明日香の細い道を尋ねて

生きて行くと言うことは考える事である。何をして何を食べて何に笑い何を求めるか、全ては考える事から始まるのだ。

芸術についての一考察(7)プレパトでジュニアが永世名人に!

2023-01-20 12:21:00 | 芸術・読書・外国語
昨日のプレパトでジュニアが出した句は、冬の名物「おでん」に関しての一句である。最近のジュニアは「スプレー画」は勿論の事、「俳句」でも才能を発揮して「只のお笑い芸人」の枠に収まらない多才な処を見せていた。今回は永世名人昇格をかけて詠んだ俳句だけに、内心期するものがあったのだろう。出来栄えはどうか?と、私は珍しく身を乗り出して見ていた。
 
ジュニアはこのお題が出てからずっと「どう言う風に句を作ろうか」と考えていたそうである。そんな折、とあるおでん屋に入って主人が作ったおでんを一杯よそって神棚に上げているのを見て、「これだ!」と一句浮かんだという。それが次の句
 
「おでん屋の 一杯目は先ず 神棚へ」
 
である。この句について先輩名人の梅沢富美男は「これだけの句を作れれば、昇格間違い無しですよ」と、作品の出来に太鼓判を押した。果たして評価は如何に?と思っていたら、先生のまさかの指摘にジュニアの自信が揺らぐ。先生は句全体の意味が「の」や「は」や「へ」の使い方で大きく変わる、と言うのだ。客席にどよめきが走る。
 
まあこれは番組構成上、話を面白くする為の「言わずもがなの言葉」のような気がした。作品自体には、何の疑問も迷いもない。目の前で起きた事柄をストレートに表現した句である。では、どこにこの句の良さが出ているのだろうか?。私が思うに、この句のポイントは「先ず」の言葉である。
 
店を開ける準備を終えておでんの味を確かめたら、お客に出す前に「先ず」一杯目を神棚に上げて、商売繁盛と家内安全を祈る。それを目にしたジュニアも、その主人の生活の中に組み込まれた「日々の勤め」を当たり前のように受け止め、商売に忙しい市井の人々の心を支えている「神様」に、内心ではそっと一礼したのではないだろうか。特に意識することもない普通の事だし、ジュニアも俳句のお題になっていなければ、気にもせずに忘れていただろう。店を開けたばかりの早い時間に入った客は誰でも、毎日目にするルーティンである。
 
この誰も気にしない当たり前の事が、句全体の五七五に上手に纏められサラッと詠まれていて、まさにお手本のような仕上がりになっている。初句から末句まで、聴く側に寸分の迷いもなく状況を描き切る手腕は、流石に名人の実力躍如だ。だが字面から受ける印象は、ただ単に主人の動作をそのまま読んだだけの単純至極な作品に見える。
 
ジュニアは何かを感じてそれで「ハッとして」句に詠んだ筈なのに、一寸見にはどこにもエモーショナルな感情というのが見えないのだ。これでは説明不足ではないのか?
 
そこが俳句、更には和歌という「短い形式」に込められた、日本伝統の「隠された二重構造」なのだ。これは小野小町の有名な和歌「花の色は・・・」のような、表に出ている「意味の二重構造」の事ではなく、例えば何気ない生活の一部や見慣れた風景を切り取って、それを眼前に呈示しながら、「実は」その後ろに人間の心の「喜怒哀楽を描いて見せる」所に、作者の腕前が表れるのである。
 
そのキーワードが「は」という助詞である。二句目の一杯目はと言うかわりに「一杯目を」とやったらどうであろう?
 
この場合は、一杯目を神棚に上げる主人の行動が強調されて、詠み手と句の焦点が「店の主人」の動作に集中してしまって、別の意味合いの句になったのではないか。勿論ジュニアには「そんなつもり」はサラサラなかったので、迷いなく「一杯目は」としただけである(私にはそう思える)。「は」とした場合は動作全体が背景の中に少し引いて、忙しく働く一連の動きの一つとして群像劇の中に「埋もれた感じ」に一瞬なる。その何気ない動作に、寒い冬の商店街のおでん屋の活気溢れる店内の喧騒と、人々の笑顔と屈託のない笑い声に包まれた「ささやかな平和」を微笑ましく見つめる作者がいる。
 
そういう情景を、たった17文字で表現するのが俳句なのである。
 
というわけで、俳句の醍醐味は(他の絵画にしろ音楽にしろ、芸術全般に言えることだが)即物的な情景を、誰にでも分かるように具体的に説明する文字と、もう一方で言葉には現れないが「その裏に」二重に込められた「人間の感情」とを、見事にバランス良く両立させた処にある。
 
あんまり上手じゃない人の作品はこの表と裏の2つの要素、現実と心理の二面性をストレートに表現の中に固定出来ないので、何だか分かりにくいボヤケたものになりがちである。目の前の景色または情景に、自分は「どういう感情」を覚えたか?。その二つが明確で誰にでも理解しやすく、共感を得られるものであればあるほど良い作品になる。
 
だが勘違いしやすいのが「感情の方」を事細かく説明しようとして、全てを台無しにしてしまうことである。説明するのは「情景」の方だけで良いのだ。それがピンポイントに「くっきり描け」ていればいる程、それに対応する「表現したい感情」は、自然と聴くものの心の内に浮かんで来るはずである。名作と言われているものであればある程、この両者の関係は「不可分」で一体のものになる。
 
・・・以上、私の考えている俳句(勿論、和歌も)の芸術性の「基本構造」である。これだけでもきちんと描ければ、どんなコンクールでも佳作ぐらいには必ず入ると思う。後は「表現された感情」が、ズシンと心に響くかどうかだけど・・・、まあこればっかりは才能だからどうしようもない。しかし今回のジュニアの作品は、俳句の神様「芭蕉」一門の末席には連なったんじゃないだろうか。軽みがあってさりげなく、それでいてじんわり来る人生の深みが感じられる。永世名人昇格は当然である。


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