夏服姿の日本兵が、極寒のソ連へ連行されて、どうして生きのびることができたでしょう。
父は戦争でいまもって行方不明。昭和三十年に遺骨のない葬儀を日本でいたしました。
私共家族は、日本人集団と共に昭和二十一年十月、博多方面経由で日本に帰国しました。」
(「8月15日の子どもたち」あの日を記憶する会編)
朝鮮では日の丸の半分を青く塗りつぶした大極旗と「マンセー」(万歳)の声にあふれる中を、また満州ではソ連軍の侵攻を受けながら、日本人は大変な苦労をしながら、子どもたちの多くにとってはまだ見ぬ祖国である内地を目指した。「そして中国残留孤児の肉親探しなどに見られるように、今もなお引き揚げは続いているのである。」
http://wwwi.netwave.or.jp/~mot-take/jhistd/jhist3_5.htm
他には----------------------------------
お菓子の日(毎月)
▲フランシスコ・ザビエル一行が鹿児島に上陸。日本でキリスト教の布教が始まる。(1549)
▲江戸市中に火の見やぐらの制、定まる(1723)
▲阿蘇山、噴火(1786)
▲蝦夷、北海道と改称(1869)
▲キャンディーの製造、はじまる(1899)
▲与謝野晶子の「みだれ髪」刊行(1901)
▲太平洋と大西洋をつなぐパナマ運河開通(1914)
▲わが国初のオリンピックメダル種目はテニスで、銀メダル(1920)
▲出征兵士の歓送迎、防空演習、勤労奉仕、生活必需品の配給など、戦争への国民の総動員をはかる目的で回覧板、登場(1939)
▲ソウルで朝鮮建国準備委員会が発足。(1945)
▲第28回全国中等学校優勝野球大会が開幕。戦時中中断されていた中等学校野球大会が再開。(1946)
▲インドがイギリスから独立。(1947)
▲大韓民国が成立。(1948)
▲日比谷公会堂で日本政府主催の全国戦没者追悼式が初めて行われる。(1963)
▲富士山頂レーダーが完成。(1964)
▲文世光事件。在日韓国人文世光による韓国の朴正煕大統領暗殺未遂事件。大統領夫人陸英修が死亡。(1974)
▲ 津川雅彦長女誘拐事件。翌16日に誘拐犯が逮捕され、人質を保護。(1974)
▲ バングラデシュで軍事クーデター。初代大統領ムジブル・ラフマンとその家族が陸軍部隊により暗殺。(1975)
▲三木武夫首相が現職首相としては初めて終戦の日に靖国神社に参拝。(1975)
▲大島渚監督「愛のコリーダ」わいせつ起訴(1977)
▲宮城県でわが国初の凍結卵子の体外受精成功(1991)
▲村山富市首相が、第二次世界大戦における日本の植民地支配と侵略を反省し謝罪する村山談話を発表。(1995)
誕生:山東京伝(江戸後期の戯作者1761)
ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝1769)
シルビー・バルタン(歌手1944) 目黒祐樹(1947) 渥美二郎(歌手1952)
風祭ゆき(1955) サンプラザ中野(ミュージシャン1960) 愛甲猛(1962)
麻生祐未(女優1964) 金城綾乃[Kiroro](1977)
誕生花:ひまわり (Sun Flower) 花言葉:光輝